見出し画像

東風(こち)吹かば・・・

 先日、「梅を残して引越せり」で、5年前に横浜の家を処分した話を書いたが、更にさかのぼって1997年、50歳の時に広島県福山市に単身赴任する時の情景を思いだした。
 
 当方は1969年に大学の工学部を卒業し某大手鉄鋼会社に入社して以来、ずっと川崎の製造所に勤務していた。心身の苦労が多く、様々な紆余曲折があるも、それなりに階段を上っていたが、48歳のある日、突然ラインを外されて中国とのプロジェクトを担当するよう指示された。自分とは関係のない会社上層部間の都合による左遷だが、社命だから仕方がない。
 
 東京の本社に異動になり、川崎時代と同じく横浜の自宅から通勤するが、仕事はあまりない。特に1年経った頃には、会社に行っても何もすることがなく、仕方がないのでPCのブラインドタッチを練習し、ワード・エクセルを覚えることで時間をつぶしていた。今思えばこれが意外と後々役に立ち、儲けものだった。同時に自分の行く先を自分で切り開こうと、社内外の人脈を当たり、具体的に2,3のポジションを確保した(つもりだった)。
 
 そんなこんなで2年過ぎ、50歳になった2月のある日、福山製造所の所長(常務)が本社に来て、私を呼び、お前を4月1日付で福山に異動させ、所長の右腕で福山全体を管轄する立場につける、と告げられた。福山製造所は会社売り上げの7割を占める最重要拠点だ。思わぬ抜擢に驚いたが、ともかく、ハイ、わかりました、と返事をする。所長が川崎の製造所にいた時から、当方に目をつけ、タイミングを計っていた・・・・らしい。
 
 福山は瀬戸内海を望む穏やかな街で、当社の城下町とも言われ、生活はし易い。単身赴任する管理者専用の社宅があり、たまに奥方が監視に来ても泊まれるように、間取りは2DK。4月1日に着任するが、単身赴任のための多少の荷物を抱え、準備のために2日ほど早めに妻と共に向かう事にした。当時、二人の息子は共に大学生、特に手はかからず、お金さえ置いておけば何ら問題ない。
 
 3月29日、福山に向かう日の朝、何時もの通り、一階の和室でウトウトしていると、庭から鶯の鳴き声がホーホケキョと聞こえてくる。鶯の鳴き声は偶に聞くことはあるが、あれほどはっきりと聞こえるのは初めてだった。今日は福山に行くのだろ、そろそろ起きろと言っているようだ。起き上がって雨戸を開けると、明るい朝日が射しこみ、目の前の梅の木からの香りが漂う。
 
 「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
横浜から福山までは新幹線で4時間程度、菅原道真の時代とは比べるくもないが、この歌はまさにあの時の自分だった。

いいなと思ったら応援しよう!