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過去は優しい幻(ゆめ)だから

「なんか、久しぶりだな」
 駅のホームを出た女性は空高く昇っている太陽の光を浴び、久方ぶりの自然豊かな風景に思わず深呼吸をする。

 ここは吹嶋市。人口は大体20万人くらい。高齢化社会がかなり進行しており近年は少子化問題が危惧されているらしい。
 私はこの町を二年くらい離れていたし、就職先も県外の予定なのでこの町で暮らすことはないだろうから他人事だと思っていたりする。
 有名なことと言えば、この地域ではお盆が大切にされており、大規模な灯籠流しが町全体で行われる。
 この町で暮らす数少ない若者の世代にはその文化も薄れつつあるみたいだ。かくいう私はあまり興味ないがあっても良いのかな、なんて思ったり思ってなかったり。
 あとは至って普通の田舎町だと私は思っている。
「さて、と」
 一通り景色を見渡すと三年前の記憶を頼りに目的の場所へと向かう。街並みは何一つ変わらず、まるで時間が止まっているのではないかと錯覚するくらいだ。
 人の手がつけられていない雑草だらけの空き地を過ぎ、古びた喫茶店を少し過ぎたところに目的の場所がある。
 店先には色鮮やかな花が飾っており、木造の看板には『』という謎の記号のみ。これで空(そら)と読むらしい。
「いらっしゃいませ…あら」
 店の奥の方から聞き覚えのある女声が聞こえてくる。
「ただいま。お母さん」
 なんだか少し照れくさい。考えてみれば一人暮らしを始めてからただいま、なんて言ったこともなかった気がする。
「おかえり、しぃちゃん」
 母は私の記憶の中にいる母と同じ笑みで返してくれる。それがまたくすぐったかった。
「それで、今度はいつ頃帰るの?」
母は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぎながら私に尋ねてくる。私はそこまで考えていなかったので適当に返事をした。
「んー、未定」
 そういうと麦茶の注がれたコップを受け取り口をつけた。冷えた麦茶が喉を通るたび、夏の日差しで水分の失われた体へと染み渡る。
「せっかくだし灯籠流しの日まで居なさいよ」
 今まで何度も見て育って来たから別に今更とも思ったが、三年ぶりに帰って来たわけだし母の提案を断るのもなんか嫌だ。とにかく日にちを聞こう。
「んー灯籠流しねぇ…今年はいつなの?」
 そう問いかけると母は居間の壁に貼り付けてあるカレンダーを指差しながら三日後と言う。
「まぁ、それくらいなら…」と答える。
別に母と一緒に居たくないわけじゃないし、実家が居づらいっていうワケでもない。ただ、母とどう接したらいいか忘れてしまったのかもしれない、と思う。
「そう言えば工くん、元気にしてるの?」
「えっ?」
 母の口から発せられた名前に思わず胸の奥が苦しくなる。
 細貝工(ほそがい たくみ)、高校の時に付き合っていたわたしの初めての彼氏だ。でも大学に通い出すと互いに忙しくなり連絡がなかなかできなった。連絡しない時間が長ければ長い程、次第に連絡もしづらくなり気がつけば自然消滅していた。
 今思えば彼のことを本当に好きだったのかと自分に疑問を覚える。本当に好きだったら少しの時間を見つけて連絡を入れたんじゃないのか? 連絡がしづらかったんじゃなくて本当は連絡するのが面倒くさかったからなのかも? そう思えば思うほど彼へ申し訳ない気持ちにもなった。
「さ、さぁ? 大学行ってから疎遠になったし…」
「そう、なんだ」
 母は少し申し訳なさそうな顔をする。
「気にしないでよお母さん、きっとそういう縁だったんだよ」
 自分で言っててまた胸が痛む。こういう時、私は彼のことが本当に好きだったのかもと思える。
「なんか少し疲れたった」
「そう、ね。しぃちゃんの部屋、毎日掃除してあるから」
 母はそう言うと仕事に戻って行った。別に毎日掃除しなくてもいいのに、と思ったがそれが何とも母らしいと笑う。
「じゃあ少し休ませてもらおうかな…」
 私は階段を登っていくと記憶のままの自分の部屋の扉がある。その扉を開くと確かに掃除をされた痕跡が残っている。
「なんか懐かしい」
 そう呟きながら自分のベッドに身を投げ出す。長旅をしてきたからか、それとも暮らし慣れた場所に帰ってきて安心したからなのかすぐに眠りに落ちた。

 様々な夢を見た。工が告白してきたときの夢、初めて工とデートをした時の夢。工ばっかり夢に出てきた。
――ねぇ、君は私のこと、ほんとはどう思っていたの?

「ん……」
 騒がしい虫の鳴き声にゆっくりと目蓋を開く。目を何度か擦り、枕元に投げっぱなしになっている携帯に目をやると、青い光が何度も点滅していた。
 誰からだろうと思いながら携帯を開くと差出人不明のメールが一通届いていた。
『間橋で会いたい』
 メールの中身はたったそれだけ。いかにも怪しいメールで、普段のわたしなら確実にこんなメールはゴミ箱行きにするだろう。でもなぜかこのメールした人物は工なんじゃないかと期待している自分がいた。
 身支度を簡単に済ませると、階段を駆け降りると丁度私を起こしに来たであろう、母の姿があった。
「しぃちゃん、起きてたのね?そろそろご飯に」
「ごめんお母さん、ちょっと出かけてくる」
 携帯を片手に家を飛び出した。
 もしかしたら工かもしれない。今、この胸の鼓動は走っているからじゃない。私は今でも工のことが好きなんだ。そう思えば思うほど、胸の鼓動はさらに高まっていく。
 夏の薄暗い夕闇が町と町を繋ぐ橋を、息を整える一人の女性の影をも染める。風はまだ熱気を帯びている。烏の鳴き声が響く。
 私は橋から山の向こうへと沈んでいく夕陽をただ静かに眺めた。
「久しぶりだね、詩音」
聞き慣れた声に彼女は思わず振り返り彼の名を漏らす。
「工(たくみ)……」
 二人の間を夏の風が吹き抜ける。
「ひ、久しぶり……」
 胸の鼓動は一向に収まる気配がない。頬はずっと熱を帯びている。声は震えている。
「うん、久しぶり。大学行ってから中々連絡できなくてごめんね」
 工はあの時と同じように微笑み返してくれる。
「どうして、ここに? 私、今日実家に帰るなんて…」
「なんとなくね」
「そうなんだ」
 気まずい会話がしばらく続く。沈黙を遮るかのように夏の虫たちが騒ぎ続けた。


「なんかいいことでもあったの?」
 母の一言ではっと我に変える。
「まぁ、あったかも」
 母はふぅん、と言いながら皿洗いを続ける。蛇口をキュッと閉めると同時に意地悪な顔をしながら「工くん?」と付け足す。
「っ! ま、まぁ、そうかもね」
 自分の顔がこれまでにないくらいに熱くなる。
「分かりやすいわね、しぃちゃんは」
 クスクスと母は笑いながら私の向かいの椅子に座る。母にはいつも敵わない。実はこっそり後をつけられているんじゃないか?と思うくらい母はいつも私の気持ちを察してくる。そしてからかってくる。
「また会えたんでしょ? この縁、大事にしなさいな」
 その時の母の表情はとても寂しそうで、苦しそうだった。母は「もう寝るから」と残して寝室へ向かう。
「そう、おやすみ」
 私は母に手を振りながら言う。母もそれに振り返す。しばらくして、寝室から母のすすり泣く声が聞こえてきた。
「あなた、どうして…?」
 父が亡くなってもう、10年。普段はあまり喧嘩をしない夫婦だった。でもある日、父が母との大切な約束を破り喧嘩になった。父は家を飛び出した母を追い、事故にあって亡くなった。母はそれを目の前で見ていた。
 それ以降、母は寝室へいくたびに一人で泣いていた。すすり泣く母の声に居た堪れなくなった私は少しのお金を持って静かに家を出た。
「かっこ悪い…」
 思い出した。大の大人、そして自分の母が涙を流す姿はかっこ悪く見えてしまった。それが本やドラマを見て感動した涙ではなく、後悔の涙だからこそ、より一層哀れでしかがない。
 道路の小石を蹴りながら明かりの点々とした街を歩く。そんな時、後ろから声をかけられた。
「あれ、詩音じゃん」
 振り返るとそこには短髪でガタイ青年が立っていた。
「えっと、浜木先輩?」
 浜木先輩はニカッと笑うと髪をかきむしりながら近寄ってくる。
 浜木先輩は高校の時の先輩で、同じ委員会に所属していてとても話しやすい先輩だった。そんな人だから先輩後輩問わず、浜木先輩に相談をしにくる人は少なくなったし、本人もそれを断ったことはないという聖人みたいな人だ。
 私も先輩に相談した人のうちの一人だ。
「久しぶりだな、大学の方はどうなんだ?」
「まぁ、ぼちぼちです」
 私は「あはは」と笑いながら答える。
「なんだ、その、お母さんか?」
 浜木は少し申し訳なさそうに訪ねてきた。過去に一度、先輩にはお母さんのことを相談していた時があった。彼はまだそれを覚えていたのだろう。
「はい、そんな感じです」
「すぐそこにファミレス、できたらしいんだ。相談、乗るぞ?」
「はい」
 うつむきながら浜木の後ろを追っていく。ファミレスまでの道のり、先輩も私も言葉が出てこなかった。
「ついたぞ」
 そこで初めてふと顔を上げた。そこにはいかにも改装しましたオーラが漂うお店だった。
「先輩、リニューアルオープンって」
「どっちも同じようなもんだろ」
 そう言ってお店の中に入り、店員の案内で窓際の席に座った。
「そうか、まだ…」
「なんか、見っとも無いな、なんて」
 なぜかこの先輩になら何でも話せてしまいそうな気がする、なんて思う暇もなく次々と自分の本音が溢れ出す。
「自分の家族のそんな姿を見ちゃうとな、そう思うわな」
「なんか、私はここの街が嫌いなんだと思います」
 自分でもこんなことを口にするなんて思わなかった。自分の生まれた場所を嫌いだなんて。
 先輩は「そうか」と肯定も「そんなこと」と否定もしなかった。どう返答したらいいのか露骨に悩んでいるようだった。少しすると店員がお冷を差し出してきた。先輩は店員が背を向けると同時に手に取りぐいっと一気に飲み干す。
「どうして嫌いなんだい?」
「変わらないんですもん」
「変わらないって?」
「わかりません。でも、変わらないんです」
「そうか」
 先輩は再びお冷に口をつけるが飲み干したことを忘れていたようでそっと机に戻す。
「でもなんかスッキリしました。こんなこと、他の人には言えませんから」
「そうか?なんか答えられなかったし、聞いてるだけだし」
「いいんです、別に」
「そうか」
 そのあとは他愛のない会話をした。学校のこととかこれからのこと。仕事のこととか、よく知りもしない社会のこととか。気がつけば日付を跨いでいた。
 私は別に構わなかったし、家にあまり帰りたくない気分だったが、先輩が帰ろうというので帰ることにした。
 お店を出ると私は浜木先輩にお辞儀をする。
「なんか夜遅くまですいませんでした」
「別にいいよ、いつものことだし」
 先輩はそう言って笑う。この人はいつもこんな感じだ。自分のことよりも他人を優先する。誰にでも優しいから、恋人ができない。
「なぁ、お前って今、誰かと付き合ってるか?」
「え?」
 先輩からの質問に思わず聞き返す。
「何で…ですか?」
「いや、何となく」
 あれ? 私って、工と今付き合っているのかな?
自然消滅したはず。でも再会したし、もしかしたら私ひとりが自然消滅したって思い込んでるだけで、工はまだ付き合っている気でいるのかもしれない。
あれ? でも私は今日ここに来るまで工のことなんて殆ど忘れていた。
「おい、大丈夫か?」
「えっ?」
 浜木先輩の声でハッと我に帰る。気がつくと私の頬は濡れていた。そんな自分に一番自分が驚いていた。
「目にゴミが入ったのかも、先、帰ります」
「あ…でも、もう暗いし送るよ」
「大丈夫ですからっ!」
 思わず声を荒げる。
「そんなんだからっ彼女できないんですよ! この童貞優男!」
「ちょっと」
 浜木先輩の静止を振り切り走り出した。走って、走って、走り続けた。胸が苦しくなる。これは走っているからだ。好きな人と一緒にいるときの苦しさとは違うものだ。ほら、心臓が痛み出した。バクバクと脈打ってる。これは走っているからだ。
(でも、あの時の胸の苦しさは、どっち?)


「もう、朝か…」
 結局あの後私はずっと公園にいた。公園についてからずっと自問自答を繰り返していた気がする。でもどんなことを考えていたのかは覚えていない。
「とりあえず…帰ろ」
 疲れ切った顔でフラフラと自宅に続く道を歩き始めた。車が車道を行き交い、お店が開店していく音がする。ゴミ捨て場の近くで井戸端会議をする奥様方が見える。
「あ、しぃちゃん。出かけてたのね、だったら置き書きくらいして言ってよ。もう…」
 聞き慣れた母の声が聞こえる。あぁ、もう家についたのか。
「ひどい顔して…朝ご飯、用意してあるわよ?」
「ありがと…でも、先寝る…」
「そう? じゃあ、冷蔵庫入れとくね」
「うん…」
 最早、自分が何を話しているのかもわからなくなってきた。足元がおぼつかないまま階段を登る。手すりに体重を乗せながら一歩ずつ、ゆっくりと登る。
 そして昨日と同じようにベッドへと身を投げ出す。
(私は工のことを好きなはずだ。だから工に会えた時ドキドキした。だから頬が熱くなった。こう感じているのは今なんだから)

 また夢を見た。
工と疎遠になり始めた時のこと、それからの事。
「彼氏いるの?」
 よく聞かれる質問。他愛のない会話で聞かれる事。その質問に、私はなんて答えていたっけ?
「いないよ」
 そうだった。私はそう答えていた。
「あの子また彼氏とデデデーシー行くんだって、いーなー私も彼氏ほしー」
 いつか女友達と行こうと言っていたデデデーシーの約束を破った子がいた。そんな時の会話。
「うん、私も彼氏欲しいな」
 彼氏がいるのに? 
夢の中の、過去の私が尋ねる。
(本当に工を好きだった?)
(今でも工のことが好きなの?)
(でも私は工をなかったことにした)
(工は私の心にはいなかった)
――じゃあ、この気持ちはどこから来たの?

「すいませーん、いませんかぁ?」
 その声で目を覚ます。多分お客さんだろと再び目蓋を閉じようとするがお客さんは何度も人を呼ぶ。母が対応する様子もないので、簡単な身支度だけ整えると階段をおり、お店の方にでる。
「あ、来た来た…ってあれ?」
「あっ…」
 そこに居たのは高校のときの同級生の女友達だった。
「帰ってたんだねー。連絡くらいくれればよかったのにー」
「まあ、ね。レイン消えちゃってたし…」
「あ、そうだったね。じゃあせっかくだしまた交換しよー」
 女友達はポケットから携帯を取り出すが、自分が降りて来た理由をふと思い出した。
「って、用事は?」
 そういうと彼女は思い出したように品物の花を指差す。
「これちょーだい」
 彼女が指差したのは白い小菊。
「誰かに送るの?」
 私が尋ねると彼女は複雑な表情をしながら言う。
「え? だってあなたが付き合って居た細貝くん2年前に亡くなったじゃない? 私お葬式参加できなかったから、せめてお墓詣りくらい、ね?」
「え?」
「ちょっと待って? 今なんて言った?」
 思考が一瞬止まった。何もかもが分からなくなる。彼は既にこの世に居ない?
「でもっ…えっ…? えっ…?」
 でも、私は確かに彼に会った。そして言葉を交わした。なら、私が話した彼は一体? 夢、なのだろうか? 
 でも、彼と会った時の胸の高鳴りは夢なんかでは無かったはずだ。そう思考が彼の死を受け付けない。
「とりあえず、はい。お金、ぴったりだから。じゃあ、また」
 彼女はそう言って店を出て行った。気が付けば私の掌にはぴったりのお金が握られていた。
 それから先のことは覚えていない。自分がどうやって自室に戻ったのかも、母がどこに行っていて、いつ帰って来たのかも。いつ夜になって、どれくらいの時間が流れたのかも。そんな事、どうでもよかった。私にとって今大事なのは工が死んでいるのか生きているのか。それ以外のことすべてがどうでもいい。
 この数日間、ようやく取り戻しかけたあの日の気持ち。確かに芽生えかけていたはずの想い。これらは一体何だったのだろうか? やっぱり、彼の夢をみて懐かしい気持ちになっただけ? あの時の気持ちになった気になっただけ? 思い出が、過去が私の心をそう思わせただけ?
 きっと私は彼の事が好きなんだ。だから胸が痛いし、苦しい。でも好きな工はこの世界に居ない。
 胸がただ痛い。それと同時に変な感じだと嘲笑する。悩む必要はないのかも知れない。好きなあの人はいないんだ。切り捨てればいい、割り切ればいい。工を忘れたあの時のように。『きっとそういう縁だったんだ』と。
 そのはずだったのに、なぜかそういう風に思えない。そういえば、母はどう思っているんだろう。もうこの世にいないお父さんのこと。そう思うと自然と足は母の元へと向かっていた。
 いつもなら長くは感じないはずの居間へと続く廊下と階段が今だけはとてつもなく長く思える。ひんやりとした床をぺたぺた歩く。自分はこれから母にとんでもないことを聞こうとしていると、今更になって気付く。
 小さく溜息を洩らすが、ここまで来た以上引くに引けない。もし、居間に丘さんがいなければ戻って寝よう。そう胸に誓い居間の扉を開けた。
 そこには疲れた表情の母がいた。
「母さん、ちょっと、いい?」
「なぁに?」
 やっぱり、私はこの顔をしている母が嫌いだ。でも、きっと今の私の顔もこんな風になっているのだろう。
「もし、さ…好きな人が、もうこの世にいないとしてさ、そんな人がある日突然、自分の目の前に現れたら…母さんならどうする?」
 母の表情は一層暗くなる。眉間にシワを寄せる。そして祈るように手を重ねる。
「そうね、私はただ、謝り続けるかもしれないわ。母さんは…母さんを許せないから。誰も許してはくれない。私が私を許さない限り、ずっと懺悔し続けるの。私は私を罰するの」
「でも…父さんは許してくれると思うよ…たぶん」
「そうね、あの人は優しいもの。でも、死んだ人の心は変わらないの、永遠に。だってその時間で止まっているのだから。進むことも、戻ることもない。例えるなら…そう、赤べこ相手に話しているようなものよ。黙って静かに頷くだけ…」
 母は少しだけ笑う。それは誰がどう見ても自分を嘲笑っている笑いだった。
「死んだ人間の心は変わらない。母さんもあの日から一歩も前には進めていない。ならきっと、母さんも死んでいるのかもね、既に」
 母の瞳は何も捕えていない。どこを眺めているのかもわからない。
「そんなこと…」
「思い出は優しいから…」
「えっ」
「思い出はアナタを裏切ることはないから、変わらなくて、優しいの。だから、人はその優しさに甘えたくなる。その思い出が既に歪んで、変わり果てていることにすら気が付かない。都合のいい記憶で詰め込まれている、思い出に……」
「そんなこと、ないと思う…」
 何度か夢を見た。告白された時の夢とか、デートしたりした甘い夢。そして疎遠になり始めた時の苦い夢。
「思い出は優しいけど、きっと、どこかでボロが出る…そしていつか、現実を突きつけられる…」
 母は静かに微笑む。
「そう思ったなら、そう感じたなら…心のままに、感じたままに生きなさい。母さんにはもう、その生き方は出来ないから」
「うん」
 私は着替えもしないで家を飛び出し、工にメールを送る。

 初めて彼と出会った場所。告白された場所。そして、再開した場所。間橋で彼が来るのを待つ。
 思い出が溢れてくる。母のいう通り、思い出は優しい。彼とは喧嘩だってしたし、嫌なこともいっぱいあったはずなのに、楽しかったこととか、嬉しかったことばかり思い出す。決めたはずの決意がもう揺らいでしまいそうになる。
「ごめん、待った?」
「待ってた」
 彼の笑顔は変わらない。
「もう、いなかったんだね。キミは」
 私は少し笑いながら言う。
「でも、俺は詩音のことが好きだよ?」
「私も、多分、キミのことが好きなんだと思う」
 ありのまま、正直に。自分が感じたことを口にする。
「そっか! じゃあさ、ずっと一緒にいようよ!」
無邪気に語る彼に少し胸が痛む。そして感じる。彼の時間があの時のままだということに。
「ごめんね」
「え?」
彼の表情が固まる。
「一緒にはいられないの。キミの傍にはいられない」
「なんで、どうして? 俺はこんなにもキミのことを…」
 そんな悲しそうな顔をしないで? だから一度だけ、自分の心を偽る。思った事以外のことを口にする。
「はじめから、好きじゃなかったの…」
 胸が締め付けられるように痛んだ。
「ウソ、だよね?」
「嘘じゃない」
嘘。
「そんなこと…やだ…違う…詩音…俺は…俺は生きてる! 俺はっ…」
 彼の姿が徐々に透け始める。
「ほんとは会っちゃいけなかったの。もう、会えないはずだから」
「俺はっ…キミのことを――あ」
「愛してた。もう、過去形なの」
 今きっと感じてるこの気持ちも、きっと過去形。全部、過去のもの。そう思わないと私の心が死んでしまう。
 彼の声はもう聞こえない。姿ももう見えない。きっとこれでよかったんだ。そう思おう。よかった、はずなのに。
「母さん、私も、ダメみたい」
 
 蒸し暑い夏は過ぎ、過ごしやすい秋に移ろう、深々と雪が降り積もる冬がくる。そして巡り巡って春が訪れる。
 変わらないものなんてない。変わらないものがあるとするならば、それはきっと“過去”だけだろう。いつかは忘れてしまうものだけど、いつかは歪んでしまうものだけど、確かにそれは起こって、存在していたのだから。

 信じがたい、でも確かに起きた、そんなお盆の夏の出来事。

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