【短編小説】たましいのうた【人魚譚】
その夏いちばんの入道雲が、空に青々もくもくと、勝手気ままに腕を広げて、王国をそっくり飲み込んだ昼下がりのこと。
わたしたちの人魚姫が泡と消えた。
第二王立公園の大水槽を泳いでいたはずの人魚が、いつの間にか忽然と姿を消したというその報せは、サイレンの絶叫と共にもたらされた。緊急放送に耳を傾けた人々は、瞬間、こう考えた。あぁ、ついにわたしたちの人魚姫が、泡になってしまわれた、と。
鼓笛に興じていた貴族たちから、宿屋で帳簿を捲っていた老主人、果ては城下の溝をさらっていた浪人に至るまで、皆がその瞬間、日常を忘れた。誰の胸の内にも、人魚姫を失ったというひとつの悲しみばかりが揺れていた。海の水面に揺れる満月のような、幸せと似た悲しみが。
この国に人魚姫がやってきてから五日、誰もが彼女を一目見ようと第二王立公園に足を運んだものだ。海の向こうの同盟国へと舵を切った公船を、空を呑むような嵐が沈めた夜。大嵐に阻まれ助けの船も出せずにいたところから、たった一匹の人魚が、多くの文官や船乗りを浜辺まで運んで見せたのだ。人の手で波を裂き、魚身を踊らせ、多くの命を救ったその人魚は、浜辺に寝かされた者たちのために、それはそれは美しい歌を聴かせた。
うみぞこにすむ われらのうたは
いのちのほむらを いだきあげ
うみこえほしこえ かのてんじょうに
はこびあげよう ひとのみたまを
われらがもたぬ ひとのみたまを
その奇跡のような歌声は、傷ついた人々を癒やすと共に、王様にとある歴史を語らせた。王室の中でのみ語り継がれたという、一人の人魚姫の歴史を。
むかしむかし、わたしたちの国には真珠のような瞳の王子様がいた。その王子様の十八回目の誕生日を祝う宴が、それはそれは立派な大船の上で催された。船乗りは種々の楽器を打ち鳴らし、空飛ぶカモメは高く歌い、イルカがおおきな水しぶきを上げると、空には鮮やかな虹がかかり、王子様をたいへん喜ばせたという。
けれど美しい饗宴は続かず、船はまっくろの嵐に飲み込まれてしまった。王子様の身体は鈍色の海に投げ出され、光も届かない海の底へと沈むばかりだった。
そんな王子様を海上へ運び上げ、海辺まで送り届けたのが人魚姫だった。人魚姫は深海の国に住む六姉妹の末娘で、どの人魚よりも地上に憧れ、そこでの美しい人間との出会いに焦がれていたのだという。人魚姫の懸命により、美しい王子様の命は助かった。けれど、海の中で気を失っていた王子様は、自分を助けたのが人魚の姫であるなどとは露も思わず、地上で必死に看病をしてくれた人間の娘の方に恋をした。二人の結婚式は金色の川の上で執り行われ、その様子を石橋の下から人魚姫はしずかに見つめた。それでも人魚姫は、燃える心を捨てられず、ついには深海の魔女と契約を結んだ。それは「人魚姫の一等美しい声と引き換えに、人間の足を手に入れる」というものだった。そうして人間の姿を得た人魚姫は、王子様の侍女として一生懸命に働いた。愛を伝える言葉を持たず、魂を洗うような歌声をもなくして、それでも人魚姫は幸せだった。王子様のきれいな瞳に映る、人間のお姫様をも、人魚姫は愛した。地上の、あふれんばかりの輝きを、人魚姫は美しいと思った。
しかし人魚姫には魂が無かった。そして、魂を持たない人魚姫は、地上で長くは生きられないと決まっていた。人間の足を得るために立派なヒレをなくした人魚姫には、海に還ることもできなかった。
人魚が人間のように魂を得るためには、二つしか方法が無いのだと、人魚姫は魔女から教えられていた。一つは「人間に他の誰より深く愛され、その魂を分け与えてもらう」こと、もう一つは「魔女の短剣で愛する人間を刺し殺し、その魂を奪う」こと。
人魚姫の姉たちは、たいせつな妹のため、魔女から借りた短剣を人魚姫に手渡した。それは人魚姫の最期の夜、月のない晩のことだった。人魚姫の姉たちは喉がやぶけそうなくらい叫んで言った。
「ねぇおねがい、わたしたちの可愛い妹よ、おねがいだから聞いてちょうだい!これは魔女の短剣よ!これであの人間の心臓を貫くの!そうすれば男の魂はあなたのものになる!魂があれば地上でだって生きられる!海に還りたいのなら、魔女に魂をくれてやるの!きっとあなたの可愛いヒレを返してくれるはず!ねぇおねがい、わたしたちの可愛い妹よ!あの人間を殺して!おねがい!」
短剣を手にした人魚姫は、王子様の寝室へと忍び入った。王子様の腕の中では、きれいなお姫様がすぅすぅと寝息を立てていた。人魚姫は、どうか王子様が目を醒ましてくれますように、そしてあの真珠のような瞳で、この短剣を見つけてくれますようにと祈った。人魚姫が王子様の上に覆い被さると、王子様は幸せそうな面持ちで寝言を言った。それは人間のお姫様の名前だった。そうして人魚姫は、自分の名前を王子様が知らないことを思い出し、短剣を窓の外へ投げ捨てた。短剣が海に落ちるドプンという水音で、王子様が目を醒ました。王子様が暗闇の中に人魚姫を見つけると同時に、人魚姫は窓から海へと飛び込んだ。驚いた王子様が急いで海を見下ろしても、人魚姫が海面から顔を出すことはなく、代わりにぶくぶくとたくさんの泡が弾けては消えた。しばらくすると、侍女が着るための簡素な衣服が浮かんで、そのまわりでむせび泣く人魚姫の姉たちが、王子様には見えた・・・・・・。
語り終え、深く溜息をついた王様は、その王子様とは私の曾お爺様のことであると言った。人魚姫が泡となった後、その姉たちから、曾お爺様は人魚姫のことを聞いたのだという。
「我々はかつての人魚姫に返しきれぬ恩がある。そして此度の人魚もまた、我々のたいせつな隣人を救ってくれた。我々は、この人魚の願いを叶えてやらねばなるまい。かの人魚姫のように、愛を望むなら寵愛を、魂を望むなら永遠の魂を!さぁ新たな人魚よ、やさしく勇気ある人魚よ、そなたの願いを聞かせておくれ!」
王様の呼びかけに、けれど人魚は首を振り、歌うことなく、笑みも浮かべず、さざ波のようにしずかに言った。
だれの愛もいりません、ひとつの魂もいりません、ただ、わたしに歌を歌わせて。そしてあなたたち人間が、きいてくれればいいのです。
かくしてわたしたちの人魚姫は、王立第二公園の大水槽で暮らすこととなった。以前はマスやイワナが住んでいたその大水槽は、先代の王様が山の魔法使いに作らせたもので、人魚姫はその中を飛ぶように泳いでは、昼もなく夜もなく歌い続けた。
人魚姫は歌った。人間たちの魂を金色の風に溶かし、海のむこうまで運びゆくような、のびやかな歌を。
そしてその歌は、やがて王国ぜんぶを包み込み、それはまるで、大きなオルゴール箱を造りあげてゆくようだった。お城の尖塔をぜんまいに、船底に転がる酒瓶を振動弁に、わたしたちという巨大なオルゴールが、人魚姫の手で奏でられたのだった。けれど美しい音律に彩られた日々は、わたしたちが愛したその日々は、突然に終わりを告げた。耳をつんざくサイレンと、人魚姫不在の報せによって、突然に・・・・・・。
「というワケでな、いまこの国は、わたしたちの人魚姫捜索のため大わらわなのさ。わざわざ東洋から足を運んでくだすった旅の御方にゃ、関係のないこったろうがね。お役所が一般の業務に戻るのはいつになることやら・・・・・・通行手形の発行なんて相手にもしてくれんだろう」
「そうか・・・まぁいいさ、気長に待たせてもらうよ」
「お代は元の三日分で結構だよ、どうせ新しい客も来ないだろうから」
「そいつは助かるよ。しかし、人魚姫の捜索というのは、やはり海に出ているのかい。だとすると、終わりの見えないかくれんぼのように思えるがね」
「ん?・・・・・・あぁ、いや、かかっても、あと七日ってトコだろう。心配は要らない」
「そいつはまた、どうして?」
「・・・口には出さんがね、誰も真剣に、人魚姫を見つけられるとは思っちゃいないのさ。なんたって・・・」
「人魚姫が消えたなら、泡となって消えたに決まってる・・・・・・なんて言われてるらしいぜ、あんた」
「そう」
「そうって、あんた、悔しくないのか、悲しくないのか。ずっと歌っていたんだろう?この国の連中のため、見返りも求めずに、ずっと・・・だったら・・・」
「わたしはただ、歌を歌っていたかっただけ。それより他に、何もいらないの」
「・・・それじゃあ、どうして・・・どうして逃げなかった?俺があんたを、あの馬鹿デカイ水槽から引っ張り出したとき、どうして歌わなかった?歌えば届くんだろう。あんたの言葉が響くんだろう。それをどうして・・・」
「だって、わたしの歌は、魂のための歌だもの」
「魂・・・?」
「えぇ。あなたたちだけが、人間だけが持っている、魂の」
「・・・それじゃあ、ほんとうなのか。人間には魂があって、魂は不滅で、そいつを持っていない生き物は長命で・・・だけど、失った魂は二度と・・・二度と、戻らないってのは」
「えぇ。魂は不滅。でも、その器はかならず滅びる。ほんとうなら、器をなくした魂は、長い時間をかけて、あたらしい器を見つける。そうして、この世界を生き直すことができる。けれど、」
「無理に器から剥がされた魂が、あたらしい器を見つけることはない・・・だろ?三度も聞けば覚える。・・・・・・クソッ!」
「・・・・・・」
「・・・なぁ、あんた、このまま・・・あと、どれくらい生きていられる?」
「このままというのは、この湯船で、ということ?それとも、魂を持たないまま、ということ?」
「このクソ狭い湯船で、だよ」
「それなら、あと二日くらいじゃないかしら。人魚のままでは、海の水がなければ生きられない。二番目のお姉様は、十日は海の水を飲まず生きられたそうだけれど、あたしはお姉様ほど丈夫じゃないもの」
「は?けどあのデカイ水槽の水だって、海水じゃあなかったろ?」
「えぇ。だから、あと、二日くらい」
「それってどういう・・・まさか、あの水槽でも、あんた、生きられないのか・・・?」
「えぇ」
「聞いた話じゃ、人魚がこの国に来てから今日で五日・・・その間、自分が生きていけない水の中で歌っていやがったのか!」
「えぇ」
「っ・・・なんで、なんであんたは・・・そんなふうに・・・・・・」
「知りたいの?」
「あ?」
「歌を、歌いましょうか。人魚のこころを、知りたいというのなら」
「やめろ、やめろ!」
「そう。それなら、歌わない」
「・・・・・・クソッ」
「・・・・・・・・・ねぇ」
「なんだ」
「やっぱり、わたしに歌を、歌わせて」
「・・・なんだよ、千年を生きる人魚姫も・・・あと二日の余生を儚むってのか」
「いいえ」
「じゃあ、なんだよ」
「言ったでしょう、わたしの歌は、魂の歌。あなたたち人間だけが持つ、魂のための歌。私が歌うなら、それはあなたのための歌。魂と生きる、あなたの」
「・・・・・・なぁ、分かってないのか?覚えてないのか?俺があんたを、どうして連れてきたのか・・・・・・俺があんたを、どうするつもりか!」
「えぇ、わかっているわ、おぼえているわ」
「だったら・・・!」
「けれど、わたしは・・・」
「・・・?」
「・・・わたしたちは、歌うより他に、知らないもの。それより他に、方法がないもの」
「・・・・・・・・・・・・勝手にしろ」
「えぇ」
うみぞこにすむ われらのうたは
いのちのほむらを いだきあげ
うみこえほしこえ かのてんじょうに
はこびあげよう ひとのみたまを
われらがもたぬ ひとのみたまを
ここよりひがし はるかとおくの
ふかきのやまの ふるいむらでは
よくあいされた わかいむすめが
にんぎょのにくを そのはらにいれ
せんねんのよを いきながらえる
にんぎょとなった わかいむすめは
だれよりながく いのちをもやし
だれよりこどくに いのちをからし
きよくけわしく ただうつくしく
むすめはいきる たましいもなく
されどむすめの やさしいあには
にんぎょとなった むすめのあには
むすめをもとの ただのむすめに
もどしてやるため たびをはじめた
むすめのために たびをはじめた
おとこはあるいた ながきたびじを
けわしいこどくと ながきたびじを
もとめあるいた そのほうほうを
にんぎょをひとに もどすてだてを
そうしておとこは にんぎょとであう
みたまをもたぬ にんぎょとであう
おとこはたずねる そのほうほうを
にんぎょをひとに もどすてだてを
されどにんぎょは ないとこたえる
にんぎょはひとに もどらないのと
おとこがすわる よるのふちには
ひとりあるいた たびのはてには
たえたのぞみが ただよこたわり
ぜつぼうのみが いすわるばかり
おとこはうらむ そのたましいを
おとこはのろう かれのいのちを
いのりをなくし のぞみをなくし
そしておとこは そのてをのばす
むすめのために そのてをのばす
かれののばした ひとさしゆびが
ふとくたくましい そのなかゆびが
しめあげんとする にんぎょのくびを
ひきさかんとする にんぎょのにくを
こころはうみの そこまでしずみ
くらいけついは つきまでのぼる
いもうとをひとに もどせぬのなら
じぶんがひとを すてればよいと
にんぎょのにくを くうしかないと
おれもにんぎょに なるほかないと
けれどおとこの やさしいゆびは
あいにあふれた そのたましいは
うたうにんぎょの いのちをおもい
にんぎょのうたに たましいをきく
わたしはうたう たましいのうた
わたしはねがう なつのひのよる
むすめのいのち かえるようにと
おとこののぞみ たえぬようにと
うみぞこにすむ わたしのうたは
いのちのほむらを いまかきいだき
うみこえよるこえ ひがしのくにに
はこびおくろう きみのみたまを
わたしはもたぬ きみのみたまを
その歌は、凪のような夜のなか、王国の片隅で歌われた。壊れたはずのオルゴールが奏でた旋律を、わたしたちは聴いた。泡と消えたとばかり信じていた、歌を聴いた。わたしたちの魂を愛する、人魚姫の歌を、聴いた。
聴いていなかったのだ、と思う。わたしたちは一度だって、あの美しい歌を、聴いていやしなかったのだ。あの歌は、人魚姫の歌は、魂のための歌だった。彼女らが持たなかった、けれど愛した魂の。わたしたちが理由もなく連れている魂の、歌だった。
あぁ、わたしたちは、いや、わたしは、いまこそ悲しみを知るべきなのだろう。わたしの人魚姫が・・・・・・あの人魚が歌い聴かせてくれた、ある男の旅路を、その絶望を、それでも彼が持ち続けた魂の輪郭を、想うべきなのだろう。
そして、あの歌が教えてくれた、たいせつなもの。わたしが生まれたその時から、あるいはそれよりもずっと昔から、持ち続けてきたかもしれず、けれど気づかずにいた、大切なもの。それを、魂と呼んでいること。人魚の歌が、夜空を駆けたあの歌が、わたしにもたらしたこの痛みが、この疼きが、この悲しみが、その証であるということ。
わたしは、知らなくてはいけないのだと。果てない夜の、その静けさの中に、沈み込むよに思う。
そう思ってみると、わたしは、悲しく、さびしく、やはり悲しくて。えもいわれぬ感情がもくもくと、炎天を飾った入道雲のようにふくらみ。このふくらみを、わたしのうちに、とどめてはおかれない気がして。
おとこに、むすめに、そしてにんぎょに。とどくことも、あるだろうかと。
しずかにねがい、うたをうたった。
さよならのため、うたをうたった。
薄明の下、一陣のやさしい海風が、王国の香りと共にいくつかのうたを運んだ。うたを食んだその風が岩礁に腰掛けた人魚の赤髪を揺らし、無数のしぶきがきらきら飛んだ。
空飛ぶカモメがうれしそうに鳴き、人魚はそっと目蓋をおろす。イルカがあげた大きな水柱にも、人魚は気づかないようだった。
そうして人魚は、いくつかのうたを。
風が運んだ、いくつかのうたを。
白く美しい朝のなか、ひとりしずかに聴いていた。
朝日がすっかり顔を出し、風が止み、海に凪がもたらされると、人魚はゆっくりと目蓋を開き、そして言った。
「どうして、わたしは生きているの。あんなに妹のことをだいじに思って、それなのにどうして、あのひとは私を・・・食べてしまわなかったの。ねぇ、どうして・・・」
歌わず、祈らず、ことばを零し、人魚は目を細める。そっと目を細める。
「・・・・・・・・・・・・あぁ、そう、これが。これが理由なのね、人魚姫」
とおく、王国の向こうに続いているという、果てのない道々を望むように、目を細める。
「この、どんなかたちでもいい、どんなことばでもいい、だから、一度だけ。たった一度だけでいい、あのひとの、たましいに触れたい・・・そう願ってやまない、これのために、あなたは、・・・・・・あなたも、」
明るい海に、風は吹かずに。
「あなたも恋をしたのね、人魚姫」
弾けたあぶくが、人魚の尾ひれを溶かすように洗った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?