旅は最終章(3)
北海道最北端を目指す
道東が寒すぎて もう知床半島に行くのはやめよう・・・と思った私は
そのまま最北端の地 宗谷岬を目指してバイクを走らせる。
途中 網走監獄に立ち寄る。
歴史遺産としてはどうなんだろう?見るに足るものか?と思って入ってみると いたるところに囚人の蝋人形が まるで生きてるように配置されていて
案外楽しむことができた。
最北端に到達したら、西側の海岸沿いを 稚内から留萌まで南下する。
仲間と別れて一人の旅に戻る
札幌で「テキヤ」のバイトをする
北海道大学敷地内に かなり年季の入った建物が建っていて
そこは学生寮として使われている。
寮内は 何年も前の張り紙の地層のようなもの ができていて
落書きやら 暗号やら 青春時代のありったけの気持ちやらで
壁一面が覆われていた。
なんと天井さえもこんな状態!
この寮には 外部者であっても 一泊300円を出せば 泊まることができると 噂に聞いてやってきたのだ。
建物の状態でこそ こんな雰囲気だったが 歳も近く
同じ大学生ということもあって すぐに仲良くなり
一緒に雑魚寝をさせてもらった。
お風呂も使わせてもらえて かなり 快適に過ごすことができた。
滞在しているとだんだんと 居心地よくなってくるもので・・・
「バイトあるけれど。やってみる?」という 学生の誘いに乗って
3日間 テキヤをやることにした!
ちょっとコワモテの 屋台の主が
フランクフルトの焼き方、お客さんへの出し方などをレクチャーしてくれる。客商売が好きな私は 一日中 声を張り上げて客寄せをしていた。
一生懸命がんばってる姿を認めてくれたのか
そのコワモテの主人は 一日の仕事が終わると
その日あまったフランクフルトを 嫌と言うほど 大量に
私に持たせて帰らせてくれるものだから
寮のみんなに一本ずつ配っても まだ余るくらいで
寮生に 大いに喜ばれたのは 間違いなかった。
最後の日にコワモテの主さんが
「あんたは根性あるな。また札幌寄ったら この仕事やってくれよな」
と言ってくれた。
札幌の 良き思い出。
旅は終わりに近づく
積丹半島から南下して 函館に向かう。
函館から青森の大間まで フェリーで渡り 本州をそのまま南下して
名古屋に戻る予定だった。
が、本州に入ってから 1週間もずっと降り続く雨。
積んでいたテントも乾くことなく
バイクの両脇にゆわえ付けてある バッグにも
びっしりと緑のカビが生えてきた。
バッグの中身の衣服も全部 じっとりと濡れて
これ以上 バイクでの旅が苦しくなってきた。
その頃 私は知りもしなかったのだが
名古屋では 大洪水が発生して
実家の近くの地下鉄も水に浸ってしまっていたのだ。
あまりにも過酷で
バイクの旅の醍醐味が全くない苦行のような行程に
ギブアップした私は
仙台から名古屋行のフェリーチケットを買って
素直に名古屋に帰ることにした。
以前に見た太陽はいつのことだったか?と
思い出せないほどの長い間 雨が降り続いていた。
ジメジメした私の目に
久しぶりの太陽がまぶしく輝いた。
名古屋に到着する間際のフェリーの上だった。
持ち物すべてにカビが生え 身体ごとかび臭くなった 自分を
そのまま丸ごと 天日干ししたい気持ちだった。
そしてとうとう 帰宅!
最後こそ不甲斐ない終わり方だったが
それでもこうして 無事に名古屋にたどり着けたのは
やりきった感 満載で 感無量だった。
2000年のあの頃
旅人は誰一人として携帯電話を持たず
地図をバイクのタンクに張り付けて 旅をしていた。
行く道を誰もが 鉛筆やマーカーで メモ書きを残していて
そういった 旅先の地図は 一生の宝物になるだろう。
誰もが この先にまた 誰と出会うのか 知らずに旅をしていた。
以前に会った人に たまたま行き先で会えたりするのも
奇跡的なことだと感じることができて すごくうれしかった。
そういった 風の吹くままに旅をする
ということは 現代の スマホを片手に旅をする というのとは
また全然 別種のものだと思う。
その時々の出会いが 本当に 一期一会であり
奇跡的に交わった一点を交差した 人と人なのだ。
「今どこ?これから俺、そっち行くから待ってて!」
と現在の旅人は連絡を取り合うことが できるだろうけれど
あの頃は そういったものが 一切なかった時代。
たった一人過ごす夜に 時間をつぶす術はなく
ただひたすら 海鳴りを聞いて 真っ暗で何も見えることない
海の果てを見つめて 夜を過ごしたり。
その瞬間 瞬間の
風の音を聞いたり 空気の密度を感じたり
森の中のひとつひとつの造形に感動したり。
スマホがなかった時代は
その時 その時を 全神経を集中して感じていたのかもしれない。
一人ですごす夜が 果てしなく長く感じたり そういったこと。
そういうすべてのことが
旅の思い出のひとつひとつになっていく。
旅に出たっきり
電話もせず
日帰りで帰ってくると出て行った娘は
どこに行ったか不明のまま 40日後にぷらりと帰ってきた。
スマホを持たず旅をするとは
そういうことだけれど
それでも そんな娘を 心配しながらも忍耐強く
待っていてくれた母親は
今、自分が 三人の娘の母親になってみて
偉大だったなと しみじみと思う。
自分の娘がどこに行ってしまったのか
全くわからないまま 40日間待ち続けることなど
私にはとても 出来そうにない。
人との出会い。
出会う人 すべてが 温かい気持ちを持ち寄ってきてくれたおかげで
私は 一人で旅を続けていくことができたんだと思う。
そして 帰るべき場所がある
ということが 旅をずっと続けていくための 大事な要素だとも思う。
(おわり)