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旅は最終章(3)

北海道最北端を目指す

道東が寒すぎて もう知床半島に行くのはやめよう・・・と思った私は
そのまま最北端の地 宗谷岬を目指してバイクを走らせる。

途中 網走監獄に立ち寄る。
歴史遺産としてはどうなんだろう?見るに足るものか?と思って入ってみると いたるところに囚人の蝋人形が まるで生きてるように配置されていて
案外楽しむことができた。

門の前で。多くの観光客でにぎわっている。
囚人の独房に入って写真を撮ることができる。
オホーツク紋別の巨大蟹!
ここでは蟹が安く食えるのか?と思ってみたが
結局 高すぎて、一度も口にすることはなかった・・・
たった一人でテントを張るキャンプ生活。
あまりに心細く 風の音がテントを叩くので
寝られない夜も たびたびあった。
とうとうやってきました!最北端の地の記念碑でガッツポーズ!

最北端に到達したら、西側の海岸沿いを 稚内から留萌まで南下する。

稚内のキャンプ場で。タイヤがパンクしてしまって オロオロしていた私を助けてくれた。
バイク屋までの道を パンクしながらノロノロと走る私の先に走って
誘導してくれた。オーストラリアをバイクで一周した彼と記念撮影。
オーストラリアのひたすらまっすぐな道に とてもよく似ている。サロベツ原野。


どこまでも続く道と青空。
バイクで走る気持ちよさの醍醐味!
風を切りながら自然と一体化する。最高に気持ちいい!
留萌の看板にはロシア語が!!!
この土地が本当にロシアに近いことをしみじみと感じる瞬間。
留萌の黄金岬。夕焼けがきれいに見える場所。
旭川のライダーハウス。北海道には、キャンプ場のほかに
バイカーたちがタダで宿泊できる施設も数多く存在する。
バイカーの99%が男性だったので
集まってみんなで 夜ご飯を食べると こんな景色になる。
こんな立派な宿泊施設がタダ!
しかし誰もが延泊をしてしまうと困りモノだから
次の日が晴れていて出発できるのだったら
必ず次の日には出発しないといけない、という「オキテ」があった。
その朝 みんな出発の準備を終えて ライダーハウスの前で大集合!
先ほどのライダーハウスで出会った男の子の集団と
少し行動を共にすることにしてみる。
並んで一緒に走るのは一人で走るのとはまた別の楽しみがあった。
大雪山系公園にある 羽衣滝に寄ってみた。
富良野といえば!こういう眺め!有名な富良野の丘


よく北海道で見かける牧草ロール。
遠くから見るとそうでもないのに、近づいてみるとこんなにも大きいのね!
夕張の炭鉱跡地も行ってみる。
廃墟めぐりがしたくて、朽ち果てた、忘れ去られた炭鉱の団地跡を見て回った。

仲間と別れて一人の旅に戻る

ニセコ山系にある神秘的で美しい沼。
周りには散策コースが巡らされていて
ハイキングしながらニセコの美しい自然を楽しむことができる。

札幌で「テキヤ」のバイトをする

北海道大学敷地内に かなり年季の入った建物が建っていて
そこは学生寮として使われている。
寮内は 何年も前の張り紙の地層のようなもの ができていて
落書きやら 暗号やら 青春時代のありったけの気持ちやらで
壁一面が覆われていた。

女子部屋と男子部屋と 一応分かれてはいるということだったけれども。

なんと天井さえもこんな状態!

居心地がよすぎる北大の寮は、それゆえに留年者が数多くいるということだった。

この寮には 外部者であっても 一泊300円を出せば 泊まることができると 噂に聞いてやってきたのだ。
建物の状態でこそ こんな雰囲気だったが 歳も近く 
同じ大学生ということもあって すぐに仲良くなり
一緒に雑魚寝をさせてもらった。
お風呂も使わせてもらえて かなり 快適に過ごすことができた。
滞在しているとだんだんと 居心地よくなってくるもので・・・
「バイトあるけれど。やってみる?」という 学生の誘いに乗って
3日間 テキヤをやることにした!

フランクフルトを売るバイト。

ちょっとコワモテの 屋台の
フランクフルトの焼き方、お客さんへの出し方などをレクチャーしてくれる。客商売が好きな私は 一日中 声を張り上げて客寄せをしていた。
一生懸命がんばってる姿を認めてくれたのか
そのコワモテの主人は 一日の仕事が終わると
その日あまったフランクフルトを 嫌と言うほど 大量に
私に持たせて帰らせてくれるものだから
寮のみんなに一本ずつ配っても まだ余るくらいで
寮生に 大いに喜ばれたのは 間違いなかった。
最後の日コワモテの主さんが
「あんたは根性あるな。また札幌寄ったら この仕事やってくれよな」
と言ってくれた。
札幌の 良き思い出

お決まりの 北大のクラーク像
お決まりの時計台。抱えているのは自分でペイントしたヘルメット。
お決まりの小樽運河
積丹半島の神威岬
永遠と続く遊歩道。岬の先まで続いている。
岬の先端まで歩こうとしたが 疲れ果てて途中で断念・・・


旅は終わりに近づく

積丹半島から南下して 函館に向かう。
函館から青森の大間まで フェリーで渡り 本州をそのまま南下して
名古屋に戻る予定だった。

が、本州に入ってから 1週間もずっと降り続く雨。
積んでいたテントも乾くことなく
バイクの両脇にゆわえ付けてある バッグにも
びっしりと緑のカビが生えてきた。
バッグの中身の衣服も全部 じっとりと濡れて 
これ以上 バイクでの旅が苦しくなってきた。
その頃 私は知りもしなかったのだが
名古屋では 大洪水が発生して 
実家の近くの地下鉄も水に浸ってしまっていたのだ。

あまりにも過酷で 
バイクの旅の醍醐味が全くない苦行のような行程に
ギブアップした私は
仙台から名古屋行のフェリーチケットを買って
素直に名古屋に帰ることにした。

以前に見た太陽はいつのことだったか?と
思い出せないほどの長い間 雨が降り続いていた。
ジメジメした私の目に
久しぶりの太陽がまぶしく輝いた。
名古屋に到着する間際のフェリーの上だった。
持ち物すべてにカビが生え 身体ごとかび臭くなった 自分を
そのまま丸ごと 天日干ししたい気持ちだった。

そしてとうとう 帰宅!

最後こそ不甲斐ない終わり方だったが
それでもこうして 無事に名古屋にたどり着けたのは
やりきった感 満載で 感無量だった。

雨上がりの名古屋港。ガッツポーズ!

2000年のあの頃
旅人は誰一人として携帯電話を持たず
地図バイクのタンクに張り付けて 旅をしていた。
行く道を誰もが 鉛筆やマーカーで メモ書きを残していて
そういった 旅先の地図は 一生の宝物になるだろう。

誰もが この先にまた 誰と出会うのか 知らずに旅をしていた。
以前に会った人に たまたま行き先で会えたりするのも
奇跡的なことだと感じることができて すごくうれしかった。
そういった 風の吹くままに旅をする
ということは 現代の スマホを片手に旅をする というのとは
また全然 別種のものだと思う。

その時々の出会いが 本当に 一期一会であり
奇跡的に交わった一点を交差した 人と人なのだ。

「今どこ?これから俺、そっち行くから待ってて!」
と現在の旅人は連絡を取り合うことが できるだろうけれど
あの頃は そういったものが 一切なかった時代。

たった一人過ごす夜に 時間をつぶす術はなく
ただひたすら 海鳴りを聞いて 真っ暗で何も見えることない
海の果てを見つめて 夜を過ごしたり。
その瞬間 瞬間の
風の音を聞いたり 空気の密度を感じたり
森の中のひとつひとつの造形に感動したり。

スマホがなかった時代は
その時 その時を 全神経を集中して感じていたのかもしれない。

一人ですごす夜が 果てしなく長く感じたり そういったこと。
そういうすべてのことが
旅の思い出のひとつひとつになっていく。

旅に出たっきり
電話もせず
日帰りで帰ってくると出て行った娘は
どこに行ったか不明のまま 40日後にぷらりと帰ってきた
スマホを持たず旅をするとは
そういうことだけれど
それでも そんな娘を 心配しながらも忍耐強く
待っていてくれた母親は
今、自分が 三人の娘の母親になってみて
偉大だったなと しみじみと思う。
自分の娘がどこに行ってしまったのか
全くわからないまま 40日間待ち続けることなど
私にはとても 出来そうにない。

人との出会い。
出会う人 すべてが 温かい気持ちを持ち寄ってきてくれたおかげで
私は 一人で旅を続けていくことができたんだと思う。
そして 帰るべき場所がある
ということが 旅をずっと続けていくための 大事な要素だとも思う。

(おわり)






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