無限の複雑さと人類の限界
⇒複雑なことには何らかの価値があるように思える。
では、複雑さが際限なく大きくなっていく未来を想定したとき、価値も成長を続けるためにはどうすればよいのだろうか。
人類が各時点の複雑さをうまく扱う方法を持っている必要があるのではないだろうか。
さもなければ人類が生み出せる価値は、扱える複雑さの程度によって制限されるということになってしまう。
人類の限界
例に挙げたゲームルールや知識は、現状でも既にかなり複雑ではあるが、より複雑になる余地は無限に残されているように思える。
対して、それを扱う人間の能力はどうだろうか。
複雑なゲームは慣れて楽しめるようになるまでに時間がかかるし、複雑な知識も正しく身に付けるまでに時間がかかる。
例として知識を身に付けることを考えてみたい。義務教育を想像して欲しい。特に理系(数学&理科、物理&化学&生物学など)。
厳密に学習するには、段階を一つ一つクリアしていくしかないように思える。
現在は、生後大学卒業までに20年以上を必要としている。
では、人類がこれまでのように進歩して知識量が増えていったら今後どうなるのだろうか。
大学卒業までの所要時間が25年、30年とどんどん増えていって100年とかになってしまうかもしれない。
習得に寿命以上の時間がかかってしまっては、知識があっても理解や利用ができないのだから、知識が無いのと同じではないだろうか。
複雑さと難易度の関係
複雑になるほど、それを扱う難易度は上がるように思える。
しかし、複雑なゴチャゴチャをひと塊として認識することで、複雑さを飛び越えて簡単に扱うことができるようになることがあるように思う。これは”慣れ”というやつかもしれない。
これは色々な物が入った箱に名前を書いたラベルを貼ることに似ている。
扱う際に必要なのは何かが入った箱であるということだけで、中身が必要になったときだけ開封すれば問題ない。
これは人間の認識の基本的な仕組みだと思える。「箱」も「箱の中身」も両方正しくて、必要に応じて使い分ければよいという認識だ。
おそらく、現実には箱であり中身でもあるような物が全てだと思う。
箱の中にはいくつかの箱がありそれらの中にも箱があるような入れ子構造。
中身でしかない物というのは考えられないと思える。無限に分解できるような感じだ。
パソコンも引越しの箱も人間も、殆どの物事は”箱”ではないだろうか。
無限の複雑さを扱うためには?
人類や地球、宇宙の歴史は長大なボリュームがあり、その情報は1人の人間が吸収できる量を遥かに超えている。
それでも人類はその全体像を何となく認識することができている(と思い込んでいる)。
それはどのようにして可能なのだろうか。
その解答として、前述の”箱”的な認識方法が挙げられるのではないだろうか。
扱う人が要求する必要性に応じて適切な細かさに注目すれば問題ないということだ。
とすると問題は、無限の長さと無限の細かさを持った情報を記録し、必要に応じて情報を取り出すための手段だろうか。
何を書いているのか自分でもよく分からなくなってきたので、ここで終わりにする。
何かの役に立てば幸いです。
不都合な内容は無視してください。
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