中国の皇帝、崇禎帝の話をしよう
高校の時からiPhoneの名前を「崇禎帝」に設定している。初めて自分で製本した本のペンネームも「崇禎帝」にした。「あー!崇禎帝ね!」と言ってくれる人には未だかつて会ったことがないけれど、私たちは高校の時一度はその名を目にしているはずなのだ。(していないかもしれない)
私は高校時代、頭の良い友達が「何も見ないで流れとか書くと覚えるよ」と言っていたのを鵜呑みにして、なぜか中国史だけ「毎日、秦の時代から中華人民共和国まで、何も見ずに年表を作る」という謎の勉強法を取り入れていた。(ちなみにこれめちゃくちゃおすすめです)それで、世界史の資料集を隅から隅まで読んでいて、その時に見つけたのが
「1644年 崇禎帝 自殺」
という年表に小さく書かれたショッキングな一文だった。崇禎帝が登場するのはこのたった一文だけだ。
あまりにもミステリアスだった。なぜ自殺したのか、何も理由は書かれていない。これによって明朝は滅亡した。
明といえば有名な皇帝が、洪武帝、永楽帝、万暦帝だろうか。洪武帝は衛所制を設置した人、永楽帝は『永楽大典』『四書大全』などの文化統制をした人、万暦帝はちょうどヌルハチ・ホンタイジなどと同時代の人。それぞれ聞き覚えがあるのではないだろうかと思う。
そんな明の時代の終わりは、崇禎帝の時代に、あっさりと、静かに迎えた。
気になった私は、当時Wikipediaで崇禎帝についてのページを読んだ。
崇禎帝のこの猜疑心も少なからず明の滅亡の原因になっているのではないかとされる。崇禎帝は重臣を多数誅殺している。『走れメロス』で、メロスと出会えなかった世界線の邪智暴虐の王かもしれない。
明は李自成の乱によって滅亡するのだが、「崇禎帝が李自成軍に討伐軍を送る→討伐軍を送るために増税→民衆が増税で困窮し、李自成軍に加わる」という元も子もないことが起きていたらしい。その後、北京は陥落する。最後、文官や武官は全員逃げ出していて、崇禎帝のそばにいたのはたった1人だったという。
かくして、崇禎帝は首を吊って自殺した。娘や奥さんも、北京が包囲されたタイミングで崇禎帝が自身の手で殺している。
この崇禎帝について、2ちゃんねるでスレが立っている。
これがなかなか面白かった。中国史オタクたちが何を言っているのか半分くらい分からなかったが、こんなに真剣に議論を交わされる崇禎帝はすごいなと思った。
そこから、なんとなく崇禎帝のことが頭から離れなくて、今になるまで惰性でずっとiPhoneの名前を崇禎帝にしてしまっていた。
しかし、最近実は崇禎帝に関してはあるニュースがあったので、iPhoneの名前を本当にいよいよ変えなくてはな...と思っている。