第6話 カリフォルニア・ドーターの軌道
私の手元に一本のカセットテープがある。典型的なインディー・ミュージックの体裁で『レモネード・セッション』とレタリングされた8曲入りのテープは、1999年7月にカリフォルニア・ドーターによって録音されたものだ。
当時のカリフォルニア・ドーターはフロー、ヨコイ、カズキそしてテッド・リチャードソンの4人編成だったが、ごく一部の断片とカズキの2曲を除けば、実質、フローとテッド二人の作品と言っていい。フローの日記には、ちょうどこの時期のレコーディングに関する詳細な言及があった。私はそのコピーを入手したのだが、その内容は控えめに言っても悪意と偏見に満ち溢れたものだった。そのため、関係者への取材によって得た情報をもとにその内容を私が再構築(それが偏見かつ恣意的でないと言うつもりもないが、悪意には満ちていない)したもので、その時の状況を振り返りたいと思う。
1999年7月20日
フローと長谷川ヨコイ、カズキ、テッド・リチャードソンの4人は、カリフォルニア・ドーターのレコーディングを行うため、ヨコイの黄色い中古のプジョーに乗りこみ、地方のレコーディング・スタジオに向けて車を走らせていた。車内には、ホルガー・チューカイ、セバドー、リー・ペリー、タンバ・トリオ、DJシャドウ、ロバート・ワイアット、ミッション・オブ・バーマ、ディーヴォ、ジョン・グリーヴス、プライマス等を収録したオムニバス・テープが爆音で流れていた。ポツリポツリと交わされるわずかな会話を、音楽がすべて遮った。
彼らは渋滞に巻き込まれながら、道の先の方を眺めた。カズキは、日差しで焼けつく街の風景をサングラス越しに眺めていた。その視点は、知性と痴性が垣間見れた。
途中、昼食をとるためサービスエリアに立ち寄った。彼らは保温機で温められ油じみたアメリカンドッグやら焼きそばやらをペソペソと食べた。フローとテッドは歩道と車道を区切る柵のようなものに腰を下ろしてたばこを吸っていた。長谷川ヨコイがカズキにアプローチをかけているのが見えた。確か、ヨコイはカズキを気に入っていたはずだ。このおぼこ娘、やるじゃないか。ヨコイに対しフローは同情的ではあったが、バンド内恋愛の危険性も軽視できないでいた。数年前、たけちが引き起こした「リバティー事件」は、関係者一同を恐怖に陥れた。ここで、その内容を明らかにすると、おそらく、私はたけちから訴訟を起こされることになるだろう。そのため、これ以上は読者の想像に任せるしかない。
一方、フローの記憶が確かなら、カズキは5月頃には淋病の治療をしていたはずだ。だから、フローにできることは何もなかった。
スタジオに到着すると、ヨコイとカズキは早速ベースとドラムの録音をはじめた。その間、テッドは食料を調達に出かけた。フローには、休息が必要だった。そのため、まず居間に向かい、クロード・ドビュッシーの伝記を読みながらソファに寝そべり、ポテチを食べた。音の消えたテレビがつけっぱなしになっていて、画面にはかつて大衆の欲望を一身に担ったマカロニ・ウェスタンが流れていた。野外では鳥の声、果樹園から聞こえる風で葉の擦れる音、錆びついた風力計が軋む音が聞えた。
彼は、ときどき傍らに本を置き、過去について考えた。未来についての想像することや、現在についての認識より、過去を回想するのは容易いことだった。いくつかの致命的な出来事や失われたものや、未曾有の大失態が不意に頭をよぎった。それらは、思い違いにより歪められたもの、意図的に捏造されたものになりつつあった。フローはそれを否定しつつ、祈りながら眠りについた。
気がつくと、あたりは急速に闇に包まれつつあった。かすかに、何か焼ける臭いがしているような気がした。眠りに落ちていたのだ。ちょうどその時、カーテンのかかっていない窓が車のヘッドライトに照らされ、タイヤが砂利を弾き飛ばす音が聞こえた。テッドが帰ってきたようだった。フローは立ち上がり、台所に行って冷たい水を飲んだ。何かが焼けるような臭いは、まだ続いていた。と、その時、テッドが何か叫ぶ声が聞えた。
フローがあわてて向かうと、スタジオの入り口付近にあった木彫りのフクロウが燃え上がっていた。スタジオの防音扉のガラスが嵌め込まれている部分から、カズキとヨコイがセックスをしているのが見えた。二人は燃えるフクロウに気づいていないようだった。彼らを助け出すには、質量があり頑強な扉を開かなくてはならない。しかし、炎が噴き出すフクロウに遮られているため、フローとテッドはそこに向かうことができない。
フローとテッドは、二人に向かって大声で叫んだ。最初、それは「逃げろ!」とか「おーい!」とか「ハリアップ!」といったある種の言葉であった。しかし、カズキとヨコイは、防音スタジオの中にいたため、二人の叫び声に気付くこともなく、夢中でセックスしていた。次第に言葉は言葉としての体裁を保たなくなってきた。二人は「うが―!」とか「あがー!」とか「ばもー!」とか「ゴー!」といった、いかに大きな声を出すためにどのような母音・子音の組み合わせが効果的か、喉を閉めたり、腹に力を入れたり、どのような体勢が有効かを飽くなき探求心で追い求め、実験的に叫び続けた。そして、時間の経過とともに、炎と煙の量は増加していく。フローとテッドは肩を組み、低い体勢で叫び続ける。それでもカズキとヨコイは快楽の波に溺れて、その叫びに気付くことはなかったのだった。
1999年7月21日
スタジオに隣接する果樹園に身を潜めながら、長谷川ヨコイは、スタジオから警察が帰っていくのを見た。パトカーを見送った後、フローが悪態を吐きながら、何か棒のようなものを蹴り飛ばし、その棒のようなものが何かに跳ね返って、フローの足を強く打つのが見えた。フローはその場にうずくまり、テッドに支えられながら建物に入っていった。なぜこのような事態になったのか? フクロウに放火したのは誰なのか?
昨晩、フクロウが鎮火した後、ヨコイとカズキはフローの怒りを回避するため、スタジオから全裸で逃走した。暗がりのなか、果樹園に身を潜めていると、数匹の野犬に囲まれた。カズキは野犬に襲われたため、悲鳴を上げながら更にその奥へと逃げて行った。野犬達はカズキを追いかけていき、ともに夜の闇へ消えていった。途方に暮れたヨコイは、こっそりとスタジオの裏手から駐車場に回り込んだ。幸い、ビートルのトランクにカギがかかっていなかったので、車内に身を潜めた。そして、私は行き場がない、何処にも辿り着かない、と思ったのだった。
1999年7月23日
残されたフローとテッド・リチャードソンは、テッドの新曲『旅の手帖』の録音をした。ヨコイとカズキは行方不明のままだった。フローとテッドは早い段階で彼らをあきらめ、少しずつレコーディングを進めて行った。一歩一歩、着実に。テッドがドラムを叩き、フローがベースを弾いた。昼食にはラザニアを作った。熱々でとても美味かった。
午後にはディストーションとアンプを使い、可能な限りシャリシャリとした音を作り二人でたどたどしいギターバトルを繰り広げてた。二人のやるせない思いが奇妙で歪なエモーションを生んだ。孤独や悲しみを感じるわけでもなく、熱に浮かされているわけでもない。弾力があって透明な物体が、少しずつ膨張していくような感情だった。
午後5時、町役場のスピーカーからドヴォルザークの「新世界」が流れてきたため、彼らは録音を切り上げた。そして、ビニール袋に入った数本の缶ビールを持ち、中庭の錆びついた鉄の階段を昇り、砂利や空き缶、風化したビニールが散らばる屋上に出た。足元のコンクリートの継ぎ目やひび割れからは、獰猛な雑草群が身を捩るように突き出していた。暑さは不快なほどではなかった。傾きつつある黄色とオレンジ色の中間の光の世界で、二人はビールを飲み、煙草に火をつけ、かつて白いペンキで塗られた柵の向こうに広がる風景を見渡した。
少し風が出てきた。建物の庭の先から緩やかな下り斜面となっており、少し先の方には果樹園が広がっていた。その生い茂った果樹は瑞々しかった。そんな光景を無意識に眺めていると、ふと、視線の隅に人影が映ったような気がした。
「フロー」テッドは手すりの錆をピックでこそげ落としながら言った。「カリフォルニア・ドーターはもう長くはないよね」
フローは、どちらにでもとれるような曖昧な相槌を打った。おそらくは、とフローは考えた。しかし、彼がその事実を認めるためには、彼の背景にある漠然とした不安を認める作業が必要になり、そんな作業には耐えられないと思った。
「あるいは…」とテッドは言いかけ、二本目の缶ビールを開けた。
「あそこに誰かいるんじゃないか?」フローは煙草を持った方の手で、果樹園の方を指し示した。木々の合間に、ヨコイの迷彩柄のワンピースが見えたような気がした。テッドが目を凝らしながら前のめりになり、柵に寄りかろうとしたとき、彼がついた手の部分が抵抗もなくスポッと抜けた。けたたましい叫び声をあげならが、テッドがゆっくりと転落していくのが見えた。ナタリー・バイが自転車で走り抜けていくようなスローモーションの光景だった。フローは、驚きのあまり声も出せず、幾許かの動作をとることもできなかった。
その結果、テッドは古びたトロッコの上に転落した。なぜ、あんなところにトロッコが置いてあるのだろうか。トロッコは衝撃がきっかけとなり、テッドを乗せたままゆっくりと動き出した。その進行方向には、複数のドラム缶が配置されていた。良かった、あれらのドラム缶に当たり、トロッコは止まるのだろう。どこかで、音楽が鳴っているような気がした。複数のホーンセクションで構成される、テクスチュアを引き延ばしたような音楽だった。この曲の名前は何というのだろうか? とても美しい音楽のようだった。誰とも共有できないからこそ、寂しくて美しいのだ。
それから、フローはトロッコが止まるまでの間、惚けたような表情でテッドを眺めていた。どのみち、今の自分にできることは何もないのだ、と思った。そういえば去年の夏も、この場所でレコーディングを行っていた。夜になり、泥酔してスタジオを抜け出すと、近所にあった某大学のセミナーハウスに無断で侵入した。そして、そこの公衆電話から当時の彼女に電話をかけた。そのときの二人はまだ睦まじかった。電話を切る間際、「フローに会えてよかった」と彼女は言った。しかし、時間の経過を図ることは誰にもできない。彼女と会う機会は永遠に失われ、「フローに会えてよかった」と思う人の存在は、ため息を吐くうちにこの世界から消えた。どのみち、今の自分にできることは何もないのだ。
フローがそのような益もない考えを弄んでいるうちに、トロッコは何かに乗り上げ大きく揺すぶられた。すると、トロッコは突如その進路を変える。まるで魔法だ、と思った。カオスは常に日常からやってくる。その先には、大きなカーブをともなう下り坂があった。トロッコは側溝の蓋を斜めに超えて道路に出ると、その速度を急速に増していった。
テッドの叫び声が「Huraaaaaaaaaaaaaaaaaay!」と聞こえる。バカな、そんなことを言うはずがないじゃないか。トロッコは、鉄の車輪でアスファルトを粉砕しながら、「ゴッー」というけたたましい音を響かせ、カーブに突っ込んでいく。これは大変なことになった、とフローは思った。しかし、どのみち、今の自分にできることは何もないのだ。トロッコが路上をバウンドすると、何らかの部品が弾けとんだ。そして、猛スピードで道に沿いながら緩やかな曲線を描き、そしてカーブの向こう側に消えていった。
あたりには饒舌な沈黙が訪れ、フローは二本目の煙草に火をつけた。どこかで、音楽が鳴っていた。複数のホーンセクションで構成される、テクスチュアを引き延ばしたような音楽だった。
7月24日
目が覚めると、この建物には誰の気配もない、とフローは気付いた。彼は台所でグラスに氷を入れると、作り置きのアイスコーヒーをなみなみと注ぎ、がぶがぶと飲みほした。その後、居間のステレオでニック・ドレイクの『ウェイ・トゥ・ブルー』をかけると、ソファのうえにひっくり返った。ポケットの中のくしゃくしゃになったラッキーストライクを取り出し火をつけ、音楽にあわせて適当な歌詞を口ずさんだ。すると、気分はみるみる落ち込んでいった。気がつくと、自分だけが物語の外側にはじき出されているように感じる。もちろん、フロー側の物語も存在はしている。しかし、孤独で室内から出ることをあまり好まない男、金もない無職の男、就職しても軋轢から上司を罵倒し溜飲を下げる男、朝食に目玉焼きを食べながら、これまでの人生の不満をぶちまけ、これからの人生の不安に駆られている男の物語。多くの人々は、このような物語のオファーを断るだろう。
昼過ぎ頃、フローはヨコイのビートルに乗ってテッドの見舞いに向かった。長谷川ヨコイはどこへ行った? カーステレオでニック・ドレイクの『ピンク・ムーン』のカセットテープを爆音でかけた。すると、気分はみるみる落ち込んでいった。この時間の日差しは獰猛で、フローは幾ばくかの混乱とともに日差しを遮った。
エアコンの効いた病室のベッドでテッドは元気そうに見えた。だが、この休暇中にレコーディングを続行することは不可能となった。退院する頃、彼はお互いの仕事に戻らなければならない。だから、しばらくの間お別れだ、とテッド・リチャードソンは言った。フローは「デッド・リチャードにならなくて良かったね」と言った。冗談のつもりだったが、不謹慎だった。フローはテッドに荷物を渡すと、そそくさと病院を出た。
孤独なフローはスタジオに戻らず、湖に向かった。街から郊外へ、郊外から森へ。しばらく走ると湖畔に沿ってカーブしていく道に出る。時々、木が湖を遮るが、隙間から光が反射している。遠くに、水を飲むさまざまな動物達の姿が見える。フローは適当な場所で車を停め、水辺までの道をたどった。
水辺は良い、とフローは思った。その水面を見ているだけで飽きることがない。それは常に形を変えていく。形を変えていくということは、柔軟ということだ。水は柔軟だ。しかし、人はそうではない。早い段階で凝り固まり、結果死に至る。
彼は打ち捨てられたボートを見つけるとそれに乗り込み、岸から少し離れていった。船底に横たわると、太陽がさらに眩しかった。上空を鳥が旋回している。その鳥に見覚えがあった。鳥の名前は何だったか? はるか向こうの方でヨコイが掲げるプラカード。そこには鳥の名が書いてある。もう少し見えるはずだ。その文字を読み取るために、目を凝らさなければならない。しかし、凝らせば凝らすほど、視点はぼんやりとしてくる。そして、結局、愚か者のようにその場に立ち尽くすしか術がなかった。そして、しばらくの間、そのままの姿勢で目を閉じていた。それでも視界は明るく、まぶたの裏側に浮かぶ血管のような模様が変化していくのを眺めていた。漠然とした何らかの考えと、眠りに落ちるはざ間を行ったり来たりしているうちに、だいぶ時間が経ったような気がした。
しばらくすると、岸辺の方からにぎやかなざわめきが聞こえてくる。フローが起き上がると、向こうで手を振る男女が見えた。フローは手を振り返した。しかし、彼らの視線はフローを超え、さらにその先にある二艘のボートへ向けられていた。そこには愚かそうな若者たちが手を振りかえしていた。またか、とフローは思った。しかし、今更驚くことなど何もない。ただ水で薄められたぼんやりとした悲しみが波のようにやって来る。「他者の意識が存在する限り、私の居場所は存在しないようだった」とフローは思った。
湖からの帰り道、彼は自分が空腹だと気付いた。今朝から、何も食事をとっていなかったのだ。フローは、県道沿いにあった最初に目についたうどん屋に車を止めた。店はバラックのような簡素なつくりで、入り口に立てかけられたベニヤ板には、筆で「かねや」と殴り書きされていた。彼は入ってすぐのテーブル席に腰かけた。キャベツの千切りと天かす、紅ショウガが入れ放題となっていたため、かけうどんを注文した。まだ午後6時を回ったばかりで、窓の外は明るかった。色あせた店内を見渡すと老夫婦が一組、天ぷらを食いながら静かにビールを飲んでいた。古びて油で汚れたテレビから、プロ野球のナイターが放送されていた。しばらくすると、ごくシンプルなうどんが運ばれてきた。大ぶりの椀盛られた、薄くもなく濃くもない色をしたつゆと太くゴツゴツとした素人じみた手打ちの麺だった。しかし、一口食べてみると、それは魔法のようだった。小麦粉の旨み、出汁の香りおバランス、添えられたキャベツの甘みを感じ、ユリイカ!とフローは叫んだ。夢中でうどんをすすり、つゆを飲み干すと、お代わりを注文した。2杯目のうどんを待つ間、蛍光灯の周りを飛ぶ蛾を見つめていた。蛾はフラフラと飛び立ち、結果青い光の熱で焼け死んだ。
スタジオに戻ると、入り口に古いプジョーのコンバーチブルが止まっていた。その横で、所在無く煙草を吸っている男がいた。たけちだ。
「アッー、しまった。今日はみんなでバーベキューをすることになっていたんだった」携帯電話を確認すると、たけちからの無数の着信履歴が残っていた。
「すげー待ったよ」たけちはふてぶてしい態度で、煙草を投げ捨てた。怒り狂っているようだった。
まあ、テッドはいい。彼は哀れにも負傷した。だが、カズキやヨコイはどうなんだ? 廃嫡された放蕩息子カズキと、親の援助で廃棄物のようなレコードレーベルを経営する社会不適合者ヨコイ。あのクソ野郎どもこそ地べたに這いずり謝罪するべきじゃないのか? しかも、奴らは私にも謝罪する義務がある。なのに、なぜ私だけがこんな卑屈な態度をとって、たけちのご機嫌を伺わなければならないんだ?
「不条理だ」フローは吐き捨てるように独りごちた。それらの事情を差し置いても、フローには謝罪する義務があるような気がするだが。しかし、彼はすべての責任を第三者になすりつけ、湧き上がる怒りにまかせながらビートルのドアを叩き閉めた。
「言わなければならないことがある」フローは何とか宣言のように重々しく口を開いた。たけちは振り向きざまに、すごく遠くにある眩しいものを見るかのように不可解な表情を浮かべてフローを見た。
「カズキとヨコイは失踪した。テッドは重症を負い入院した」しばらくのあいだ、沈黙が流れた。変圧器のノイズに似た耳鳴りが続いた。ひょっとしたら、それは耳鳴りではなく変圧器のノイズなのかもしれない。
「…じゃあ、この大量の食料はどうしたらいい?」
「とりあえず、焼こう」そして、二人はビールを飲みながら黙々と火を起こしはじめた。
火は良い、とフローは思った。火は見ているだけで飽きることがない。それは常に形を変えていく。形を変えていくということは、柔軟ということだ。火は柔軟だ。人はそうではない。早い段階で凝り固まり、結果死に至る。
炎と山の境目に残る紫色の光を除くと、あたりは完全な闇に包まれた。そして、肉の焼ける臭いが漂いはじめる。
「うまそうだ」とたけちが言った。フローは火の通りが悪い茄子をつつきながら、ここ数日の出来事を独り言のように話した。この世界ではない、別の世界の話のようだった。
しばらくすると、いつものカオスが訪れる。カオスは常に日常からやって来る。
まず、肉の匂いを嗅ぎつけた獰猛な野犬の群れが、スタジオ周辺を取り囲みはじめた。何匹いるのだろう、暗くてはっきりしない。その気配を察するとフローとたけちは無駄口を叩くのをやめた。生理的にはめまいを、精神的には怒りを覚えた。ごくわずかな時間、みんなでバーベキューをすれば楽しいひと時が過ごせるのではないか、骨つきの肉を買っておけばよかったと、馬鹿げた考えが頭をよぎった。しかし、奴らにはその気がない。つまりこれは戦争なのだ。犬が距離を縮めてくる感覚を察知すると、フローとたけちはロケット花火に火をつけ犬に向けて連続発射した。炸裂するロケット花火に犬の群れがパニック状態に陥った。その様子を察し、フローたけちは残りありったけの花火を自分の体に巻きつけ、引火させたまま群れに突進していった。叫び声が聞こえる。誰の? フローの? たけちの? それとも野犬の? それは分からない。ただ、原色の様々なテクスチュアをした火花が塊になって、はっきりした色彩なのに何の色かを言い当てることはできなくて、あたりは目も眩むほどの光に包まれていったのだった。