ドライヤー

こんにちは。
1年ぶりでしょうか

僕はこうして文を書くのはとても苦手で
だからいつも、頭の中で喋っていることが自動で打ち込めたら良いのに、とよく考える

最近、よく話す人が
「人と違う生き方がしたいんだ」とよく言う。
そのくせ、普通の人間と同じように毎日ネクタイを締め、出勤をし、「スピリチュアルや哲学的な話が好きなんだ」とドヤ顔で語っていながらも、やっぱり“答え”という安心出来る居場所を作りあげて満足するだけの、ただの人間だった。そう、所詮人間だった。
無意識に。僕の地雷を踏みまくった人である。

超ダサい。

そんなもので、そういう「僕は人と違う生き方をしたくてね。君の意見を聞かせてよ!」という人をたまに見かけると、
こいつは阿呆なのか?と思ってしまうことがよくある。

でも、逆に捉えてみると
僕だって同じようなことをよく口にしていて「人間になんてなってやるもんか」とか言ってた。
そのくせ、普通に働いて、将来だの、婚約者だの。
…あれ、?
全くの同じじゃぁないか。とふと我に返った。

お風呂へ入ってドライヤーをしている間は、
なんだか、自分が高層ビルの屋上の、塀の向こう側へにでも立っているような気分になる。
世界を眺めて自分を見つめて今にも飛び込めそうな空気の中へ問いかけて。

僕は、ほんとは
こんなにも汚すぎる世界の地に、足をもつきたくなくて、壁に手すら触れたくなくて、空気さえ吸っていたくない。
ご飯を食べて、朝は起きて、夜は眠る。明日仕事だからしっかり眠りましょうね。ってなんじゃそりゃ。
日々、安心・居場所・快楽を見つけてはそこに浸って生きた気になっている人間と同じにされたくない。
人間のように今日も生きてしまった自分に吐き気がしてならない。
ぼくは、死を待つように生きることはとても嫌で僕は自ら死を迎え入れたいと思っている。これも人間にならないためだ。
けれど、所詮僕が“自分を貫く”ために死んだところで、心理研究科やら誰かさんがでたらめを言い出すんだろう。それがたまらなく嫌で、まだこうして生きている。

“あぁ、所詮は僕だって人間だ。”
このうん億人もいる世界の中で“人と違うように生きる”ことも“人と違う考え方”をすることも不可能なんだ。
何通りもあるこの世界に不可能なんてなくて、けれどただひとつ、僕が今感じている「世界の汚さ」「安心という恐怖」「人間になんてなってやるもんか」って考えは、もしかしたらもしかすると、どっかの誰かが同じように感じている“当たり前”のことなのかもしれない。
自分にとっては周りには真似出来ない自分だけの考えだと思っていても、他人からしたら当たり前の考え方なのかもしれない。
もしかしたら簡単に名前をつけられてしまえるようなものなのかもしれない。と。

ドヤ顔で「答えに浸るのはもうやめな」と言っておきながら、「そんなのとうに分かっているんだよ」と言われてしまったらたまらないので。
恥ずかしすぎて生きていけないからここにかきました。




ぐちゃぐちゃです。
ちょこちょことなおしていきますね。

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