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気をつかう日本人。気がまわる日本人。
日本人は気をつかうし気がまわる民族である。日本の一歩外にでると、それがよくわかる。極東の孤島の外に生きる人達は、他人の目なんて気にしちゃいないし、自分がやりたいことしかしないし、その結果他人がどう思うかなんてところまで頭がまわらないし、まわす必要なんてないと思っている。
もちろん。例外もある。日本の外の世界中の人を「日本人じゃない人たち」とまとめて一般化できないなんてことは当然わかってる。
ある友達の一人は、小さい頃から父親の仕事の都合で北米で暮らし、そのままアメリカの大学に進んで就職して、永住。
この彼女はとにかく異常なほど気を使う。モロドメな日本人じゃないのに、である。でも日本の外にいるから、特に自分のアイデンティティが日本人だと意識するせいかもしれないが、とても日本人風な気の使い方をする。
なにか言う時にも「由さんはこう思ってるかもしれないけど」という前置きがあることが多くて、(いや、全然そんなこと思ってない)とか、(うん、確かにちょっとそう思ったけど、別にそんな大したことじゃない)ということがほとんど。そんなに気をまわして生きてたら、さぞ疲れることだろう、と思う。正直、私も疲れる。
日本で日本人みんながそうやって気づかいしてたら、なにも決まらないってことがあるのではないだろうか。協調性の反対側。
もう一人は、日本で生まれ育ったが、大学生の頃からやたらめったら海外で暮らしては日本に戻り、また海外にでてを繰り返している。この前の4時間Zoomで、今はカナダ在の彼女がこんなことを言った。
おうどんとラーメンとどっちがいい?って聞いて、どっちでもいいって言われるとするでしょ。それで、おうどんにする?って聞くと、うん、って答えるから、あ、最初からおうどんが良かったんだって、思うの。もしも、わたしがラーメンにする?って聞いたら、どっちでもいい、って答えたはず。
だめだ。わたしは昔から二者択一が必ずできる人だから、そう聞かれたらどっちがいいか答えられるし、心底どっちでもよければほんとに結果どっちになってもいい。人に聞いてどっちでもいいと言われたら、文字通りにとって、わたしが決めている。
だって。どっちでもいい、って言うんだからさ!
どっちでもいいって言っておいて、じつは内心はこっちがいいなんて思ってるのは反則だ。
彼女のそういう気づかいは、職場で上司に重宝されている。そりゃそうだろう、かゆいところに手が届くような気づかい。それは日本人だからできること。日本人にとっては結構当たり前なこと。
さらに。三人目の友達は、やっぱりアメリカ在が長くて、オンラインで東京オフィスのメンバーと仕事し、年に何度か日本に出張する。
あのさ。何が嫌だって、お腹がへってきてランチ今食べたいって思うのよ。そう言うと、同僚に「あと30分待てば皆でランチにいけるから」って言われて、30分待たされるわけ。でもさ、私は今食べたいのよ、今。なんでそんなことを他の人と合わせなきゃいけないのかわからない。
でも。彼女の言い分はよくわかる。
この前会ったとき、お弁当をもってハイキングに行った。お腹が減ったようなことをチラチラ言い始めて、ある瞬間に「ここで食べたい」と言った。ピクニックテーブルもなにもないただのハイキングコースのど真ん中で。よほどお腹が空いて今食べなきゃダメなんだなとわかったし、私はどこで食べようと全然気にしないから、おっけーと言って、木の切り株を見つけて座って二人でランチを食べた。通りすがりのハイカーたちが私達を見てちょっと笑っていた。
さて。わたしが日本に滞在するとき、毎日のように人に会う。ランチで会って話がはずめば、お互いにもっと話したかったねって感じになって、次回はディナーにする。ランチからディナーに昇格しない人もいるし、しばらく会わなくてもいいやってこともある。
「会ったときにちょっと物足りないくらいで終えるほうが、関係が続きますよね」
日程が決まってくると、さてどこで何を食べようか、という話になる。わたしが「お客」だから、当然何が食べたいかを聞かれる。
これはアメリカでも同じだけれど、相手の年齢や職種で予算が違うのは容易に想像できる。旅行者であるわたしはドル高円安もあって、すべてが三割引で、つまり3万円の食事だとしても$200という感覚だから、超インフレのマンハッタンでちょっと気を入れて食事をするのと変わらないのに、さらにパワーアップ超豪華な食事ができる感覚なので、どこに連れて行かれてもまったく構わない。
だから。泊まっているホテルがどこかと何料理が食べたいかだけははっきり伝えて、レストランを提案してもらう。たいてい、いくつか候補がでてくるからメニューをみて、わたしのツルの一声で決まる。相手が選んだレストランだから、予算的に問題にならないとわかってるからとても楽である。
ところで。今の時代でも、日本では年長者が全額払うとか、多めに払うとかそういうルールはあるんだろうか。中学の同期会では飲み放題7千円のコースで、当然そのつもりでいたら、とことん飲みまくった男性陣が9千円、女性陣は5千円と言われて、へぇ〜と感心した。
ここで、男女対等!女だからってバカにしないで!などと叫ばないし思わないところが、大人の女である。
バカにしてやってることじゃないんだからさ、相手は。
アメリカでは絶対にそんなことはあり得ない。ムスメの高校時代の水泳クラブの遠征先で食事になり、飲みまくる人も飲まない人も割り勘になって、機嫌が悪くなる人が出ることが多かった。そりゃそうだ。だからドリンク代を合計して、One Drink当たりいくらかを計算し、何杯飲んだかで負担を平等にした幹事が登場したとき、偉い偉いと思ったことがある。
30代の研究者と会うこともあって、ポスドクだった時にはごちそうしていたら、彼が職を得てからは「僕、もうちゃんと払えます!」みたいな気概を感じて、そこは母的に尊重したいので食事は割り勘にし「じゃあ、次(二次会)はわたしがごちそうするね」とした。30代でも40代でも彼らは毎回ごちそうされるつもりでいないのがわかって、いい子たちだなぁと思う。とても気持ちがいい。
細かいことを言えば。同じ年代の友達と出かけて食事をする。それぞれ違うものを頼んだとする。デザートを頼んだり頼まなかったり。そしたらお勘定はそれぞれが頼んだものだけを払う形を取るのか、単純に半分にするのか。これが、ひとによって違うからおもしろい。
私の日本人部分がこう言わせる。
「私が頼んだもののほうが高いね、どうすればいい?別々に払える?」
「レジでやってもらえるから」という人がいる。
いずれにせよ。こういう疑問なシーンで、ちゃんと言葉にすることがいいんだろうと思っている。
こっそりメッセージ。
Costcoの話。 一人暮らしになったり子どもがいなくなって解約する人もいるというのに、ワタシは相変わらず隔週くらいのペースで通っている。買うものはトイレットペーパーとか炭酸水とか。お肉は冷凍するのでCostcoサイズでも問題ないどころか、いちいち買い物にいかなくていいからすごく楽。それでさ。階下にあるリビングのトイレと、寝室のトイレの2つ、それぞれ4ロールくらいトイレットペーパーを置いてあるのに、すぐになくなって、Costcoサイズの中の1パック(6ロール)を二箇所に分けて補充ってことをよくする。なんでこんなになくなるのかと思ったら、ワタシ、ほとんど外出しないからなんだわ!
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