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50代の人づきあいと新しい出会い。

今年58歳になる。あと二年で、かの「還暦」である。還暦と言われても、昔のように還暦まで生きたよ、めでたいっていう時代ではなく、まだまだあと数十年は生きるぜっていう時代である。

そして。自分の老後の計画とか将来への不安に向き合う年になっても、親がまだ生きている。

周囲の友人も似たような年代である。皆もう五十年近く生きてきて、結婚していようと独身だろうと離婚していようと子どもがいようといまいと、それぞれの性格とか生き方がもう確立している。

「何を言っても、もうどうせ変わらないよね。」

と、皆が友人知人のことを言う。年老いた親なんか、その極地だから、何を言われても聞き流せ、何を言っても変わらないんだから、ということになる。

親はともかく、友達のことをそう考えるのはちょっと寂しい気がしなくもないが、それは助言を聞き入れてもらえないことの不満なのだろうか。どう言葉をつないで説いても、相手が納得しない合意しないことへの苛立ち。当事者本人だから見えていないのに。外にいるわたしには客観的にこんなにはっきり見えているのに。そして、諦観。

でも。そうじゃなくて、彼ら自身がする決断を受け入れればいいのだろう。彼らの人生なんだから。それは諦めでもあり尊重でもある。

相談されればもちろん意見はいう。
話を聞いてもらいたいと言われればとことん聞く。
でも。最終的に決めるのは、彼らだ。

母だから、他人に対して寛容かもしれないが、同時に自分の影響を他人に与えられることを過信しているかもしれないと、最近気づいた。

子育ての時代は、子どもに「教えて」きた。
彼らがおとなになった今、もう自分で考えて決めて行動すればいい。

そして。その逆もありあり。
わたしには見えてなくて、彼らには見えていることもある。
意見は聞くけれど、最終的な決断はわたしのもの。

結局のところ、いい加減この年になったら、自分で決断しないと後悔することを、皆わかるべきだし、わかってるだろう。

わたしはいろんなことについて自分の考えがある。しっかりある。しっかり意見がない題材については、調べたり読んだり人の話を聞くし、何気ない会話がオモシロイ話題にたどり着くことも多く、おしゃべりは楽しい。

中学時代の友達とも、三十年前にアメリカにくる前に東京で働いていた同僚とも、当時せっせと書いてたブログの読者から友達になった連中とも、二〇年前までこっちで一緒に働いていた同僚とも、ビジネススクールで知り合った友達とも、このへんのママ友とも、ビデオチャットや電話、家に招待して四、五時間喋りっぱなしなんてことはよくある。LINEで延々とテキストチャットするし、日本に帰ったときには会って四、五時間喋りっぱなし。最近あるプロジェクトを通じて知り合った若者たち以外は、皆似たような年代だ。

人と人との距離はそこそこあったほうがいいと最近になって深く強く思うようになった。二〇年以上連れ合った夫と、全然わたしという人間をわかっちゃいなかった、というような別れ方をすると、人と人とがわかり合うってことの難しさを感じる。

夫婦でも友達でも、歴然としてあるお互いの違いにどう折り合いをつけてつき合っていくか、なのだと思う。折り合いをつけてもつきあっていきたいかどうか。つきあえる部分だけでつきあうしかないと思うか、つきあえる部分でつきあいたいと思うか。

タイムスだったか、どこかの記事で、子どもが巣立ってママ友とも縁が切れてくるこのくらいの年齢になってきたら、どうやって交友関係を広げるか、どういう人づきあいができるか、ということが書かれていた。若かった頃の友人関係のような、朝から晩までなにもかも共有する「親友」じゃなくて、個々のシーン毎につきあう友達がいるといい、という話。

映画を一緒に観る友達。
博物館や美術館へ一緒にいく友達。
コンサートにいく友達。
お茶する友達、食事する友達、お酒をいっしょに飲む友達。
私の料理を食べてくれる友達。食べさせてもらうこともあったら最高だ。
読んだ本の話をする友達。
時事問題の話をする友達。

そして。新しい出会いをどんなところでどんなふうに見つけるか。

例えば。週に一度の習い事(ヨガとか、陶芸教室とか、編み物とか)のような集まりにいくと、同じ趣味をもつ人と出会える。
毎日(もしくは毎週)同じ時間にカフェやバーに行くと、同じタイミングでその場にいる人と出会える。お互いに定期的にくるタイミングが合ったら「また会いましたね」ってことになる。

なるほどね。いいなぁ。

私は今近くの図書館で、週に一度瞑想のクラスに通っている。平日の昼だから来ているのは年配の人ばかり(「1964年、私が高校生だった頃」という発言を聞いて、おぉ!私がまだ生まれる前!と思った。)だけれど、15年後の私はこんな感じなのかしら、と観察する。穏やかで品のいい御婦人もいれば、いつも遅れてくる人とか、おしゃべりが止まらない人もいる。そして、明らかに一番若い私、に声をかけてくれるのは、穏やかで品のいい御婦人。

晴れてボストンへ引っ越しするなら、その着陸先は、街の中心 Main Streetまで歩いていけるところにしたい。Back Bayには電車でいければ十分。ふらっと歩いてカフェで読書とか。家食のあと、ふらっと歩いてバーでカクテルとか。「ちょっと紅をさす」みたいなココロモチお洒落して出かける。常連さんになって、お店の人や同じような常連さんと顔見知りになる。

どうよ。いいでしょう。


Noteはフォロワーがいてもどこまできちんとフォローしてくれているのかはスキを押してもらえなければわからないし、新しい読み手がきても一回(一記事)きりのことも多いだろうから、前に書いたことを読んでくれてる「前提」で書けない。私のかつてのウェブ日記仲間のように、この「関係性」が続くのかどうかも見えない。25年前に書いていた頃の読者四人と私はまだつながっている。

それで。毎回スキしてくれるあなたに、こっそりメッセージを最後に書くことにしよう、と思いついた。その日のテーマに関係ない、私の日常からのメッセージを。

あのねー。
一番気に入ってるのはVaundy。声がいい。ルックス見て、あんまり普通でますます気に入った。藤井風もイイ。コブクロとYorushikaともスキだけど、ちょっとイタイ。back numberは痛すぎ。高橋優と優里はうるさくてダメ。私は尾崎豊みたいな説教臭いのは苦手なのです。米津玄師は、あの時折ノーテンキになる声(アニメソング風。ほらハガレンの)がうっとおしいtax filingの作業中に気分を盛り上げてくれることに気づいた。彼、NYCにコンサートにくるんですよー。

私はオハイオに旅行中で行けないんだけど。


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由香璃。
ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。