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サニー・サマーデイ [#3/4] 203X

▼203X

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 X県S市のマンションの一室。通されたリビングに目立った特徴はないが、しいて言えば、家具や家電が結構良いものに見える。部屋も一人暮らしにしては広いようだ。
 奥から家主の老人が現れる。
「黒須さん、わざわざ来てくれてすまないね」
 老人は人数分のお茶を出す。老人自身と、俺と横の撮影スタッフ。
「いえ、これも仕事なもので。現場感があった方がウケがいいんですよ」
「ああ、わかりますよ。いや、Youtuberの仕事のことを詳しくはわからないけど。感覚的にはね」
 Youtuberと呼ばれた俺は、柔和に見える表情をして、老人を見つめ返す。年齢は70前後のはずだが、もう少し老けて見える。
「私の若い頃も、心霊番組ってありましたよ。1990年代とか、2000年代辺りかな。テレビでよくやっていたのを覚えています」
「ああ……。私は生まれる前か、赤ん坊とかそのくらいですね。リアルタイムではないですが、過去の映像で見たことはありますよ」
 年長者相手なので、一人称は”私”でいくことにする。口調もゆっくり丁寧を心がける。
「そうですか。あの頃は霊能者とかが出ていて、大げさなことをしていて、いかにもバラエティーって感じがしたけどね」
「我々は、そういのとはちょっと違ってですね。私も霊能者ってわけではないですよ。霊感があるかないかも、よくわかりませんし」
「ああ、知っていますよ。あなた方の番組、過去のをいくつか見ましたし」
「ありがとうございます」
 おおげさにならないよう気を付けて、笑顔を返しながら言う。
「ああいう昔の番組みたいな、わざとらしく面白くしようとしたものより、今は生感、現場感が求められているんです。10年くらい前から続くトレンドですが」
「では、私もそれに従いましょう。始めていただいて大丈夫ですよ」
 老人の昔話が始まるかと思ったが、本題に入ってくれた。今のはアイスブレイクってやつだったのだろう。彼は元々はビジネスマンでそれなりに稼いでいたらしいので、話し方にもその頃の癖が残っているのかもしれない。
「では、カメラを回しますね」
「どうぞ」
 スタッフに合図する。
「はい。黒須です。今日は体験者の方への取材企画。X県S市の某所、山下さんのお宅に伺っています」
 本名は井上と聞いているが、慣例に従い仮名にする。
「山下さんは、この近くで不思議な体験をしたそうですね」
「はい。子供の頃の話です。その頃は、ちょうどこの近くに住んでいました。会社勤めをしていた間は東京で一人暮らしをしていたのですが、定年を機にまた地元へ戻ってきました。連れ合いもおらず、両親も他界して、今は一人暮らしをしています」
 井上は一息に話し、お茶で喉を潤す。
「それで、体験というのは、子供の頃のことです」
 井上の目線は少し左上を向いている。一般的な心理分析に照らし合わせれば、話を作っているなら右、過去を思い出しているなら左を向く傾向が強いということになるが、絶対ではない。あくまで分析材料のひとつに過ぎない。
「夏祭りにあった不思議な体験と、その後のこっくりさんの記憶です」
 井上は体験談を訥々と語りだす。

-2-

「お話、ありがとうございます」
 黒須も途中で合いの手を入れながら話は進み、井上は一通り話し終えた。
 夏祭りの日、お化け屋敷に現れた背後の女性にまつわる体験談と、その後のこっくりさんにまつわる話。
「それで、その後、不思議な何も起こらなかったのですか?」
「なかったですね。特別なことは」
「本当に、何も? 今に至るまで? 今の話だと、こっくりさんもうまく終わせられたのか不明ですし。そのときに何かに取り憑かれた可能性も、なくはないですが」
「はい。あれから60年くらいになると思いますが、特には。ふと不思議に思う瞬間は何度かあったように思います。虫の知らせみたいな。でも、誰でもそういうことってあるでしょうし、人並みな出来事だと思いますよ」
「そうですか」
「あの体験は、妖精とか、イマジナリーフレンドのような、子供にしか見えないものだったんじゃないかと思っていますよ。あれは多感な子供の時期だからこそ感じられた体験で、大人になったら感じられなくなったのではないかと。そういう風に私は捉えていますよ」
「なるほど。わかりました」
 
「最後にもうひとつ。どうして、この話を我々に話してくれる気になったのでしょうか?」
 もちろん取材の謝礼は払うが、お金目当てではないだろう。この部屋を見る限りお金に困っているようには見えない。
「最近、若い頃の夢を見るんです」
「夢、ですか」
「私はこう見えても、年金を貰い始めてからまだそんなに経っていないくらいなんだが、年齢の割に年寄りに見えるだろう?」
 返答に困った顔をして、続きを促す。
「病気があって、一気に老けてしまいましてね。寿命もそう遠くないのかもしれない」
 実際寿命が近いかどうかはわからないが、そう思っているということは本当な気がする。
「そう、それで、夢ってのも、気の早い走馬灯のような気がしてね。それで、人生で思い残したことがないかって思い返してみて。そうだ、あのことだ。死ぬ前に誰かに話しておくべきだって、思ったんです」
「――これはYoutubeで公開されて、多くの人に見られることになります」
「そうですか。それを願っていますよ」

 スタッフにカメラを止める指示を出す。
 一息ついて、目の前のお茶を飲む。冷めているが、結構美味い。
「これは、いつ頃公開されるのですか?」
「ああ、はい。再来週の土曜日の予定です。映像は事前に確認しますか?」
「いや、いいです。任せますよ」

-3-

 井上のマンションを出て、駐車場に向かう。
 周囲は閑静な住宅地で、とりたてて印象に残るものはない。
 怪談、怪異、オカルト。そういう話は、田舎だけにあるものではない。こんな普通の街にもある。むしろ、普通の街の少し不思議な話、そういうのが今のトレンドだ。
 因習村のじじいみたいなわかりやすいものは、今の観客にはウケない。たとえ、本当にいたとしても。

 駐車場に着き、車に乗り込む。スタッフは運転席、俺は助手席に。
 一息ついて、スタッフに問いかける。
「どうだった?」
「よかったと思いますよ。話も面白かったですし。データも一通り取れています。考察のしがいもありそうですね」
 そのまま少し待つと、運転席側の窓がノックされる。
「お疲れ様っす」
「お疲れー」
 周辺担当のスタッフが戻ってきて、折り畳み自転車を車に積み込む。
「お疲れ、どうだった?」
「聞こえた話から当たりを付けて、周辺については一通りデータを取ったっすよ。離れた場所のは取れていないんで、もう1回来ないとですね」
 体験者との会話は、外部のスタッフにリアルタイムで聞こえている。事前の取り決めに従って周辺のデータを収集をしてもらっていた。
「あの人、昔もこの辺りに住んでいて、その時の記憶があの話のベースになっているとしたら、考察できるデータは揃えられると思うっすよ」
「よし、じゃあ帰るか」
 あの老人が子供の頃に不思議な体験をしたという、何の変哲もない街を、離れていく。

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 土曜日の20時、Youtubeのプレミア配信が始まった。
 収録した番組がYoutubeを介して配信されている中、視聴者のコメントを追って、適宜スタッフコメントを入れる。
 今、事務所には俺とスタッフ1人。他のスタッフは、自宅など各々の場所でチェックしている。

 先日訪問した初老の男、井上――番組内では偽名を使って山下さんだった――への取材映像が終わり、番組の後半に入る。
『以上、体験者の山下さんのお話でした。では、番組後半で、このお話を考察していきます』
 前半に体験者の話、後半にその話の考察というのが、この番組の定番の流れである。
『まずは地図から見ていきましょう。これが現在のS市、そしてこちらが60年前のS市』
 お天気キャスターみたいな構図で俺がいて、背景の地図が切り替わる。
『井上さんの話に出てきた学校、神社、商店街はここです。今も60年前と同じ場所にありますね』
 画面が切り替わり、街ブラ番組風の構図になる。
『こちらが現在の商店街です。全体的に綺麗な洒落た店が多く、昔とは違う風景になっていそうですね』
 画面の中の俺がこちらに振り向く。
『では、当時の風景をAIで再現してみましょう』
 背景が昔っぽい商店街に切り替わる。
『60年前の商店街はこんな感じでした。あくまで可能な限り現実に近い雰囲気の再現であって、全く同じというわけではないですけどね』
 俺が街を歩く映像の背景に、AI生成した60年前の商店街の映像を被せて、あたかも60年前の商店街を街ブラしているような映像になっている。現在の技術なら、リアルタイム映像を現在と60年前を切り替えることが可能だ。スイッチのON、OFFのように。今回はやっていないが、ライブ配信でも可能だ。
「このくだり、いつもちょっと笑っちゃうんすよね。子供の頃に見たテレビの教育番組みたいで」
 スタッフが茶々を入れてくる。ここでは一番の新人の中井だ。
「そうか? 俺は街ブラ番組に見えるけど。お笑い芸人とかアナウンサーとかが飯食ったりするやつ」
 この映像を作るのに必要なのはCGIの技術ではなく、AIに食わせるデータを集める労力だ。ネットから集めるのは当然だが、足を使ってネットにないデータを集めてくるのも重要だ。精度に差が出る。
 この軽い調子の彼も、足を使った情報収集ができる人材で、重宝している。
「どっちにしろ笑えません?」
「確かに」
 画面の中の俺が、神社に着いた。
『60年前がこれで、現在がこれ』
 風景が60年前から現在へ、瞬時に切り替わる。
『だいぶ違いますね。ここは20年前に大きな工事があって、整備されたそうです』
 俺が歩く背景が、60年前と現在を行き来する。切り替えが早すぎて画面がうるさいかもしれない。今後の改善事項だ。
『山下さんの体験は、夏祭りのことでした。では夏祭りの映像に切り替えます』
 画面の中の俺がさっと手を振ると、背景が60年前の夏祭りの風景に切り替わる。
『AIで再現した夏祭りの様子です』
 AI、AIとくどいが、現代においてAIの扱いはデリケートで、どう使ったかをいちいち明示しないといけない。下手を打つとネットで叩かれるので、仕方がない。
 画面の背景が塗り替わっていく。道の左右に屋台が並ぶ、夏祭りの風景。何の変哲もない、普通の夏祭りの風景といえばそうかもしれないが、この映像を作るのには苦労した。
 こういう風景は、ぱっと見では現代と大きくは変わらないが、情報を集めAIに食わせて、可能な限り60年前を再現させている。視聴者にどこまで伝わるかはわからないが、神は細部に宿るというものだ。
『道の左右に屋台、頭上には提灯、いかにもといった夏祭りの風景ですね』
 画面の中の俺が、道の奥の方へと歩いていく。現実にはこの風景の中を歩いたことはないが、そういう映像が存在して、客観視点で見るというのは、不思議な感覚だ。AI再現とはいえ、人間の目ではAIと現実を判別できない。ずっと見ていると、実際にはやったことのない記憶が脳内に捏造されてしまいそうだ。
 
 画面の俺が広場に出る。
『60年前、お化け屋敷はここにあったようですね』
 俺が指さす先に、お化け屋敷の再現映像が現れる。
『お化け屋敷の業者は、20年前に廃業してしまいましたが、当時を知る方々から情報を集めて、AIで可能な限り再現しました』
 古風なお化け屋敷を映すカメラが、左から右へパンしていく。
 看板には、おどろおどろしい『お化け屋敷』の文字に、妖怪。ろくろ首と雪女だろうか。
 ちなみに、こういうお化け屋敷は、小規模ではあるが現在もやってはいるようだ。ノスタルジックなところがウケているのだろう。
『では、ここで地図を見てみましょう』
 画面がお天気キャスター構図に切り替わる。
『神社周辺の地図です。山下さんの話では、お化け屋敷の中で迷い、何者かの導きで外に出て、林を抜けて、屋台の裏に出たと』
 地図の中に赤い線が引かれる。
『山下さんの移動したルートを推測すると、こんな感じになります。まず気になるのは、お化け屋敷の中も、林も、そんなに広くはないんですよね』
「確かにねー」
 中井が映像に合いの手を入れる。
「お前は展開知っているだろうが」
『こういうとき、エピソードが大人の時の体験か、子供の時の体験かで、見方が変わります。大人の時の体験の場合、よくあるのは話を盛っているケースですね……』
「そういえば前の動画で、体験者はこういう心理でこういう話の盛り方をしたって、全部解説したことあったっすよね。黒須さん性格悪いっすよー」
「まあでも、話のこの部分だけは、ひょっとすると本当の体験かもしれませんねって締めて、完全否定はしなかったし」
「それって、基本は悪だけど良心のかけらがかろうじてあります……みたいなもんですよ」
 ひどい言われようだが、中井も悪意なく言っているのはわかっている。
 画面に視線を戻す。俺の解説が続いている。
『対して、子供の頃の体験の場合は、やはり距離や時間の感覚が違うってのはありますよね。迷子になって怖い思いをしたけど、家の近所を10分ぐらい歩いていただけとか。そういう記憶、思い出がある方もいると思います』
「俺もあるっす」
 中井が頷いている。
『背後にいる霊らしきものを見たというのも、幽霊に扮したスタッフかもしれませんし、全て少年の多感な感性が生み出した、少年期の記憶として説明を付けることは可能ですね』

 ここで、映像の俺が溜めを作る。
『ですが、この話はそれだけでは終わりません。はるか昔、200年から300年前、この地域に、怪異譚の収集者がいたと、伝えられているそうです。この地域でもその人物や集めていた怪異譚を知っている人は少ないようですが、我々は有識者を見つけました』
「有識者って、AIで見つけたんすか?」
「うん、そう。ありったけデータを食わせた後、そこから情報の繋がりを見つけて推論するってのは、うちのAIは得意だからね」
「AI便利っすよねー。まあ、データ集めるの大変でしたけど」
 今回、中井にはかなり走り回ってもらった。確かにAIは便利だが、何から何までやってくれるものではないし、AIを生かすには苦労がある。
「それで、AI情報から誰に当たるべきかわかったら、後は中夜のツテでコンタクトが取れた」
「持つべきものは友っすねー」
 
『この地域出身の怪談師の方で、ご先祖様から伝えられた怪異譚を持ちネタにしているそうです。その方によると、この地域一番のお屋敷で、ある夏の夜、10人ほどの男と1人の女が斬り合って亡くなった事件があったそうです。男たちが女を取り合った結果なのか、それとも集団ヒステリーなのか……』
「集団ヒステリーって言葉、便利っすよね」
「そんなこと外で言うなよ。本当に便利なんだから、使えなくなったら困る」
『山下さんの体験も、あながち多感な少年の記憶というだけで片付けられないかもしれません。我々は、この怪談師の方に話を伺って、謎を追っていきたいと思います』
 まあ、それをやるかどうかは、この動画の反響次第だが。
 Youtubeの画面を流れるコメントに目を向ける。反応は上々といったところ。続編の動画を撮ってもいいだろう。

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 配信が終わった後は、心を落ち着けるために、ひとり事務所近くのバーに行く。いつもルーチンで、何も考えていなくても、自然と足が向く。
 ビルの地下に降り、重い扉を押し開けると、8席のカウンターが見える。
「おう、先に来てたよ。お疲れさん」
 一番奥の席に和服の男。怪談師の中夜だ。俺のルーチンを知っていて、動画配信の日にこの店で待ち構えていることがよくある。
「ああ、どうも」
 隣の席に座り、馴染みのバーテンダーに微笑を向ける。
「マスター。今日のフルーツ、何があります?」
「パイナップル、キウイ、桃、スイカ、マスカット、トマトのご用意があります」
「じゃあ、スイカのカクテルで」
 大の男がバーで一杯目にフルーツカクテルは締まらないかもしれないが、配信の後は疲労で糖分がほしくなる。仕方がない。
「僕は、同じのをもう一杯」
 中夜はいつもの日本酒カクテルをおかわりした。
「承知しました」
 注文に頷いて、バーテンダーはカクテルを作り始める。スイカを大きな棒で潰してペースト状にするのを見ながら、俺は脳の回転速度を緩めていく。
「いやあ、今回も良かったよ」
「見てたの?」
「ああ。ここで」
 中夜はスマホを指さす。
「そうか、そりゃどうも」
「で、あの人どうやって見つけたの? それもAI?」
「ああ、そう。AI。動画だと説明逆にしちゃったけど、元々あの地域に怪談、怪異譚とか、そこまでいかなくても不思議な話とかが多いらしいってのは、元々情報あったんだ。それで、昔から住んでいた人とかを探して」
「それはそれで、なんか大変そうだな」
「AIが何でもやってくれたらよかったけど、そうもいかないよね。AIの託宣に従って、人間が手と足を動かす。そういう時代だよ」
 少し自虐が過ぎたかもしれない。すべてが本心というわけではないが、否定もできない。
 
 会話の隙間を見て、カクテルが出された。バーの暗い空間に、フルーツカクテルが映える。一口飲む。上品な甘さが脳に染み渡る。
「でも、話の詳細な内容まではわからなかったから、あの怪談師がいてくれてよかったよ。中夜の紹介で助かった」
「また、話聞く?」
「ああ、今回結構好評だったから、第2弾をやりたい」
「わかった。話しておくよ」

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 酒が進み、俺は2杯目、中夜はたぶん、4杯目か5杯目。
「いやあ、この10年大変だったよね」
「ある種のクリエイターにとってはね」
「良くも悪くも、AIに振り回されたよね」
 なぜか、中夜は昔話を始める。
「生成AIが出始めて、画像も動画もそれっぽいものが簡単に作れるようになって」
「うん」
「それでAIが発展して、人間の目には現実と区別がつかなくなって」
「そうだな」
「今度はAIの生成物を見破る”AI破り”が出てきて、人間の作品とAIの生成物を判別できるようになって」
「この頃、俺たちYoutuberはみんな儲かったね。AI暴露動画がウケて。まあ、それより昔から、そういうのもあるにはあったけど。人間の目で全く判別できなくなってからが、本番だったよね」
「人間の作品とAIの生成物をうまく混合させて”AI破り”を抜けようとする、小手先の技少し流行ったけど、黒須はそれぞれを分離してみせて、これが現実です! ってやってたね」
 当時の決めポーズのモノマネをしようとする中夜から目を背ける。
「なんであんなことしていたんだろう……」
 今から考えると、黒歴史というやつだ。そういえば、黒歴史って昔のアニメが語源らしいな。中夜なら知っているかもしれない。

「それでアンチAIの流れになって。人間の手による作品の人気が復活する」
 なぜか饒舌な中夜に話を続けさせておいて、俺はカクテルの味を堪能する。
「黒須さんはキャラ変して、心霊や不思議な体験について体験者に取材する、古典的な番組に回帰する」
 そうだった。見た目も名前も、何もかも変えた。この業界でサバイブするためだ。
「”AI破り”の影響もあって、今度は映像よりも怪談や怪異譚そのものの面白さ、怖さのクオリティが求められる。そこで、黒須はAIにトレンド分析とネタ探しをさせる」
「使用目的と使用箇所を明示して使わないとネットで叩かれる生成AIと違って、そういう分析系は叩かれないからね。昔は人がスクリプトを書いてAIに生成させていたけど、今はAIがスクリプトを書いて人が手を動かす、みたいな感じ。AIが頭脳労働で人間が肉体労働。皮肉なもんだよ」
「僕には、AIの使い方は、そういうやつの方が馴染みがあるけどね。何かを生成ではなく、託宣を与えてくれる。東方の三賢者みたいで」
 何を言っているのかよくわからない。多分中夜の好きな、古いアニメのネタだ。

「あとなんかあったっけ? 黒須さんのAIが凄いって話」
 前に何度か話したことがあったと思うが、忘れたのか。
「ああ、学習データは自前で持っているってことか」
 AIは一般的に、AIエンジンのだけで動くのではなく、学習データが必要だ。
 ネットにある公開情報を食わせるのが手軽だが、俺はネットにない情報も大量に食わせている。元々大学の時に民俗学を専攻していて、研究で集めた情報を学習データとして使っている。
 まあ、民俗学では就ける職が少なく、そこまで優秀でなかった俺は就職に失敗したという経緯があるので、大学でやっていてよかったとも言い切れないのだが。
 それで、その後紆余曲折を経て、今はYoutuberをやっている。正直お堅い教授には顔見せできない仕事だが、研究が無駄にならなかったのは、結果オーライと思うことにしている。
「学習データを自前で持っていて、公開しないことで、他の競合するYoutuberよりも精度の高い分析ができる」
 ネットでは分析というより考察という方が通りがよいので、考察AIと呼んでいる。
「なんか前に、真似してきたYoutuberがいて、より精度の高い考察をやってぶっ潰したこともあったよね」
 市販のAIと学習データ程度では、そこまでの精度は出ない。
「あれは、相手から喧嘩を売ってきたからね」
「と、黒須さんはこんな人です――」 
 中夜の視線は俺を通り越して先を見ている。
 振り返ると、初めて見るバーテンダーがいる。会釈をすると丁寧な会釈を返してくれた。この手のバーで女性のバーテンダーは少し珍しい。
「え? 俺の紹介してたの? 何だよ……」
 中夜は日本酒カクテルを飲み干す。
「じゃあ、次はそちらの新人さんに作ってもらおうかな。同じやつを」

 後に中夜が語ったところによると、新人さんが作ったカクテルは、さすがにマスターよりも若干味が落ちたらしい。新人とはいえ他の形態のバーで働いていたことがあるらしく、まあまあではあったようだが。
 マスターが凄すぎるというのもあるだろうが、同じレシピで作っているはずなのに味が違ってくる。この違いを、AIは説明できるのだろうか。

-7-

 再び、あの街に向かう。取り立てて特徴のないベッドタウン。
 車内には前回と同じ3人。後部座席のスタッフから声をかけられる。
「配信の後で連絡が来たってことですけど、あの後思い出したことがあるって、本当っすかね?」
「配信の内容が気に入らなかったときに、そういう風にを言って呼び出して、会ったら文句を言うってことはあるけど。今回はどうかな」
「黒須さんが、あの人の子供の頃の甘酸っぱい体験を赤裸々に語り過ぎるからっすよ。普通もっとぼかすんじゃないっすか?」
「うーん、ギリギリセーフを狙ったつもりだったんだけど。あの人、怒るタイプじゃないだろうしと思って」
「どうかなあ。黒須さんって、あんまり人の心がわかるタイプじゃないっぽいし」
「そうか? こういう取材じゃ、相手の心を分析しながら話しているつもりだけど」
「人の心が分析できるのと、人の心がわかる――共感するとか――そういうのは、多分違うっすよ」
「そういうもんかね」
 窓の外に目をやる。視界を流れていく街の風景。
 あの老人が不思議な体験をしたという60年前は、どんなだっただろうか。AI生成の映像を見たので、想像するのは簡単だ。精度も高いはず。でも、100%ではない。実際に生きた人だけの感覚が、何かあるのではとと思う。
 前回と同じ駐車場に着いた。車を降りて、井上のマンションに向かう。

 前回同様に、井上老人がお茶を持ってくる。
 打ち解けた様子を見せた方がよいと判断して、出されたお茶を、あまり間を置かずに飲む。熱くて美味い。
「再びのご連絡ありがとうございます。新しく思い出したことがあるとのことですが」
 前回の配信の内容に話題が向かないよう、配信での視聴者の反応を話したり、見た感想を訊いたりはしない。アイスブレイクなしで、さっそく用件に入る。
「そう、正確に言うと、本当は少し覚えていたんです。記憶に自信がなかったので、あえて話さなかったのですが」
 体験者がこういうことを言い出すとき、前回の話が好評だったことに味を占めて話を盛ってくるケースは、結構ある。特に若い人の場合は。こちらもどういう意図でどんな盛り方をしたのかを考察して配信すればよいので、それでも問題はないのだが、この人は違う気がする。
「このことを、誰かに話すのは初めてです」
 井上は正面から視線を合わせてくる。
「君なら、いいかなと思って」
 不思議な言い回しだ。少し違和感がある。
 井上は一旦部屋の奥に行き、戻ってくると、テーブルの上に古びたクッキー缶を置く。
「まだ持っていたんです。あの紙を」
 井上はクッキー缶を開ける。手紙らしきものを避けて、その下の古びた紙を取り出す。
「これが、あの……。手に取ってもいいですか」
「どうぞ」
 しわくちゃの古ぼけた紙に、たくさんの文字が並んでいるが、どれもにじんでいて読めない。赤い印もあるが、鳥居かどうかもわからない。
 こっくりさんの紙が経年劣化したものかというと、無理やりそう言い張ることもできるかもしれないが、本当にそうか? という感じだ。何か違うもののように見える。
「お話で聞いたもの、そのままですね」
「これ、調べられますか?」
 井上がこちらを見ている。俺は一旦テーブルに紙を置いて、真摯に答える。
「ええ、はい。是非とも、調べたいです。お借りしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
 ありがたい。これが本物でも、偽物でも、いずれにせよネタになる。まあ、本物というか、何か意味のあるものであった方が、よりよいネタになるので嬉しいが。
「ありがとうございます。調査させていただきます。調査結果は配信に使ってもいいでしょうか」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
 深々とお辞儀をして、撮影スタッフに合図を送る。動画の撮影が終わる。
「いや、本当にありがとうございます。こんないいネタは、なかなかないですよ」
「私も、これのことは気になってしまって。何かわかれば嬉しいです」
 井上が少し笑顔を見せる。
「ああ、そうだ、今日の謝礼をお渡しします」
 封筒に入ったお金を渡すが、井上はそれをそのまま返してくる。
「いや、結構ですよ。これだけでお金を頂くのも忍びない。その代わり、何かわかったら教えてくださいね」
「そうですか。わかりました」
 返されたお金を受け取る。この手の体験者で、お金を受け取らないのは珍しい。この紙の正体について、本当に気になっているということか。
 そして、一旦外のスタッフを呼んで、件の紙を損傷させないよう慎重に梱包させた。
 挨拶をして、井上のマンションを出る。
 あの紙について何かわかったら、またここに来ることになるだろう。

-8-

 事務所でYoutube用の映像素材を確認している。
 井上からもらった紙は、解析に時間がかかるので、他の仕事を並行して進めている。
 映像素材の中でどこを使うか、判断して記録を取っていく。
 画面に映る自分を見る。様々な角度で映る自分の姿。ときどき決めポーズを取る。普通の人は、こんなに自分の姿を見ることはないだろう。最初の頃は、自分の姿を客観視点で見ることに、自分がゲームのキャラクターになったような不気味な感覚があったが、もう慣れてしまった。
 
 ん? 何だこれは……。

 俺を正面からとらえたアングル。なんだか輪郭が妙にぼやけているように見える。白い靄のような……。
 しかしそれは目立つことなく、人の姿の輪郭が若干白くぼやけている、その程度だ。俺が動くと、靄の出る場所も少し変わる。
 なんだか、俺のぴったり真後ろに人影があって、それがちょっとだけはみ出して見えている、そんな感じの動きだ。

 振り返ったら、どうなるんだ?
 
「お疲れ様でーす」
 不意の声に反射的に振り返る。買出しに言っていた新人スタッフの中井が、事務所に戻ってきた。
 なんだよ。さっきの葛藤はなんだったんだ。

 中井は買ってきた夜食をテーブルに広げている。
「買ってきましたよー。でも、夜型勤務するのやめた方がいいっすよ。毎日夜食くってたら太りますよ」
 夜まで仕事をして、スタッフに夜食を買ってきてもらう。スタッフがこのテーブルに夜食を広げる。いつも通りの光景だ。
 
「それ、すごいっすね」
「え?」
「いや、その白いの」
 モニターを指さす中井。
「そういうエフェクトかけるの、黒須さんにしては珍しいっすね。というか、初めて見るかも」
 この白い靄みたいなやつは、他の人にも見えるらしい。
「すごいっすね。リアルっすよ」
 リアルな心霊映像? 心霊系youtuberとしては、喜んだらいいのか、怖がったらいいのか。
「いや、元の素材からこうなんだよ」
「え? 本当っすか?」
 モニターに顔を近づけて興奮気味だった中井が後ずさる。
「えー、マジっすか? 本当にリアルなのはよくないっすよ……」
 表情は見えないが、引くわ、の表情になっていると想像する。
「だよな」
「YoutubeのAIに弾かれてBANされるっすよ」
 心配するのそっちか?
「あ、でも、AIに本物と偽物って区別つくんすかね。本当にリアルなものと、リアルっぽいもの。アップして試してみます?」
 いや、そんなの試さないよ。
「本物の心霊映像は弾かれて、本物っぽいだけの映像は弾かれないってこと? Youtubeってそんななの?」
「なんつって」
「は?」
「いや、そんな細かい設定考えてないっすよ。ツッコミ入れるところですよ、黒須さん」
 モニターを見つめいていた中井が振り返り、目が合う。
「本当にリアルなわけないって」
 手の甲で叩いてくる中井をあしらう。確かに、普通の感覚なら、そうなのだろう。
「そういう気分じゃなかったんだよ」
 どっと疲れを感じて、椅子の背もたれに背を預ける。
「黒須さん、疲れてるんすよ。夜型やめた方がいいっすよ」

-9-

「まじか」
 夜の事務所にひとり。模様替えして壁を背をする位置に移動したでデスクで、モニターを睨みつける。
 あれから動画の撮影が3回あったが、どの素材にも白い靄が映り込んでいた。何も細工していない、正真正銘の心霊映像だ。
 ”AI破り”にかけたが、引っかからない。AI加工されていないという判定だ。AI凄いな。
 しかし、これはまずい。むしろまずい。
 
 仮にこの動画をそのまま出したら、まずAI加工を疑われる。そして、ネットの有志――AI警察の連中が”AI破り”にかけるだろうが、引っかからない。
 おそらく、意見は二分されるだろう。「本物の心霊映像だ!」と「”AI破り”のバグを突いたに違いない!」と。
 バズってそれなりの収入にはなるだろうが、諸刃の剣だ。過剰な瞬間風速が出ると、飽きられるのも早い。Youtuberとしての寿命は短くなるだろう。俺もまだYoutuberとしては若手の方だし、まだまだ続けたい。ここ潰れてしまっては、生涯年収でいえばかなり損だ。
 それに、”AI破り”を騙すズルをしやがってみたいな、誹謗中傷も湧くだろう。それも嫌だ。
 
 AIで映像から白い靄は除去することは可能だ。ボタン一発、一瞬で、人間の目には何も不自然に感じない映像ができる。
 しかし、何かを消したということが”AI破り”に引っかかる。
 動画をAI処理して何も言わずに公開すれば、AI警察がAI処理の痕跡を見つけて、ネットで吊し上げるだろう。
 現代において、創作者やYoutuberがAIを使ったら、目的と使用箇所を明示しなければならない。それを破った者は吊し上げられ、誹謗中傷の嵐をくらう。ネットの文化がそうなったんだ。俺にはどうしようもない。
 
 逆に、AIを使いましたと言うとしたら――。
 動画をこのまま出したら……心霊現象を映像で見せるなんて、俺のこれまでの作風と明らかに違う。そういうのもやるんですねと、離れる客がいるだろう。
 
 白い靄をAIで消して出すとしたら、今度はAIを使った目的を明示しなければならない。はたして何と説明すればいいのか。意図せず心霊映像が撮れてしまったので、心霊部分を消しましたでも? トンチキすぎる。

 駄目だ、全パターン駄目だ。
 結論、この動画は使えない。
 
「くそ! 30年前ならお宝映像だったのに!」
 机を叩き、頭を抱える。心霊映像が撮れて困るなんて、皮肉すぎる。
「駄目だ。帰ろう」
 すぐには解決策も見つからないので、今日は帰ることにする。今からなら終電に間に合うはずだ。
 PCを落とし、消灯し、外に出る。
 扉を閉める。
 これからどうしようかと頭を悩まし、注意がおろそかになった一瞬。閉まりゆくドアの隙間に、人影らしきものが見えた、ような気がした。
 がちゃり。ドアが閉まる。
 数秒の逡巡の後、ドアを開けて部屋を見るが、誰もいない。暗闇に機械の小さな灯りが点在するのみ。
 いや、さっきは何か……。人影が見えたような。あれが人だとしたら、10人くらい。
 いずれにせよ、今は何もない。誰もいない。
 気にはなるが、終電も近い。鍵を閉めて帰ることにする。

-10-

 金曜日の夜、地下鉄の改札へ向かう長い通路。終電に乗るために小走りでいく人たち。俺もその流れに一体化する。なんだか水族館のマグロを思い出す。
 歩くのが遅い人を横から追い越す。
 もうひとり追い越す。
 さらにひとり追い越す
 やけにのんびりした人が多いな。
 
 気になって、歩を止めずにさっと後ろを見る。人影は見えない。たまたま視界に入らなかっただけだろうと思ったが、不安感が少し増した。
 早歩きのまま進み、同じぐらいの速度の人と横に並ぶ。少し首を回してその顔を見る。
 何の変哲もない、普通の人だ。そりゃそうだ。
 横を見ながらの変な歩き方になって、もたついてしまった。終電に間に合わせるため、速度を上げる。

 多少は余裕をもって、乗り場に着いた。列に並ぶ。
 左右の人々の顔を見るが、どうということはない。仕事で疲れた顔と、酔って浮かれた顔が半々だ。向かいのホームも同じ。
 最終電車が着いて、乗り込む。金曜日の終電ということで、人が多く満員に近い。
 身動きが取れない状態で、視界には人人人。かろうじて首だけが動かせる。左を見て、右を見る。仕事で疲れた顔と、酔いが冷めて疲れた顔が多い。
 もう一度左を見る。あれ? こんなだったか?
 人相がさっきと違うような気がする。気はするが、いちいち覚えていなかったので、確証はない。
 右を見る。さっきはどうだったか、もはやわからない。

 気味が悪いので、上の方を見る。見飽きた整形の広告をじっと見て、やり過ごす。

-11-

 電車を降り、駅から家までの夜道を足早にいく。
 脇道の暗がりや視界の端に人影がある気がして、視線を左右に飛ばしながら歩く。
 一度脇道から人影にのしかかられて肝を冷やしたが、幸い酔っ払ったサラリーマンだった。いや、幸いでもないけれど。
 背後も気になり始めて、何度か振り返ったが、何もなかった。
 いや、待てよ。この怪異って、いや、あの白い靄が怪異だったとして、背後にいるモノ? いわゆる背後霊、守護霊みたいなものとは違う気がする。なんというか、振り返ったらまずいものなんじゃないか?
 そんな気がする。危ないところだった。振り返るのはもうやめよう。

 気を張り詰め過ぎていても仕方がない。むしろ、こういうときは気にしない方がよい。心霊系Youtuberの経験則だ。イヤホンを取り出してスマホを操作する。
 ちょうど中夜の配信の時間だったので、再生する。
 中夜は怪談師の仕事の一環として、怪談を披露するpodcast配信を定期的に行っているが、今日はゲスト回だったようだ。ちょうどゲストとの怪談の応酬が終わり、感想戦というか、雑談モードになっていた。ゲストは、井上の件で見つけた、あの怪談師だった。
『――さんって、黒須さんのYoutubeで話を聞かれたんですよね』
 相手が年上だからか、中夜が珍しく敬語だ。
『ああ、S市の件ね。いろいろ話したよ。彼って、AIを使うんだよね。俺の話したことをAIに入力して、ええと何だっけ?』
『考察、ですが?』
『ああ、それ。最近の人は凄いね。俺にはわからん』
『AIは、嫌いですか?』
『うーん、そんなこともないな。AIが話題になり始めたときって、AIに怪談を生成させるのが流行ったじゃない』
『そうですね』
『最初のうちはクオリティも別に大したことなかったけど、段々AIが進化して、AIの作った怪談と、人間の生の怪談と、普通の人には区別がつかなくなってさ』
『――さんは、つきました? 区別』
『まあ、だいたいはね。ちゃんと聞けば。で、その後”AI破り”が出てきて、もう一瞬で区別できるようになったじゃない』
『そうですね。あのおかげで助かりましたよ。AIに仕事取られるかと思ってましたもん。”AI破り”様様ですよ』
『俺もだよー。俺みたいな古い人間にも仕事が残ってよかったよ。その一方で、黒須みたいな、新しいやり方で怖いことをやるのも、いいと思っているよ』
『いやー、黒須さん聞いているかなー』
 コメントを入れる余裕はない。すまんな。
『やっていることは、正直言って結構性格悪いと思っているけどな』
『それは俺も思っています』
 中夜、人が聞いていないと思って。
『そうそう、S市の件、まだまだ話していないことが結構あるんだよ』
『そうなんですか』
『S市とその周辺の地域かな。ある時代の怖い話がやけにたくさん伝わっているんだよ。怪異から人怖から、分類不可能な不思議な話までいろいろと。話していないやつが、まだまだあるんだな』
『それを黒須さんが分析したら、何か出るかもしれないですね』
『そうだね、結果が怖いことになればいいなと、俺は思っているよ』
 よかったな。もう十分に怖いことになっているよ。

「うわ! 何だ?」
 配信を聞いていて油断したか、不意に横から現れた人影に押される。
 酔っ払いか? いや、違う。
 疲れ果てたサラリーマンだ。
「だ、大丈夫ですか?」
 手を差し伸べようとして――
「――あ」
 耳元で男のささやくような声がして、突き飛ばされる感じがした。
「――す」
「――だ」
 左から右から、何度か突き飛ばされる感じがした。視界の外から来るので、何者なのか判別できない。
 つんのめって手をついたところで、静かになった。
 周囲を見回すが、地面にへたり込んだサラリーマンがいるだけだ。今のをこの人がやったとは思えない。
「大丈夫ですか?」
 サラリーマンに声をかけてみる。
「いや、あんたこそ大丈夫なのか?」
「え? どういうことです? 何か見えました?」
「いや、なんというか……」
 サラリーマンは説明に困っている。質問攻めにしても情報は得られないだろう。
「いや、うーん。なんか黒い感じの、なんだ? 何て言えばいいんだ」
「まあ、いいです。お互い頑張りましょうや」
 サラリーマンの背中を軽く叩いて、立ち去る。

-12-

 光を感じる。顔に日差しの熱を感じる。
 身体を触る。ごわごわとした感触。左腕に固い感触。外出着と時計だ。
 遠くから、車の通り過ぎる音と、子供の声が聞こえる。
 昨日帰宅して、そのまま寝落ちしてしまったようだ。
 陽光をまぶしく感じながら、薄く目を開ける。
「え? 誰?」
 薄目からの細長い視界に違和感を感じて、一旦目をきつく閉じて、ゆっくり開ける。
 何もない。少し散らかった、見慣れた部屋がある。
「あれ? さっき……」
 女性が見えたような気がする。こちらを見下ろすように立つ、人影があった。顔や姿かたちははっきりしないが、確かにそうだった。一瞬で消えた。ありえないことが続いている。
「こりゃ、やられたな」
 認めざるを得ない。あのとき、井上に何かされたのだ。

-13-

 事務所近くのいつものバーに入ると、一番奥の席に中夜がいた。
「お疲れ。なんか疲れてない? どしたの?」
 いつもとまったく同じ調子の中夜。のんきだな。
「いや、疲れているけど。他に何か言うことないの?」
「え? 何? 誕生日とか? 違くない?」
 頭を抱える。中夜には見えないのか。しっかりしろ怪談師。
「そういや、昨日俺のこと性格悪いって言ってなかった?」
「あ、聞いてたの? っていうか今更?」
「え?」
「黒須さんのYoutubeは面白いけど、性格悪いんだよな~。まあ、ギリギリ許せるから見るけど……ぐらいの感じが視聴者の共通見解じゃないの?」
 二重の意味で頭を抱える。
 
 前回来た時に会った、新人のバーテンダーが注文を聞きに来る。
「何かお作りし――」
 俺の背後の空間を見つめる。そうか、君には見えるのか。
 頭を抱える俺と、隣でのんきにしている中夜を見比べて、中夜に言う。
「え、あ、あの……。え? 中夜さんって、怪談師……ですよね?」
「え? そうだよ。聞きたいの? 怪談」
 全然わかっていない。怪談師って、霊感がなくてもなれるんだな。

「あれ? どうしたんです? 腰が悪いんでしたら、いい整体紹介しましょうか?」
 壁に背を預けて立っていると、バックヤードから出てきたマスターに不審がられる。
「いや、なんでもないです。気にしないでください」
 新人のバーテンダー――先ほど名前を聞いた、市川さんに訊いてみる。
「ええと、何が見えました?」
「いや、なんというか。説明が難しいです……」
「顔は、見ましたか?」
「いえ、よくわかりませんでした……」
「そうですか」
 中夜が口を挟む。
「振り向けば見えるんじゃないの?」
 確かにそうなんだが。
「いや、まだだ。というか、ダメだ」
 何が起こるかわからないことをする奴があるか。危ない橋は渡らない方がいい。
「勝算がないうちは、絶対に振り返らないぞ」
「こいつはそういう奴なんですよ」
 中夜は市川さんに一言言って、酒に戻った。他人事だと思って。
「で、どうするんですか?」
 市川さんに心配そうに訊かれるが、その答えは決まっている。
「調査、そして、考察です」
 怪訝な顔の市川さんに続ける。
「不思議なことが起こるようになったのは、井上さんへのの2度目の取材の後からです。おそらく、そのときに何かされたんだと思います」
「その井上さんっていうおじいさんが、黒須さんに霊を取り憑かせたってことですか?」
 市川さんに頷く。
「それか、それに近いかと。伝染させたとかが、近いかもしれません」
「ダビングしたビデオテープでも見せられたとか」
 中夜が古い映画のネタを言っている。俺は職業柄ビデオテープやデッキを持っているが、市川さんには伝わらないだろう。
「ビデオテープは見せられていないが、それに類する何かだと思う。それを探らなければ」
 何かサインがあったはずだ。あの謎の紙が第1候補だが、それだけでもない気がする。そんな簡単なら、60年間持ち続けた理由がわからない。
「それと、この、霊なのか怪異なのかは、何者なのか」
 井上の昔話にヒントがあると思うが、それだけではたどり着けないだろう。本腰を入れて調査する必要がある。
「そうすれば、祓うなり封印するなり、何か切り抜ける手が見えてくるはず」
 ネットだけでは十分な情報を集められないだろう。足も使わねば。ひたすら情報を集めて、AIに食わせる。長期戦になりそうだ。
「あと、そうだ。夜型をやめて朝型にしなければ。あいつに言われてやるみたいで、かなり癪だが……」
 長期戦になるなら、リスク回避も最大限にしなければいけない。憂鬱だ。
「あ、市川さん。生のトマトあるなら、ブラッディマリーもらえます? 」
 長期戦になるなら、禁欲もよくない。


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