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ブランクーシ展「物と空間の関係性への考察」
鑑賞する前、「本質を象る」という遠大で大げさなタイトルに懐疑的だった私は、鑑賞後、その考えを改めることになりました。
卵形が象徴する本質
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数ある作品の中で印象に残ったのは人の頭部を模したいくつかの彫刻です。入り口付近にあったブランクーシ初期の作品は、胸や首を含む一般的な彫像でしたが、会場を進んでいくと、胸はおろか首すらなくなった頭部のみの作品が展示されていました。初期の作品にあった顔面の細やかな造形、内側に感じさせる骨や筋肉、彫刻ならではの凹凸、そういった具象性がことごとく消し去られていたのです。形は楕円の卵型で、表面は滑らかになり、表情は一切ありませんでした。特に、金属光沢を放っているこのような作品はもはや人間の頭部を模していることすら分かりません。
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頭部のみの作品はよく卵形と形容されます。頭部と卵の形状が似通っていることは決して偶然ではなく、必然であったと考えるべきでしょう。卵は古来より、万物の根源、生物の原始的な姿だとされています。また、西洋の文化において、卵はしばしば宇宙の原始状態を表現し、宇宙卵(うちゅうらん)と呼ばれます。さらには、キリストの復活を祝うイースターでも卵は生命の誕生を象徴し重要な役割を果たしています。一方で、我々の頭部もまた、万物を生み出す想像力を持ち、世界を認識し、物語によって世界そのものを作り出す特別な存在です。両者は根底で繋がっており、だからこそ、本質を象るという意思のもとに作られた作品は頭部にも卵にもなりうるのでしょう。
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他には、光沢を放つ彫刻の表面に鑑賞者が写し出されることが印象的でした。よくよく見ると、自分だけでなく空間全体、展覧会場が映し出されていることに気づきます。じっと見つめていると鑑賞者や展示空間、ひいてはこの世界全体を作品内へと取り込もうとしているのではないかという気にさせられます。
表面に映った像という点で言うと、この2つの作品は示唆に富んでいます。これらの作品の前に立つと、様々な角度の側面に私の姿や周囲の空間が映し出されます。側面は大抵歪んでおり、多面体のような平面の集合ではなく、立体の集合体のようでした。世界が何個にも分かれ、組み合わされる。私はこれらを見て、キュビズムの絵画を想起しました。
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対象を分割し、平面上で再統合する分析的キュビズムの作品のように思えたのです。この仮説に従えば、ピカソやブラックと、ブランクーシとの違いは表現媒体の違いであり、平面か立体かの違いに過ぎないと言えます。しかし、この違いが重要なのです。なぜなら、従来のキュビズムが現実の三次元世界を絵画として二次元平面に変換したのに対し、ブランクーシは我々の存在する三次元を超えた根源的な領域、即ちイデア界であり本質と呼ばれる超次元的な世界を、立体作品として変換することに試みたからです。上下左右の存在しない真に立体的なブランクーシの作品は、空間全体を映し出すことで、それ以上の次元の世界を作品に内在させ、再び立体として再構築しようとするのです。これこそ、本展覧会が「本質を象る」というタイトルになった理由なのかもしれません。
立体と影の転換
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作品自体の考察から離れて、作品の展示方法についての話に移ります。この展覧会は彫刻と照明の関係性についての展示であるといっていいほどに、照明の使い方が印象的でした。照明が鑑賞者で遮られない配慮や台座の中に影を収める工夫、奥の小部屋で再現されていたアトリエの光など、非常に興味深いものでした。
例えば上の写真にある二つの作品は比較的近い場所に展示されていましたが、全く違う照明の当てられ方をしています。左の複雑な立体作品は多方面から複数のライトが当たっているのに対し、右の作品はほぼ真上から一つのライトで照らしています。つまり、作品と展示とが同じパターンをなしているということです。目的は、それぞれの作品が持つ性質をより強調させるためでしょう。
彫刻作品は絵画と違い、作品単独では陰影をコントロールしづらいという特徴があります。照明の当て方によって、全く異なる見え方になるからです。故に彫刻は周りの環境と深く影響する表現だと言えます。場所や時間によって受ける印象はコロコロ変わってしまうため、より一層、キュレーターなどが作品へ介入し、作品は作者の手を離れていきます。彫刻を展示することの困難さはここにあるのでしょう。そして、だからこそ、ブランクーシは自分の作品を写真に収めたのかもしれません。
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写真とは、撮影者の決めたフレームに、空間の雰囲気や過ぎていく時間の一瞬を固定する表現であり、ブランクーシが本当に意図した、陽の当たり方や場所や時間を切り取ることができるのです。
ですが、写真に映っている作品の姿は、ブランクーシという一個人の見え方を表しているに過ぎません。本展覧会において写真は無限に存在する作品の見え方を補うためのものであり、ブランクーシの見方が正しいということではないはずです。もちろん、この展覧会の見方が正しいというわけでもない。無数にある作品の可能性を狭めることなく、その中からいくつかを選択し、提示することが展示という営みなのかもしれません。
メタからメタへ
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ブランクーシの作品は、鑑賞者をメタからメタへ、抽象レベルの異なる領域を往来させる力を持っています。メタとは、高次元や超越を意味する言葉で、学問や視点をその外側に立って見ることを意味します。
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ブランクーシは、本質という根源的な概念を立体の作品に内在させ、さらに立体は光によって影を落とし、写真や映像として記録される。このような重層的な構造を取り、鑑賞者はメタからメタへ揺り動かされるのです。それだけではありません。作者と作品と鑑賞者、という線的で硬直した関係性さえも、このメタからメタへのダイナミズムによって、流動化させてしまうのです。
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何を持って作者とし、何を持って作品とし、何を持って鑑賞者とするのか。彫刻を支える台座、それを照らす照明、そこに落ちた影、人々の目線や行動、彫刻作品はその空間に存在するあらゆるものと相互に関係し合いながら、それ自体で完結することは決してありません。ブランクーシの作品は、作者と作品と鑑賞者の自と他、それぞれの輪郭を無化し、一体とする。これは作者一人の力で成し遂げられるものではなく、人間をも含めた自然そのものの関与を必要とします。だからこそ、本質が作品に内在しうるのではないでしょうか。西洋のキリスト教的な価値観、すなわち神と人間が垂直に接続され両者を決して交わらないものとして考えるような価値観を脱し、東洋の八百万の神や精霊信仰を基盤としたシャーマニズム的価値観こそ、ブランクーシが到達した本質なのです。作品はこの世界とシームレスに繋がり密接なやり取りをしています。ホワイトキューブのような展示方法が全ておかしいとまでは言いませんが、完全に独立した、特定の空間と結びついていないような代替可能で場所性のない作品などありえません。展示される場所、そこにやってくる人々、作品を照らす照明、温度や湿度などなど、作品は周囲の環境に大きく影響され、その都度姿を変えます。時間と空間は刻一刻と移ろいゆくものであり、同時に作品もまた時間と空間によって様相を変えていくのです。