最近感じてること
「未来」という言葉が古く感じ始めたのはいつ頃からだろう。
「未来」って、時間が前にむかって矢のようにすすんでるイメージから、常に自分の前にあるものと思っていたけれど、実際そういうものでもない気がしてきたのは、世界的な食糧不足のニュースや、リーマンをやめて田舎で家族と自給自足を始めました的なブログを目にすることが増えるようになってからかもしれない。
駅前のスクランブル交差点をヨーイドンで何百人、駅にまっすぐ向かう光景の中から、途中ではたと止まって、Uターンをする人が出てきたり、信号が青にならなかったり、そもそも、会社に着ていくスーツが手に入らなかったり。そんな事態をよく目にするようになった。
それを「反資本主義的だ」と言いたいわけでも、スローライフを推奨したいわけでもない。
世界は直線的な時系列ではなかったのかもしれないという、自分の中で生じたパラダイム変換だった。
わたしは、俗にいう「ミレニアル世代(現在25~35歳くらいの世代)」だが、私たちにとって、たとえば音楽は、時系列で語られるものだった。大学には音楽ウンチクをたれる先輩が一人や二人必ずいて、「このバンドは70年代の英ロックで一世を風靡して、アメリカの○○ってバンドから影響をうけてるんだ」とか聞かされた。(私もそれに憧れて、CDのジャケット裏の説明や、歌詞カードを熱心にみたものだった)
でも今は、音楽ストリーミングが一般化したおかげで、昔の古い歌も、最新POPSも同じ地平に存在している。曲や歌手のバックグラウンドや時代性を気にする人は、前ほど多くはなくなった。
ドライブデートの時に、「今日は誰のいつのアルバムを持っていこうか」と選ぶ朝の時間もなくなったのだ。
絵も同じで、iPadproは、素晴らしい解像度で、絵描きに大革命をおこしている。iPadproが出始めた頃は、世界中に急に絵がうまい人が増えたみたいで、とても驚いた。
この前引っ越しをしたときに、絵の具が100個近くと、キャンバスが10個、筆10本と出てきたが、引っ越し先のワンルームには持って行けず、半分捨てて、半分実家に送った。(迷いに迷って、結局お気に入りだけ新居に持ってきた。)
この「モノを持たない時代」にあって、私のようなタイプは絶滅危惧種かもしれない。
今はネット上に美しい色があって、観者もデジタルの窓を通して作品をみる。自分でも、お財布すら持ち歩かない人が増えてる中で、こんなに重たくて臭くてかさばるものを持ち歩くのは、ばかばかしいという気持ちがした
ただ、絵の具にも挽回のチャンスを与えるとするなら、絵の具は自然の鉱物や生き物からできているから、デジタルの画素(自然色を模倣して組み合わされたもの)とは比べ物にならない。
日本画の緑青や、フェルメールブルー(ラピスラズリ)のような色は、一生かかってもデジタルには表現できないだろう。(いや、そうとも言い切れんかな)
ネットフリックスがビッグデータを元に、視聴者のニーズに沿ったドラマを作ったように、アートも、AIが分析したニーズを元に、AIによって作る時代が来るのかもしれない。(いや、もう来てるのかな?)
「炭鉱のカナリア(社会の変化に真っ先に気づき声を上げるという意味)」と呼ばれた芸術家が、社会の変化をデータとして受け取って作品を作るとなると、これ以上の皮肉はない。
ウォーホルなら面白がって、AIを使いまくるかもしれない。
わたしはというと・・・iPadproに手を出す気はなく、まだまだしばらくは、絵の具パレットと、ペットボトルにいれた水を準備して、筆を洗いながら描く、という生活を続ける気持ちでいる。