「人生で一番美味しかったものは何ですか?」
あっという間に夏が終わって秋だ。食欲の秋!いちじく、秋刀魚、秋鮭、秋ナス、梨……秋の味覚はどれも優しくてほっと温まるようなのものばかりだな。
前回のnote更新から1ヶ月。書き散らしたいことが色々ある。「1テーマ1記事」が読んでくださる方にとっては親切なのだろうけど、今日はタイトルの「人生で一番美味しかったものは何ですか?」を含めて好きに書いてみる。「マツコの知らない世界」だってあの濃密さで2本立てなんだから、許されると思う。
1. 「人生で一番美味しかったものは?」と聞かれて考えたこと
会社の後輩に「人生で一番美味しかったものは何ですか?」と聞かれた。「それは即答できかねる、時間をくれ」と言って割と真剣に考えた。
新潟・新多久で食べた刺し身、富山の寿司屋で食べたホタルイカの軍艦、沖縄のパイナップル、タイのカオサン通りで立ち食いしたパッタイ……。
あれこれと考えたけれど、一番かと言われると悩んでしまう。どれも間違いなく美味しいのだけれど。
私が腑に落ちる解に至ったのは、真剣に考えること4日目、コンビニのカップ麺の陳列棚を前にした時のことだった。
「スキー場や冬のキャンプで食べたカップヌードルカレー味が一番美味しかったかもしれない……」
幼い頃、父がよくスキーに連れて行ってくれた。父はリュックの中にカップ麺とお湯の入ったポットを入れていて、リフトで上まで登り、人の邪魔にならないところでよくカップ麺を作って食べた。そばやうどん、カップヌードルシーフードを食べることもあったけれど、カップヌードルカレー味が一番美味しかった。多分、一番味が濃くて一番カロリーが高いから。
冷えた体に、あたたかくてダイレクトにカロリーの味がするカップヌードルカレー味は本当に沁みる。
会社の後輩にそうした結論に至ったと報告したら、後輩も「実は自分もそうなんです。極寒の中で飲んだコーヒーが人生で一番美味しかったんです」と言った。
飽食の時代と言われ、多種多様な美食にも珍味にも容易にアクセスできる現代日本においても、結局は生物としての本能が一番強力なのだなと思った。飢えと寒さから救ってくれるものに、最も美味しさを感じるようにできている。
2. 「顔が見える=信頼」ではない
最近、各所で「顔が見える野菜」を目にする。大手スーパーのPBでもパッケージに「私が作りました」と印刷されている。食べ物は直接体内に入れるものだからこそ、「誰が作っているのか」が可視化されているのは重要なのだろう。農産物に限らず外食も同じだ。
最近、SNSで飲食店関係者や生産者の発信を目にすることが増えた。SNSでの発信はプロモーションになるし、消費者に「顔(人となり)を見せる」ことにも等しい。
しかし、「顔が見える=信頼を獲得できる」ではない。大手スーパーの棚で「私が作りました」というラベルが有効なのは、「誰が作ったか分からない」比較対象がすぐ横にあるからで、常に「顔が見える=信頼」という図式が成り立つわけではないのだ。
発信を通じて信頼を得て、購買やファンを獲得できることもあるだろう。いっぽうで、あまりに自由に発信した結果かえって信頼を失うこともある。
SNSというのは自分の思想を発信する場だと思っている。思想を発信しているつもりがなくても、日々の食べているものや言語の選び方がその人の思想そのものだからだ。
思想である以上、誰に対して・何を・どこまで開示するかに関する思慮が必要になってくる。特に生活のかかっている仕事でSNSを使うのであれば尚更だ。SNSは少し不自由に感じるくらいがちょうどいい発信の仕方なのではないかと思っている。個人的には。
3. 「好物は?」と聞かれてすぐに思い出せないけど「あっこれ自分好きだったわ」となる食べものってあるよね
最近ふと「私はアジフライがかなり好きかもしれない」と気づいた。でも、「好物は?」と聞かれたときにはいつも思い出せない。飲食店に入ってメニューにあると俄然テンションが上がる。それがアジフライ。
この「アジフライ」と同枠の食べものがいくつかある。
大根餅、アボカド、ナチョス、牡蠣ごはん、くるみゆべし。
こうした食べものに共通することってなんだろうか。日常的に食べない、食べられる店や季節が限られている、とか?(アボカドは若干違う気がするが)
好物はと聞かれて「卵かけごはん、えんがわ、トマト、麻婆豆腐」はスラスラと出てくるのに。不思議だ。
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そんなこんなで、この1ヶ月で考えていたことを書き散らしてみました。やっぱり言語化しておくのはいいな……2週間に一度くらいはこうした時間を作りたい。