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意外と知らない?徳川家康と今川氏の本当の関係
こんにちは!今日は多くの人が誤解している歴史的な出来事について、ちょっと面白い話をしたいと思います。
私は先日、静岡県に旅行に行った際、歴史博物館へ行きました。
徳川家康は現在の静岡県に駿府城を築いたことで有名です。
駿府城は:
1585年に徳川家康によって築城が開始
現在の静岡市の中心部(駿府城公園)に位置
当時は「スンプ城」とも呼ばれていました
家康は1590年に関東(江戸)に移るまでここを本拠地とし、その後も1607年に大御所として隠居した後、再びこの城に居住しました。
ちなみに「駿府」という名前の由来は:
「駿河」の「駿」
「府」(重要な政治的拠点) を組み合わせたものです。
現在は城の天守閣は残っていませんが、石垣や堀の一部が残され、静岡市の重要な歴史的観光スポットとなっています。2021年には天守台の発掘調査も行われ、新たな歴史的発見がありました。
話を戻し、歴史博物館に行った中でこのようなことが書かれていました。
「徳川家康は育ての親の今川氏を滅ぼした」
って書いてあって、内心「えっ」て思いました。育ての親を滅ぼすってどういうこと?じゃないですか。
あとから調べてみると、実は、これは大きな誤解だということが分かりました!
家康少年時代、人質として育った日々
「徳川家康」として知られる前、松平元康という名前だった頃の家康は、わずか6歳で今川氏に人質として送られました。今で言えば小学1年生。ランドセルを背負う年齢ですよね。
今川義元のもとで過ごした家康は、武芸や学問をみっちり仕込まれました。実は、家康が後に天下統一を成し遂げられた理由の一つに、この時期に受けた超一流の教育があったんです!
運命の分かれ道、桶狭間の戦い
1560年、歴史を大きく変える出来事が起こります。桶狭間の戦い。
当時、今川義元は「天下統一間違いなし!」と言われるほどの超大国でした。ところが...若き織田信長のゲリラ的な奇襲攻撃で、義元はあっけなく戦死。
この時、家康はまだ今川氏に仕えていました。でも、この戦いを境に状況は劇的に変化していきます。
家康の選択
ここからが面白いところ。家康は今川氏を「裏切って殺した」わけではありません。
今川義元の死後、跡を継いだ氏真は徐々に力を失っていきました。その中で家康は:
まず、織田信長と同盟を結び
少しずつ今川氏から距離を置き
最終的に独立
という、極めて政治的で賢明な選択をしたんです。
最後の今川氏
今川氏の最期はどうだったか?実は家康に倒されたわけではありません。 氏真は武田氏に降伏し、かつての大大名・今川氏は自然消滅という形で歴史の表舞台から消えていきました。
なぜこの話が重要なの?
この話から私たちが学べることがあります:
歴史は意外とドラマチック。でも、教科書に書かれている以上に複雑です。
「裏切り者」だと誤解されるような行動をとった家康。でも、実際は時代の流れの中で賢明な選択をしていたんです。
今川氏での修行時代があったからこそ、後の家康の成功があった...という見方もできます。
まとめ
「育ての親を裏切った」というドラマチックな物語は、実は史実とは異なっていました。 家康は確かに今川氏から離れましたが、それは時代の流れの中での政治的な選択。むしろ、今川氏での経験が後の天下統一の糧となったと言えるかもしれません。
歴史って、調べれば調べるほど面白いですよね。また次回、意外と知られていない歴史の真実についてお話ししましょう!