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どこまでも人間であり続けたい

私は生きて死ぬまで、ただひたすらに人間であり続けたいと思っている。

人間として生きる

「人間として生きる」と聞いて、私たちはいつも人間ではないか、何をおかしなことを言っているのだ、と感じる人もいるかもしれない。
わざわざ”人間として”とつけているからには、人間として生きていないと感じるときがあるのだ。

例えば、自分がただの経済人になりそうになる瞬間。生活のため、という便利な表現を使って何かをごまかそうとする瞬間。お金は必要だからといって、何かを隠そうとする瞬間。

社会・世間を傘にして逃れようとした瞬間に「それだけではダメだ」と人間として生きることを放棄しようとする自分に気付く。

人間は本来、ただ生きて死ぬ存在である。無目的で無意味な営みこそが人間の真骨頂ともいえる。だからこそ、”人間として”生きるというのは、無目的な人生にすべてを賭けて挑もうとする生き方なのだ。

経済人であることに目的や意味を見出して努力することは、立派かもしれないが、一歩足りない。経済に関わりつつも経済人ではないという矛盾をはらんでからが、スタートではないかと思う。

私を捨てる

では人間として生きるには何をどうすればいいか。ポイントは私を捨てること。人間が本来無目的である前提に立てば、目的をもって何かをやる必要もないし、世間体・肩書・社会的価値を求めて慌てる必要もない。つまり空っぽでいいのである。

具体的な方法は2つある。
1つはこれをやっても何の得にもならなそう、ちょっとやめておこうかなと感じることへの挑戦である。自分の中の常識に真っ向から闘いを挑み、行動を起こしてみる。すると自分の中で反応が起こり、上手くいけば何か形になって現れる。

じっと木や雲を眺めてみてもいいし、紙とペンを持って思うままに描いてみてもいい。無目的なのだから、成功も失敗もない。本当に好き勝手やれる。ただ、無目的でも真剣にやってみることが大切だ。真剣に挑んでこそ、人生を賭けた人間らしい瞬間になる。


2つ目は、どこまでも深く考えることである。私には行動力や情熱はなくて、ぼんやりのんびりしているのが好きだという人は、こっちのほうが良いだろう。

自分の中で当たり前と感じる物事をとことん疑って、考えてみるのである。例えば、人生・お金・恋愛・社会・幸福・生死などが該当する。
何となくはわかるし、日常会話では使用に困らない、これらの言葉を「本当はどんな意味なのだろう」「何を言っているのだろう」と、とことん納得がいくまで考えてみる。

すると、深い海に沈んでいくように、あるいは宇宙に突き抜けていくように世界が変わってくる。本質に近づくにつれて、何とも言い難い不思議な感覚に陥るかもしれない。
そして思考を繰り返していると、人間らしさに磨きがかかってきて、自ずと人間として生きている状態に寄っていくはずだ。

正直よくわからないしキツイ

ここまで「人間として生きる」という私の覚悟と、いかにして生きるかを書いてきたが、今の私に言えるのはここまでである。ここから先は正直よくわからないため、上手く言葉を紡ぐことができない。

ただ、1つだけ率直な感想を言ってもよいのなら、キツイ。どうにも固定観念でがんじがらめになっている自分を抜け出すのは、難しい。

私は上記の2つの方法を両方実践しているのだが、何か画期的な変化が起きたわけでもない。ひたすら毎日自問自答をしているような状態だ。
なんとも、もどかしい。空っぽになれそうでなれない。惜しい。

この難しさやもどかしさを抱きながら生きていくのも悪くはないが、やはり、もっと人間として生きる道を探っていきたい。死に物狂いである。

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