差別をしていたのは自分自身だった
人種差別を撤廃しようという考えは、近年当たり前の意識として浸透しているかのように思える。
そして実際に、人種関係ない、平等な機会の提供という目標においては完璧とは言えないものの、成功していると言えるだろう。
しかし、人種関係なく分け隔てなく接しましょう、ということは正直難しいのではないかというのが、留学を経て実際に身をもって感じた感想だ。
公の場ならまだしも、日常生活に蔓延る人種間の壁というものは、どれだけ訴えかけたとしてもそう簡単になくなるようなものではないように思える。
そもそも人間は、本能的に自分と同じ人種と群れることを好むように設定されているようだ。これは何も人種だけの話ではなく、一般的にも自分と共通点が多い人間のほうが、そうでない人よりも好感を抱くことは、自然なことだろう。その共通点の一つに、一瞬で判断できる「人種」というカテゴリーがあるにすぎない。
実際、日本人どころかアジア人が数えるほどしかいないこの学校にポーンと放り込まれたとき、私が何より一番に感じたことは「怖い」であった。
言語の壁ももちろんあるが、それと同じくらい人種間の壁をひしひしと感じたのだ。欧米系、アフリカ系しかいないところに放り込まれて、私はなんともいえない威圧感、疎外感を感じた。
そして、彼らが自分と同じ人間で、自分と同じように人間関係で迷ったり、テスト前に勉強しなくちゃと思うときに限ってスマホばっかいじってしまったりするような、自分と何も変わらない存在であるということが、信じられなかった。
本能的に、彼らは自分とは全くもって違う存在かのように感じていた。
彼らと関わって、文化や考えや悩みを共有して、ようやく最近になって、彼らも自分と何ら変わりのない人間なんだと身に染みて思えるようになってきた気がする。しかしそれでもまだ、この人たちは自分とは違う種類の人間だな、と思ってしまう瞬間もある。
これは見た目的な話なのだろうか、言語が違うからだろうか、文化だろうか。
同じアジア人で、英語を話していて、欧米の文化で育った人を考えてみると、少し違和感があるものの自分の仲間だなと本能的に感じる。最もわかりやすい見た目が似ているからかもしれない。
なら、欧米人で、日本語を話していて、欧米の文化で育った人はどうだろうか。
これも、違和感がありつつも自分の仲間だなと思う。友人に日本語を教えて、日本語で軽い意志疎通をしたとき、自分の中でその友人に対する距離感が狭まったように感じたのに通じているかもしれない。
それでは、欧米人で、英語を話して、日本の文化で育った人は?
これも、仲間だな、と思う。性格が似通っているからだろうか。
しかし、欧米人で、英語を話して、欧米の文化で育って、この三つの概念において自分と異なる人を考えてみたときに、この人は私と違う種類の人間だと感じる。
小さな共通点、例えば同じアーティストが好きだとか犬が好きだとか、そういうことを見出して初めて、そういえばこの人も自分と同じ人間だったよな、と思い返す。
それが他人に関してなら、そんな違和感に目をつむってしまうことなんていくらでもできる。一度それができれば人種なんて関係なく相手を知れる。
しかし、私は自分に対しそれを感じていた。
自分はよそ者だな、と自分自身に感じていた。
スペイン人、ポーランド人、ロシア人、ブラジル人の仲良し4人組の女の子のグループがあった。この子たちと話してみたいと思い、話しかけてみたとき、かなりつれない対応をされた。私と私の友達で挨拶をしても、私だけ聞こえなかったふりをされたり、何かしたかなと少し落ち込んでしまった。
二人の白人の女の子と理想の恋人像の話をしていた。
ある子が金髪で青い目の人が良いと言い、また別の子は、あるイギリス人のインスタグラマーの写真をかかげ、こんな人が理想と楽しそうに話していた。
私は二人の理想像に共感したのだが、なんとなく、私もそう、と言ってはいけない気がして、この人かな、と日本人の適当な俳優を見せた。
友達に好きな人ができた。どちらも白人で、美形で、すごくお似合いだと思った。私も正直タイプだとか思ったが、すぐにそれに目をつむって、私なんかが相手にされるわけないと勝手に諦めて、友達を手伝った。
私は、自分がアジア人だからこんな思いをしなくてはいけない。
やはり差別はなくなっていない。
アフリカ系の人の差別は問題視されるのにアジア人差別は見過ごされてるのか。
と思って現実を突きつけられた気分だった。
しかし、よく考えてみると、どれも、誰かから何かを言われたわけでは決してない。アジア人とは仲良くしたくないとか、アジア人ごときが金髪で青い目の人なんて理想が高いとか、アジア人なんて恋愛対象じゃないとか言われたわけではない。
でも、勝手に思い込んで落ち込んでいた。
アジア人の価値を下げて、自分で自分に対してアジア人差別をしていた。
自分はアジア人なんだから、そりゃこんな見た目が全然違う人と仲良くしたくなんかないよね、
自分はアジア人なんだから身の程をわきまえないと。
そうやって自分をおさえこんで、「自分はアジア人なんだから」という言葉を裏目にとって、自分が対等に扱われないことへの免罪符にしていたのかもしれない。
実際に人種差別をする人は存在しているかもしれない。それでも、自分で自分の首を絞めて、自分への扱いの差を、すべて人種差別だと叫んでいる人は私を含めて多いのではないか。
しかし、人種の違いというものは一目でわかる。
人種差別がダメだということはもちろんわかっていても、潜在意識で誰しもが、自分とこの人は違う、と思ってしまうことは避けられないことではないだろうか。
それに伴い、自分と同じ人種と群れることも、違う人種を受け入れにくいことも、本能的に起こっていることで、それを根本的に変えようなんて、なかなか難しいように思う。
それでもその壁を越えて、潜在意識を取り払って、手を取ろうとしてくれる人たちも数えきれないほどいる。
私も今綴った暗いことばかり起こったわけではなく、この壁を破ってまで仲良くしようとしてくれる人々の優しさに救われた。
そのような優しさを当たり前にするのには、やはり自分自身で幼いころから自分とは違う人種と触れ合う経験が不可欠なのだと思う。
ただそれでも人種間の壁は完全には取り払えないし、そもそも、それを変えるべきものではないのかもしれない。
この問題提起に対し、綺麗ごとを並べて締めるつもりはない。
将来また時代が変わって、自分も色々と経験をして、もう一度この文を読み返したときにどう思うのか。答えは出るのか。
それを楽しみにしていたいと思う。