アーレントとアラブ人問題

この記事の要約

 ハンナ・アーレントはシオニズムの批判者としてよく知られているせいか、今般のガザ侵攻にあたってイスラエルの暴挙を論難するために彼女の思想が援用されることがすくなくない。
 たしかに、アーレントは1945年に「シオニズム再考」を発表したことで周囲のシオニスト(たとえばゲルショム・ショーレム)から批判された。また、彼女はジューダ・マグネスから影響を受けて、ユダヤ人とアラブ人が共存することで国家を運営するバイナショナリズムを唱えもしたが、現実にはアラブ人を排除することでイスラエル国家は創設された。政治的に敗北したともいえるアーレントは、以降アイヒマン裁判まで公の場でイスラエルについて(数少ない箇所を除いて)論じなくなっていく。
 これらの経緯を見れば、アーレントはイスラエルを一貫して批判し、アラブ(パレスチナ)人には同情的だったように思われる。しかし、1948年に書かれた「近東における和平か休戦か」では、アラブ人もまた批判の対象となっている。それどころか、諸々の私信などでは、アーレントはアラブ人をはじめとしたオリエント人を明確に蔑視していた。そして、最終的に彼女はイスラエルを全面的に支持するようになっていく。
 こうした差別的態度は、諸々の思想とは関係のないものなのだろうか? それとも、思想内容から来る必然的なものだったのだろうか? 本稿は後者の可能性もあると示唆しつつ、アーレントの思想の見直しを提案する。


1.「分割も削減もなくパレスチナ全域を包含するユダヤ・コモンウェルス」

1-1シオニストから見たフランクリン・ルーズベルト

 1944年11月、第二次大戦がピークにあった中で行われた第40回アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の候補フランクリン・ルーズベルトは、共和党の候補トマス・E・デューイを相手に勝利し、4選を果たした。この5カ月後に死去するという史実が示すとおり、ルーズベルトは健康問題を抱えていたが、それ以上に彼は国民に圧倒的な支持を得ていた。日本を相手に優位に進行していた戦争の状況もルーズベルトを後押しした。
 この選挙期間中、アメリカのシオニストたちはどちらの陣営につくべきか右往左往しながら過ごしていた。ルーズベルトを支援するべきか、それともデューイを支援するべきかと彼らは迷っていたのだ。客観的に見れば、ルーズベルトについたほうが勝ち馬に乗りやすいように思える。なにより、アメリカのユダヤ人は20世紀になってからはほとんど民主党を支持していたのだから、いまさら共和党への鞍替えを考えるのは一見するとおかしな話だ。
 しかしながら、シオニストにとってルーズベルトは信用のおけない大統領だった。ルーズベルトは過去の大統領選挙においてユダヤ人の8割から9割の票を得ていたものの、一方でシオニズムに対しては冷淡だった。たとえば彼は、39年に発表されたマクドナルド白書への介入をシオニストから求められても断っている。
 当時のイギリス植民地相マルコム・マクドナルドは、36年から続いていたアラブの大反乱を受けて、これ以上の混乱を避けるためにユダヤ人国家の設立を禁止するとともに、ユダヤ人のパレスチナ移民を制限する方針を打ち上げた。シオニストからすれば建国の夢が絶たれるばかりか、人材の供給を妨げられるのは理念の継続にあたって死活問題だったため、これはなんとしても阻止すべき案件だった。だからこそ、彼らはルーズベルトにすがりついたのだが、にべもなくあしらわれたのだ。
 また、世界シオニスト機構代表のハイム・ヴァイツマンも、42年7月に大統領と会見した際に苦杯を舐めている。彼はルーズベルトに向けて、ドイツの侵略から守るためにパレスチナにユダヤ人軍の動員を要請した。だがルーズベルトは、当時ヴァイツマンが研究していた合成ゴムについて話すばかりだった。

1-2二大政党から支持を取りつけたシオニスト

 このように、シオニストにとってルーズベルトは、少なくともパレスチナに新国家を建設することに関しては頼りにならない人物だった。そんな時に彼らは、次回大統領選に共和党から立候補するニューヨーク州知事のトマス・E・デューイがユダヤ人票の獲得を目論んで、ユダヤ人国家建設を後押しするのではないか、との噂をキャッチする。
 とはいえ、アメリカユダヤ人会議の名誉顧問スティーヴン・ワイズにとって、共和党に鞍替えするなんて話は一顧だに値しなかった。ワイズはルーズベルトと個人的な友人関係を結んでいたため、彼を裏切ることは到底考えられなかったのだ。ワイズはルーズベルトの政策顧問だったナイルズに向けて、デューイがシオニズムに同情的な発言をするかもしれないと不安を吐露しているものの、だからといって共和党に投票するかもしれない、なんて話は間違ってもしなかった。
 一方で、ユダヤ人国家建設のためならどんな策を採ることも厭わない修正主義者は、共和党との交渉も遠慮なく行っていた。当時アメリカ新シオニスト機関――露骨に言えば、修正主義シオニズムのアメリカ支局――の事務局長を務めていたベンシオン・ネタニヤフは、積極的にロビー活動を行い、共和党員にシオニズムの理念をレクチャーしようと試みた。現在のイスラエル首相ベンヤミンの父であるネタニヤフの目的は、共和党の綱領にパレスチナのユダヤ人国家樹立を支持する条項を盛り込むことだった。
 こうしたロビー活動はネタニヤフだけでなくそのほかのシオニスト――その中にはアメリカシオニスト機構の代表者アバ・ヒレル・シルバーもいた――も行ったのだが、その結果彼らの努力は実を結んだ。共和党は44年6月に行われた全国大会で、パレスチナへのユダヤ人移民を無制限にすることを掲げただけでなく、パレスチナを「自由かつ民主的なコモンウェルス」にすべきだ、との選挙綱領を発表したのだ。
 こうした動きにワイズは当惑した。共和党がシオニズムを支持するようなことがあれば、アメリカのユダヤ人は民主党を支持しなくなるかもしれない。そんなことがあれば、ワイズとルーズベルトとの間に育まれてきた友情は台無しになってしまう。そこでワイズは、当初参加する予定がなかった民主党の全国大会に急遽足を運ぶことにした。そして、このままではルーズベルトはユダヤ人票を失うことになりかねない、と警告し、民主党の選挙綱領にシオニズムへの支持条項を盛り込むよう要請した。

 大会に参加したアメリカ・シナゴーグ評議会のイスラエル・ゴールドスタイン会長は、後に、綱領が討議されていた部屋から真下にある回転ドアの近くに自分たちを配置し、「入ってくる政治家全員がワイズとぶつかるようにした」と語っている。
〔……〕
 ノーマン・リッテル司法次官補は、ワイズにボタンをかけられた経験を日記に記している。彼の綱領が否決されれば、「大統領は傷つく」とワイズは警告した。「大統領は40万票か50万票を失うだろう」。共和党はパレスチナに関して「満足のいく綱領」を採択しており、民主党はそれに合わせる必要がある、と彼はリッテルに念を押した。リッテルはワイズの努力を支持した。

https://jewishreviewofbooks.com/articles/2287/zion-and-party-politics-1944

 ワイズは共和党に勝る条項として、「自由かつ民主的なユダヤ・コモンウェルスの樹立」という文言を盛り込むよう提案した。こうした彼の努力は実り、民主党は選挙綱領に、「我々は、パレスチナを無制限のユダヤ人の移民と植民地化に開放し、そこに自由で民主的なユダヤ人コモンウェルスを樹立する政策を支持する」との文言を書きこんだ。

1-3「アラブ人には自発的な移住かもしくは二級市民権のいずれかの選択しか残されていない」

 紆余曲折があったとはいえ、トータルで見ればシオニストにとって一連のロビー活動は大成功をおさめたと言えるだろう。なにしろ、アメリカの二大政党の選挙綱領に、ユダヤ人のパレスチナ移民を奨励する文言を入れこんだばかりか、ユダヤ人国家の樹立を支持する、との言質まで取ったのだから。
 その余勢を駆って、同年10月に行われたアメリカシオニスト機構の年次大会では、彼らはより大胆な方針を表明する。

アメリカシオニスト機構の第47回年次大会は今朝早く、その閉会セッションにおいて、「設立されるべき自由で民主的なユダヤ・コモンウェルスは、分割も削減もなくパレスチナ全域を包含するものでなければならない」と要求する決議案を満場一致で採択した。この決議案はまた、「アメリカ合衆国議会が、パレスチナを無制限なユダヤ人移民と土地購入に開放し、パレスチナを自由で民主的なユダヤ・コモンウェルスとして再構成することを求める決議案を早期に採択すること」を要求した。

https://www.nli.org.il/en/newspapers/bbh/1944/10/27/01/article/1/(強調筆者)

 「分割も削減もなくパレスチナ全域を包含する」「ユダヤ・コモンウェルス」を樹立するのを目的とするというのは、言いかえればアラブ人との共存を放棄し、ユダヤ人のみの国家を打ち立てるということだ。
 この二年前に発表されたビルトモア綱領では、「ユダヤ民族のアラブ人隣人との完全な協力への用意と意欲」が表明されており、そこでは一応アラブ人との共存は視野に入っていた。しかし、わずか二年でそうした方針は完全に覆った。この時になってシオニストは、アラブ人をパレスチナから追放すると大っぴらにするようになったのだ。
 こうしたシオニストの動きを受けて、ハンナ・アーレントは次のように論評している。

今回の決議ではアラブ人にはひと言も言及されておらず、アラブ人には自発的な移住かもしくは二級市民権のいずれかの選択しか残されていないのはあきらかである。シオニズム運動がその最終目的を表明するのをこれまで阻んできたのはただ便宜主義的な理由でしかなかったということを認めているかのようである。今では、この目標は、パレスティナの将来の政治体制にかんするかぎり急進派〔修正主義者〕のそれと完全に一致しているように見える。この決議は、アラブ民族とユダヤ民族の相互理解を倦むことなく訴えてきたパレスティナにいる諸党派に致命的な打撃を与えた。他方、この決議はベン・グリオンが率いる多数派の立場をかなり強化することになるだろう。多数派は、パレスティナにおける多くの不正とヨーロッパにおける恐るべき破局の圧力によって、これまでになくナショナリズムに傾いている。

ハンナ・アーレント「シオニズム再考」『アイヒマン論争 ユダヤ論集2』p148-149

2.なぜハンナ・アーレントはヨーロッパにこだわったのか?

2-1シオニズムは反ユダヤ主義に抵抗しない

 「シオニズム再考」は今からちょうど80年前に書かれたが、邦訳版でも50ページに満たない分量にもかかわらず、シオニズムの問題点をあますところなく指摘している論考である。なんなら、部分的な修正を加えれば80年後の今日においても通用する、一級のシオニズム批判だと言っていい。
 『コメンタリー』誌で発表される予定だったものの、そのシオニズム批判が読者からの反発を招くと危ぶんだ結果掲載を拒否された「シオニズム再考」にてアーレントは、テオドール・ヘルツルを始めとしたシオニストがいかに問題含みな形で反ユダヤ主義と「取引」しようとしたかを批判している。

 〔……〕重要なのは、ユダヤ人は反ユダヤ主義に抗して何をなすべきかという、常に未解決のままの問題である。つまり、世紀末の反ユダヤ主義的扇動によってついにひきおこされた新たな民族運動にたいして、どのようなたたかいや説明をすることができ、またそれをしようとしているかという問題である。ヘルツルの時代以来、それにたいする答えは、まったくのあきらめ、つまり反ユダヤ主義を「事実」として公然とうけいれることであり、したがって、ユダヤ民族の敵と取引するだけでなく反ユダヤの敵意をプロパガンダとして利用することが「現実主義的」な対応とされてきた。

同p154

 ユダヤ人国家の提唱者であるヘルツルは、周知のとおりドレフュス事件に衝撃を受けて反ユダヤ主義がまかりとおるヨーロッパにユダヤ人の生きる場所はないと悟った。しかしながら、彼は反ユダヤ主義と対峙するのではなく、むしろそれと取引したうえでユダヤ人国家の設立をスムーズに進めようと目論んだ。彼は反ユダヤ主義をなくそうとしたのではなく、むしろ温存したうえで反ユダヤ主義者と交渉し、ユダヤ人を他所の土地に移送することのメリットを説きながら国家建設に必要な人材を集めようと企てていたのだ。

 ヘルツルの暗躍ぶりは以前書いたことがあるので詳細は上の記事に譲るが、こうした彼の「現実主義的」な戦略は、その後イスラエルが建設されて以降も後継のシオニストによって繰りかえされていく。
 彼らは――たとえば、ベンヤミン・ネタニヤフがドナルド・トランプやオルバーン・ヴィクトルなどといった排外主義者と公然と手を組んでいるように――反ユダヤ主義者と結託する一方で、シオニズムに批判を向ける人々を「反ユダヤ主義者」と罵倒する二枚舌を駆使しながら、イスラエルの正当性をアピールしつづけてきた。また、イスラエルを取り囲む中東諸国がいかに危険かと訴えながら、その敵意をうまく利用しつつアメリカやドイツなどの援助を取りつけ、国力を強化しつづけてきた。
 こうしたイスラエルの歴史をふまえてみると、シオニストの常套手段に早くから気づいていたアーレントの慧眼には敬服せざるをえない。

2-2混ざりあうことのない「人種」

 また、アーレントはこういった偏狭なナショナリズムに傾斜していくシオニズムが、実のところ彼らが最大の敵とみなすべきはずの国家の焼き直しであるにすぎないとも見抜いていた。

 こうした常軌を逸した孤立主義がヨーロッパから完全に離れるところまで極端化したのはシオニストの場合だけである。しかし、この根底にある民族哲学ははるかに一般的なものである。じっさいそれは中欧におけるほとんどの民族運動のイデオロギーでもある。それは、ドイツ仕込みのナショナリズムを無批判に受容したものにほかならない。このナショナリズムは、国民を永遠の有機体、つまり内在的性質がおのずから必然的に成長した結果であると考え、諸民族を政治組織ではなく生物学的な超人間的人格の観点から説明する。

同p180

 本来ならユダヤ人とは、あくまでもユダヤ教を奉じる人々のことを指す。つまり、アーリア人とかスラブ人とかいった民族ではなく、ムスリムやクリスチャンなどといった宗派のもとにカテゴライズされるべき人々なのだ。
 にもかかわらず、シオニストはそういった宗教的要素にはほとんど興味を示さず、むしろ当時のヨーロッパで流行していた概念に魅せられながら、ユダヤ人を「生物学的」な「人種」とみなすようになっていく。
 アーリア人はアーリア人の、ユダヤ人はユダヤ人の国家をそれぞれに築きながら、お互いはまじりあうことなく暮らすべきだ――そうしたナチス仕込みのアイディアでもって国家運営を行おうとするのならば、反ユダヤ主義と対峙することなんて到底できるはずもないし、ましてやほかの民族と共存することなんて夢のまた夢というほかない。シオニストがみずからを「生物学的」な「民族」とみなしてしまったことは、特に彼らがパレスチナで向き合わなければいけないはずのアラブ人との交流を困難にした。ここでもまたアーレントは、シオニストが将来建設することになる国家の行く末を正しく見据えている。

2-3パレスチナとユダヤ人はヨーロッパに属するか?

 このように優れた分析力によって成り立っている「シオニズム再考」ではあるが、だからといってすべての文章に賛同できる論考とは限らない。特に、以下のくだりは(引用が長くなってしまうが)ほとんどの読者をつまずかせるのではないだろうか。

 反ユダヤ主義の強い影響をこうむったがゆえにシオニズム運動が宿したすべての誤った考え方のなかでも、おそらくユダヤ人の非ヨーロッパ的性格についてのこの誤った観念こそ最も広範におよぶ最悪の帰結をもたらしてきた。シオニストは、ヨーロッパ諸民族にとって不可欠な――弱小な民族のみならず強大な民族にとっても不可欠な――連帯を断ち切っただけではなく、信じがたいことに、ユダヤ人がもちうる唯一の歴史的・文化的な安住の地さえも彼らから奪おうとした。というのも、パレスティナと地中海圏はつねにヨーロッパ大陸に属してきたからである。政治的にはいかなるときもとまではいえないが、地理的、歴史的、文化的にはつねにそうであった。こうして、シオニストは我々が一般に西洋文化と呼んでいるものの根源と発展におけるユダヤ民族の正当な持ち分を彼らからうばおうとしたのだ。じっさいユダヤ人の歴史をアジア民族の歴史として解釈する試みは多い。不運な出来事によって異質な国民や文化の交わりのなかに追いやられ、そこで永遠のよそ者とみなされ、そこにけっして安住することのできないアジア民族という解釈である(この種の議論がばかげていることは、ハンガリー民族をあげるだけであきらかになる。ハンガリー人はアジア的な由来をもつが、キリスト教化して以来つねにヨーロッパ家族の一員としてうけいれられてきた)。

同p179-180

 「シオニストは」「ユダヤ人の歴史をアジア民族の歴史として解釈」しようとするがゆえに、「ヨーロッパ諸民族にとって不可欠な」「連帯を断ち切」ってしまったばかりか、「ユダヤ民族の正当な持ち分」であるはずの「西洋文化」をみすみす手放してしまった――ごくごく簡単に言いかえればアーレントはここでシオニストに抗しながら、「ユダヤ民族」はヨーロッパ人であるし、パレスチナはヨーロッパである、と主張している。そして、みずからを「アジア民族」とみなし、パレスチナをアジアに属する地域だとするシオニストを批判しているのだ。
 しかしながら、こうした主張は違和感を覚えさせる。たしかに、パレスチナの地において生まれたユダヤ教とキリスト教という二つの宗教は、ヨーロッパの文化を語るにあたって欠かしてはならない要素だ。それを踏まえればパレスチナはヨーロッパの中の一つであり、そこで生まれ、やがてヨーロッパの地へと流謫していったユダヤ人はヨーロッパ人だとする主張はそれなりに理解できるものである。
 とはいえ、だからといって完全にパレスチナやユダヤ人をアジアから切り離そうとするアーレントの解釈は、(筆者がアジア人であるからかもしれないが)シオニスト同様にあまりに強引すぎるように思えてならない。パレスチナは様々な国々によって支配されてきた土地だ。バビロニア、エジプト、オスマン帝国などなど、パレスチナに侵略してきた国が別の国によって侵略しかえされを繰りかえしながら支配者は交代しつづけていったのだが、その中にはいうまでもなくアジアに属する国も含まれている。
 アーレントはそうした交代劇を「政治的にはいかなるときもとまではいえないが」という留保をつけて表現しようとしているのだろうが、ふつうはパレスチナは「地理的」にも「歴史的」にもアジアに属すると解釈する人の方が多いだろう。ましてや、ムスリムが長く棲みついてきた土地であることを踏まえるのであれば(イスラーム教をアジアの宗教とすぐさま断じてしまっていいものかという懸念はあるにせよ)、「文化的」にもアジアに含める方が自然のはずだ。
 もちろん、先ほども述べたようにパレスチナからはヨーロッパを形成することとなる文化が輩出されているので、完全にアジアの地であると断ずるのは難しい。さりとて、パレスチナをアジアから引きはがし、完全にヨーロッパに属するものである、との主張を承認するのはそれ以上に難しいと言わざるを得ないだろう。
 これはユダヤ人においても同様である。ユダヤ人が居住してきた地はヨーロッパに限らない。北アフリカやエチオピア、インド、中国などの様々な地に彼らは移住していったし、あるいはそのまま中東の地に残った者もいる。彼らの中には現地のマジョリティから迫害された者もいるが、一方で現地の人々と共存しながら暮らした者も少なくない。それを踏まえれば、ユダヤ人を完全なるヨーロッパ人だとする解釈の方が「誤った考え方」であるように思えてならない。

2-4どうでもいい議論になぜアーレントはこだわるのか?

 第一、なぜアーレントがシオニズム批判の一環としてパレスチナはヨーロッパであり、ユダヤ人はヨーロッパ人であると主張することにこだわるのか、理解に苦しむ。なるほど、先ほどの長い引用の手前で、彼女はこのように述べている。

 シオニストは、ユダヤ人の歴史の「比類ない特性」にのみ目を向け、ユダヤ人の政治的条件をヨーロッパの歴史や政治における他のいかなる諸要因とも関係をもたないものと考えることで、その無比の性質を強調したため、ユダヤ民族の存在の中心をイデオロギー的にヨーロッパ諸民族の埒外に、ヨーロッパ大陸の運命の外部に位置付けてしまった。

同p179

 みずからを「比類ない」民族だと考えたがために、ヨーロッパとの連携を無用のものとみなし、そこから孤立しようと企てるシオニストをアーレントは批判している。また、先ほどの長い引用の直後に彼女はこうも述べている。

とはいえ、その一方で、ユダヤ民族をアジア政治の枠のなかに組み入れようとする真剣な試みは一度もなされていない。というのも、そうした試みは、ユダヤ民族を民族的革命をめざすアジアの諸民族と同盟させ、帝国主義にたいするそれらの闘争に参加させることしか意味しえなかったからである。シオニズムの公式的な考えでは、ユダヤ民族はヨーロッパ的背景から引き抜かれたことによって宙に浮いたままになり、パレスティナはそうしたよるべのない隠遁が実現できそうな月にある場所と思われているようである。

同p180

 シオニストはみずからをヨーロッパ人ではないと見なす一方で、だからといってアジア人と連携するつもりも一切ない。「ヨーロッパ的背景から引き抜かれ」ているばかりか、アジア的背景にも根づこうとせず、徹底的に一人でいようと目論むシオニストを批判しようとするアーレントの意図は、十分すぎるほど理解できるものだ。
 しかしながら、このような明確な意図のもとに書かれた二つの文章の間に、例のパレスチナとユダヤ人をヨーロッパの側に割り振り、アジアから切り離そうとする文章が挟まると、途端に読者は当惑せざるを得なくなる。
 はっきりと言えばここでわざわざ、パレスチナとユダヤ人はヨーロッパに属するものであり、アジアに属するものではありえない、と主張する必要はまったくない。単にシオニストがヨーロッパからもアジアからも孤立していこうとする有様を批判すればいいだけの話であって、パレスチナとユダヤ人がヨーロッパのものであるか、それともアジアのものであるか、なんて議論にかかずらう必要はまったくないはずなのだ。
 そもそも、仮にユダヤ人がヨーロッパに属さない人々であろうと、それでもヨーロッパ人と連携できる可能性はあるだろう。まさか、アーレントはそうではなく、ヨーロッパ人でなければヨーロッパ人と連携することはできない、とでも考えているのだろうか? そんなはずはない。ジューダ・マグネスに倣って、ヨーロッパ(ユダヤ)人とアジア(アラブ)人が共存して成り立つ連邦を唱えたことで有名なハンナ・アーレントともあろう人が、そんな「ばかげた」考えにとらわれるはずがない……だったら、なぜ彼女はここでこんなどうでもいい議論に紙幅を割いているのだろうか?

補節1.『全体主義の起原』から見た「シオニズム再考」

 アーレントがここまで意固地になってパレスチナとユダヤ人はヨーロッパのものだと強弁するのは、彼女が『全体主義の起原』において、国民国家は土地に根づいた民族がなければ成立しない、と分析していたことと関係がある、と考えてみてはどうだろうか。

 アーレントの名前を世に知らしめた大著の第二部において、彼女は国民国家は「民族的帰属と国家機構とが、相互に融合し国民的思考において一体化されることによって」「成立」すると述べている。「国家機構」はともかくとして、「民族的帰属」はどのようにして育まれるのだろうか。

民族が自分自身を、彼らのものと定められた特定の定住地域に根を下ろした歴史的・文化的統一体として自覚し始めたところではどこでも、国民と国民解放運動が登場する。なぜなら彼らの住む所には歴史が誰の目にも明らかな足跡を残しており、したがって大地自体がそれを耕作し田園につくり変えてきた祖先の共同の労働を示すと同時に、この土地に結びつけられた子孫の運命をも指示しているからである。

ハンナ・アレント『全体主義の起原 2』みすず書房p173

 このようにアーレントは民族的帰属は、ある土地にある人々が定住し、そこを耕作することで人間の住める場所に作り替えてこそ萌芽するものであり、やがて子孫へとその土地が受け継がれていくことによって育まれるものであると考えている。ありていに言えば、民族的帰属は先祖から子孫へと脈々とつづく農業によってこそ成り立つ。
 彼女はこうした土地に根づいた「真の土着農民階級が」いなかったからこそ、「南欧および東欧の諸民族が国民国家の設立に一度として成功しなかった」と述べ、一方で西欧には「土地を持つ自由な農民」がいたからこそ国民国家は成立したと分析している。

社会学的に言えば国民国家は、解放されたヨーロッパ農民階級に正確に対応する政治体である。このことはまた、国民軍が国家的枢要の地位と社会的威信を保ち得たのは前世紀の終わりまで、すなわち国民軍が農民的要素から成る集団であり社会的にも思想的にも農民階級を代表していた間だけだったことの理由でもある。マルクスがナポレオン戦争についての著作で述べているように、「軍隊は分割地農民のほまれ(point d'honneur)であり、英雄になった農民自身であり、外に向かって新しい所有を守り、いまたたかいとったばかりの彼らの国民性に光栄をそえ、世界を略奪し革命化する。軍服は彼らの独得の大礼服であり、戦争は彼らの詩であった。分割地を空想のなかで延長し保管したものが祖国であり、愛国心は所有観念の理想的的形態であった」。一般的兵役義務において頂点を極めた西欧型ナショナリズムは、そのほとんどが土地を持つ自由な農民だった国民に適合していたのである。

同p174-175

 仮に以上の分析が正しいとすれば、東欧や西欧のユダヤ人がそれまで縁もゆかりもなかったパレスチナに移住したうえで、そこでユダヤ民族による国民国家を作ろうとするのはきわめて危険な試みと言わざるを得ないだろう。「なぜなら彼らの住む所には歴史が誰の目にも明らかな足跡を残して」いないのだから、移住してきたユダヤ人がパレスチナに民族的帰属を感じるのはすこぶる難しい。ましてや、それ以前に別の民族が残した「足跡」がある土地で、安定した国家を作ろうだなんて至難の業だろう。
 おそらく、アーレントはこの難問を解決するために、パレスチナは「地理的、歴史的、文化的にはつねに」「ヨーロッパ大陸に属してきた」と主張したのではないだろうか。もともとパレスチナはヨーロッパの土地だと見なせば、ヨーロッパ人からユダヤ人が移住しても何ら問題なくそこで国民国家を作れるだろう、と彼女は考えていたのかもしれない。
 ……もっとも、このようなアクロバティックな弥縫策を受けいれたとしても、なおも問題は残る。というのも、先程引用した文章の後ではすぐさま国民国家の堕落の可能性が暗示されているからだ。

 国民と国家の間の隠れた矛盾は、すでに最初の国民国家誕生のときに明るみに出ている。フランス革命が人権宣言を志向なる人民の意志の、つまり特殊国民的主権の宣言と結び付けたときである。同じ基本的権利が万人の譲渡し得ぬ所有物として宣言された同じ息の下から、今度は解放戦争と国民的歴史によってこれを闘いとった主権者たる人民の特殊国民的権利であると主張された。同じ国民が一方では、人権にのみその源泉と権威を求めるべき法の支配の下に立つと言われながら、同時に他方では国民の絶対的主権が宣言され、その主権は普遍的な法にではなく国民的な法にのみ服し、主権者たる人民の意志の、つまり自分自身の上に立つものを認めないとされた。この矛盾の実際的、政治的結果は、これ以後は人権が単に特殊的、国民的権利として認められ保障されるようになったこと、そしてすべての住民に人間としての権利、市民としての権利、国民としての権利を保証することを自らの最高機能とする国家自身が合理的法治国家としての性格を失い、ロマン主義的国家理論によって「国民の魂」の具現としてぼやかされ神格化され得るようになったことである。その場合、このような「国民の魂」を明らかに一切の法を越えた地位に就けることだけが重要な狙いとなった。このようにして、自由な人民の主権から生れた国民国家の主権は、次第に人民の意志の要素を失ってゆき、その代りに有機的と称するものの疑似神格的雰囲気が現れたのである。

同p176-177

 革命期のフランスで制定された人権宣言は、当初すべての人民に「普遍的」な権利を与えることを目的としていた。しかしながら、そうした「普遍的」な宣言は、やがて「特殊的国民的権利」へと成り下がり、それにともなって権利を与えられるべき対象も国民だけになっていく。これは裏を返せば、「民族的帰属」をもたない非国民には人権は与えられないということだ(注1)。
 こうした「国民と国家の間の隠れた矛盾」は、アーレント曰く第一次大戦以降もっとも先鋭化された形で露わになっていく。第一次大戦が民族問題を契機に拡大してしまったことを踏まえて、国際連盟は民族自決原則を始めとした少数民族保護制度の拡充を図っていく。しかしながら、アーレントからすればこの時期に成立したもろもろの少数民族条約はおおむね、「国民国家の原理」を「全ヨーロッパで」「実現」することを目指していたがために、かえって「国民国家の信用をさらに落とすという結果をもらたしたにすぎなかった」。
 では、第一次大戦以降の少数民族保護体制とはどんなものだったのか? それは、マジョリティを「国家民族(StaatVolk)」と見なしたうえで、彼らが他のマイノリティを保護する体制だった。そんなものは早晩崩壊するのが明白だった。

国民国家の原理は該当する諸民族のごく一部に国民主権を与えたに止まり、しかもその主権はどこでも他の民族の裏切られた願いに対立する形で貫徹されたため、主権を得た民族は最初から圧政者の役割を演ずることを余儀なくされたからである。被抑圧民族のほうはほかならぬこの規制を通じて、民族自決権と完全な主権なしには自由はあり得ないとの確信を強めた。従って彼らは民族的熱望を踏みにじられたばかりでなく、彼らが人権と考えたものまで騙し取られたとかんじた。そして彼らのこの感情の最大の支えはフランス革命だった。フランス革命こそ本来は国民国家の伝統を、それも国民主権と人権の享受とを統治することによって築いたものだからである。

同p244

 西ヨーロッパで成功した「国民国家の原理」を東欧に移植したところで、拒絶反応が起きるのは必定だった。たとえばポーランドやオーストリアなどには、国民国家を成り立たせるための必須条件である「民族的帰属」をもった民族がまだ育っていなかったからだ。結局、そうした「国家民族」は国家機構と有機的に結びつくことなく、国民国家をまともにスタートさせられないまま「ネイションによる国家の征服」という、フランスがかつてたどった道筋を追いかけることとなってしまう。
 こうした特定の国民のみに人権を与え、一方で非国民にはその権利を与えない体制を築いた結果起きたのが、(それこそアーレントのようなユダヤ人に代表される)少数民族の迫害、そして(それこそアーレントが一時期そうだったような)無国籍者の出現である。

 無国籍ということは現代史の最も新しい現象であり、無国籍者はその最も新しい人間集団である。第一次世界大戦の直後に始まった大規模な難民の流れから生れ、ヨーロッパ諸国が次々と自国の住民の一部を領土から放逐し国家の成員としての身分を奪ったことによってつくり出された無国籍者は、ヨーロッパ諸国の内戦の最も悲惨な産物であり、国民国家の崩壊の最も明白な兆候である。

同p251

 西ヨーロッパでのみ成功したモデルを他の地域にも無批判に適用したことによって起こった悲劇は、パレスチナの地で繰りかえされることとなる。

 〔……〕戦後に明らかになったことは、唯一の解決不可能な問題とされていたユダヤ人問題が解決され得たこと、しかもその方法は最初は徐々に入植しそれから力ずくで領土を奪うことだったこと、だかこれによって少数民族問題と無国籍問題が解決したわけではなく、その逆にユダヤ人問題の解決は今世紀のほとんどすべての事件と同じように別のカテゴリー、つまりアラブ人難民を生み、無国籍者・無権利者の数を更に七十万人乃至八十万人も殖やしてしまったことだった。

同p269-270

 『全体主義の起原』が発表されたのは1951年であるが、エリザベス・ヤング=ブルーエルによる伝記によればアーレントは1945年から原稿を書きはじめたとのことなので、「シオニズム再考」から後の大著の執筆までの間隔はほぼないに等しい。たった一年かそこらで彼女の思想に大きな変化が生まれることはまずあり得ないだろう。
 したがって、上で見てきたように国民国家の問題点を的確に見据えていた彼女が、それでもなおパレスチナをヨーロッパとみなせばヨーロッパのユダヤ人は国民国家を滞りなく作れるだろう、などと妄想した可能性は、おおよそ考えられない。
 よって、この節の最初に書いた思いつきは破棄するほかないのだが、一方でこうした思いつきから出発した考察は、アーレントの態度の奇怪さをよりいっそう高めてくれるという副作用ももたらしたのではないだろうか。我々は以下のように問いたくなる気持ちを避けられなくなるだろう。
 ヨーロッパの問題点を誰よりも剔抉しえたアーレントが、ではなぜ、パレスチナとユダヤ人をヨーロッパから引き離さないようあがいていたのだろうか?

3.アーレントのアラブ人観

3-1.DD論に陥るアーレント

 「シオニズム再考」においてアーレントは、パレスチナをユダヤ民族だけの土地にし、アラブ人を追い出したところで、周囲をアラブ人からなる国家に囲まれていれば危険は避けられないと述べた。 
 が、そうした警告も空しく、シオニストはアラブ諸国との戦争に打って出て、遠慮なくパレスチナからアラブ人を追放した。そして、念願のユダヤ人国家を設立することとなる。
 第一次中東戦争が続くさなか、アーレントは「ジューダ・L・マグネスの示唆にもとづいて」、「近東における和平か休戦か」を書きはじめる。この論考はその後1950年に発表されることとなるが、冒頭でアーレントは「アラブ-ユダヤ関係にかんするかぎり、戦争とイスラエルの勝利は何も変えなかったし、何も解決しなかった」とみなしている。依然としてシオニストに対して批判的な目を向けていることがうかがえるが、一方で、「和平か休戦か」においては、(「シオニズム再考」においてはほとんど言及されていなかった)アラブ人にも批判が及ぶようになる。

 なにをしても深刻な事態を招かないという雰囲気の中では、〔ユダヤ-アラブ〕両当事者がしだいに向こう見ずになり、しだいに自分の利害しか考えなくなり、その地域全体の存亡がかかった現実を見過ごすようになったのは、まったく無理もないことである。こうして、アラブ人は、ユダヤ人の力の急速な成長と経済発展の広範な帰結を考慮するのをおこたり、ユダヤ人は、イラクからフランス領モロッコにいたるアラブ世界で植民地諸民族がめざめ、新しい民族主義的連帯が醸成されつつあるのを無視した。いだいていたのが希望であれ憎悪であれ、どちらの民族もあまりにもイギリス人だけに注意を向けていたため、事実上おたがいを無視したのだ。すなわち、ユダヤ人は、近東政策における恒久的な現実とはアラブ人であってイギリス人ではないことを忘れていたし、アラブ人は、パレスティナに恒久的にとどまろうとしているのはユダヤ人入植者であってイギリス軍部隊ではないことを忘れていた。

ハンナ・アーレント「近東における和平か休戦か」『ユダヤ論集』p261

 要するに、ユダヤ人とアラブ人は敵とみなすべき相手を、そして最終的には協力へといたるべき相手を間違えていたというわけだ。お互いの民族をイギリスによって操られている者とみなし、交渉の余地などないと軽視したがために、ろくに理解する契機をもたないまま戦争へと突き進んでしまったのがパレスチナの実情である、とアーレントは分析している。
 そのうえで彼女は、この戦争を単なる「休戦」で終わらせてはならないと訴える。仮に休戦によって戦闘が止まったとしても、お互いの陣営が和解しなければ次なる戦闘へと備え続けなければいけない。イスラエルの場合は、「軍備や動員にあまりに出費がかさむと、幼いユダヤ経済の息の根をとめ」ることになるだろう、と「和平か休戦か」では警告されている。同時にアーレントはアラブ側にも「和平」を求めるのだが、そこでの口調はどことなく軽蔑を感じさせる。

 和平も戦争もない状態をもちこたえるのは、他でもなく経済生活の沈滞と社会生活の後進性ゆえに、アラブ人のほうがたやすいだろう。けれど、長い目で見れば、貧困にうちひしがれ、未開発で組織化されていない近東は、ユダヤ人とおなじようにぜひとも平和を必要としている。力の真空がつづくのをふせぎ、独立を確保するための力を早く得るには、近東はユダヤ人の協力を必要としているのだ。

同p263

 もちろん、イスラエルと同時にアラブ人が批判されている文脈においては、こうした「和平も戦争もない状態をもちこたえるのは、他でもなく経済生活の沈滞と社会生活の後進性ゆえに、アラブ人のほうがたやすいだろう」といった嘲笑的な文言は、それなりに公平な立場から繰りだされている皮肉として受け止められるかもしれない。
 しかしながら、「和平か休戦か」を読み進めていくうちに、小さかった違和感は徐々にふくらんでいく。
 つづいてアーレントは「今日イスラエル政府は、既成事実をのべたて、力こそ正義、軍事的必要性、征服が法をもたらすと述べている」と批判している。「パレスティナのユダヤ人は一枚のカードに賭けた」、つまりアラブ人との戦争に何が何でも勝って土地を確保するという賭けに乗り出し、「そして勝った」わけではあるが、しかし、だからといってハッピーエンドにいたるわけではない。アラブ人からなる国家はいまだにイスラエルを囲んでいるのだから、一度戦争を起こし彼らに敵意を向けてしまえば、次なる戦争が起きる可能性は高い……しかし、シオニストはそうした「現在の現実」から不思議と目を背けている。

ユダヤ民族の多数派は、ここ数年の出来事は、一九四七年の国連の決定、一九一七年のバルフォア宣言、さらにはパレスティナにおける開拓の五〇年とくらべて、紀元七〇年の神殿の破壊と離散の二千年間の救世主待望のほうにより密接な関係があると感じている。ユダヤ人の勝利は、近東の現在の現実に照らして判断されるのではなく、きわめて遠くはなれた過去に照らして判断されているのだ。現在の戦争は、「われわれが何世紀にもわたってもたなかった、恐らくマカバイオスの時代以来の満足」(ベン・グリオン)をすべてのユダヤ人にもたらしているのである。

同p266

 ベン=グリオンを始めとしたシオニストは「きわめて遠くはなれた過去」に目を向け、自分たちの理念のよって立つところを確認しているばかりで、これからも敵となるであろうアラブ人たちから目を背けているのだ。
 このようにイスラエル批判にあたっては鋭利な判断力を発揮しているアーレントではあるのだが、一方でアラブ批判の段になると、それが奇妙にも影をひそめてしまっていると言わざるをえない。

 この結果を最終的なものと見なそうというユダヤ人の決意に、それをただの幕間劇とみなそうというアラブ人の決意が対抗する。ここでもわれわれが直面しているのは、出来事からは引きだすことのできない決意であり、出来事によってちっとも変わらない決意である。勝利がユダヤ人の態度を固めさせ、おなじように敗北がアラブ人の態度を固めさせているようだ。この点でのアラブ人の政策はひじょうに単純で、敗北を割引して考え、その地の所有権という変わりばえのしない主張と、イスラエル国承認拒否を相も変わらず頑固にくりかえす外交政策が中心である。

同p267

 先ほど、筆者はアーレントが「今日イスラエル政府は、既成事実をのべたて、力こそ正義、軍事的必要性、征服が法をもたらすと述べている」と批判していたのを確認した。言わばここで彼女は、軍事力によって強引にイスラエル-アラブの関係性をユダヤ優位なものとし、以降「この結果を最終的なものと見なそう」とする「決意」を難じているのである。
 ならば、「それをただの幕間劇とみなそうというアラブ人の決意が対抗する」のは、彼女にとって望ましい話ではないのだろうか? 「力こそ正義」という論理を否定し、仮に戦争で負けたとしても「結果を最終的なものと見な」さずに不正義を問うていく姿勢は、多分アーレントも支持するはずだろう……だとすると、なぜここでアラブ人は批判の対象になっているのだろうか?
 まさかアーレントは、アラブは戦争で負けたのだからその「出来事」を吞みこんだうえでパレスチナの所有権を放棄し、敗者は敗者らしく振舞え、とでも言っているのだろうか? 軍事力に劣る民族は土地を奪われても仕方ないのだから、それまでの強硬な態度を改めるべきだ、とでも主張しているのだろうか? そんなはずはないだろう……ではもう一度繰り返すが、だとすると、なぜここでアラブ人は批判の対象になっているのだろうか?
 ひょっとして、彼女はアラブ人にも悪いところはあるので、シオニストだけを一方的に批判するわけにはできないといった論旨ありきで議論を組み立てようとしているのではないか――そんな懸念は、次の文章にたどりつくと確信に変わる。

ユダヤ人が確信し、何度も表明してきたことには、世界――あるいは歴史あるいは高次の道徳性――はユダヤ人にたいして二千年にわたる悪事を正す義務がある、もっと明確にいうなら、ユダヤ人の見解では、単なるナチ・ドイツの犯罪ではなく全文明世界の犯罪であったヨーロッパ・ユダヤ人の破局の補償をしなければならない。他方、アラブ側は悪事にたいして悪事で仕返ししても事態は正されないし、また「いかなる道徳の規則も一方の人びとの迫害を救う目的で他方の人びとの迫害を正当化することはできない」と応じている。この種の議論の難点は、答えを出せないことである。両者いずれの主張も、自分自身の民族と歴史の閉じた枠組みのなかでしか意味を持たないがゆえに民族主義的であり、状況の具体的な要因を度外視して考えているがゆえに律法主義的である。

同p268

 アーレントともあろう人がなぜここで「どっちもどっち論」を振りかざすのか理解できないが、普通に考えてこの「議論」には「難点」などないし、「答え」も出せる。アラブ側の主張のほうが正しい。なぜならアラブ人は「ヨーロッパ・ユダヤ人の破局」にほとんど責任を負うていないからだ。
 もちろん、シオニストがパレスチナに移住してきてからは、少なからぬユダヤ人がアラブ人との間の抗争で命を落としているのも事実である。ハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニーのように、アドルフ・ヒトラーと公然と会見してナチスと結託したパレスチナの指導者もいる。
 だが、それはあくまでも(アーレントも蛇蝎のごとく忌み嫌っている)修正主義者を始めとした、先住民を追い出そうとしてでもユダヤ人国家を樹立すると息巻いた連中がアラブ側の憎悪を煽った結果起こった事象でもある。パレスチナでユダヤ人が受けた被害を、「ヨーロッパ・ユダヤ人」の、ドイツ人やポーランド人などに敵意を向けていなかったにもかかわらず殺されていったような被害と同列に扱うことはできない。基本的には「ヨーロッパ・ユダヤ人の破局」は、ヨーロッパ人こそが責任を負うべきであって、アラブ人が負うべくもない。
 だから彼らが、「一方の迫害を救う目的で他方の人びとの迫害を正当化することはできない」と述べるのは正当である。たぶん、アラブ人でなくてもきっとそう言うだろう。その証拠に、今日イスラエルを批判し、パレスチナに連帯しようとする世界の人々は一様にこの主張を掲げている。アーレントと同じユダヤ人であるジュディス・バトラーもまたこう述べている。

最終的にナチスのジェノサイドと、それが引きずる強制移送のトラウマじみたものをじゅうぶんに理解したうえで、生き残りのユダヤ人はみな難民であり、難民の権利は、法的・政治的手段をとおして尊重されねばならないという観点が育まれた。しかし、ここでもまた、だかといって、なんらかの難民グループの権利が、新たな難民竃を生み出すような手段を通して法的に処理されねばならないということにはならないのだ。

ジュディス・バトラー『分かれ道』青土社p53

 こうした世界的にも認められている主張を「民族主義的」だとか「律法主義的」だというのは、きっとアーレントもそこに含まれるのだろうが、狂信的なシオニストくらいだろう。

3-2イスラエル建国の正統性はどこにあるのか?

 それにしても、アーレントはなぜシオニストを批判しつつも、それでもなおイスラエルが樹立される正統性はあると考えるのだろうか? 彼女は片面でシオニストが「力こそ正義、軍事的必要性、征服が法をもたらすと述べている」ことを批判している。だが、もう片面でアラブの「その地の所有権という変わりばえのしない主張と、イスラエル国承認拒否を相も変わらず頑固にくりかえす外交政策」をも批判している。ということはアーレントは、シオニストの強引な手法自体は正当ではないと感じつつも、それでも「イスラエル国承認拒否」は不当だと見なしているわけだ。では、彼女はイスラエルが樹立される正統性をどこに求めているのだろうか?
 それは、同じく「和平か休戦か」を読み進めていくと明らかになる。

 この地の空気は、残念ながら、他の小国の典型的な猛々しい排外主義や熱に浮かされたような偏狭さによく似たものだったが、それに反して、パレスティナでユダヤ人がなしとげたものの現実は多くの点で比類ないものだった。パレスティナで起きたことは、簡単に判断し評価できるものではなかった。それは、過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていたのである。

同p274-275

 こう述べたうえで、アーレントは「パレスティナでユダヤ人がなしとげたもの」を列挙していく。

それは、土地の買収と国有化、集団入植の確立、農民や労働者の協同組合向けの長期貸し付け、社会・健康サービス、自由で平等な教育〔……〕こうした努力によって、三〇年間でこの土地はまるでべつの大陸に移されたかのようにまったく変わったのであり、これには征服もなければ現地人を絶滅しようという企てもなかった。

同p275

 「征服」的で、「現地人を絶滅しようという企て」をもった戦闘的なシオニストと、入植の過程で独自の事業を打ち立てた開明的なユダヤ人は別である、と彼女は考えている。
 そして、こうした「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」ユダヤ人の達成が、ほかならぬシオニストによって無視されてしまったことこそイスラエル建国の罪である、とアーレントは訴える。

 こうした帝国主義的ではない国が遅れないで実現されてさえいたなら、イスラエル国の信用を大いに高め、また今日その立場を有利にすらしていたであろう。しかし、いまでもそうなってはいない。自らのナショナリズム的な攻撃を擁護するために、イスラエルの指導者たちは、いまだに「いかなる民族も、なにものも、とりわけ自由を、贈りものとして得ることはなく、戦い採らなければならない」という古くさい自明の理を主張している。ここからあきらかになるのは、彼らは、パレスティナでのユダヤ人の冒険全体が、世界のなかで変化が起きており、砂漠を繁栄した土地に変えることによって地が征服されうるきわめてすぐれた証拠であるのを理解していないということである。

同p278

 どうやらアーレントは、イスラエルが建国されるべき理由は、決してシオニストがアラブに対して武力で勝利したからではなく、「砂漠を繁栄した土地に変えること」ができたからこそだ、と考えているらしい。つまり、「土地の買収と国有化、集団入植の確立、農民や労働者の協同組合向けの長期貸し付け、社会・健康サービス、自由で平等な教育」などの、他の国々ではなかなか見られなかった実験を通して経済を格段に発展させ、これまで近代的な文明が築かれなかった中東の「砂漠」に画期的な成果を残したことこそが、ユダヤ人が「国民の家郷|《ナショナル・ホーム》」をパレスチナに打ち立てるにあたって、何よりの正統性になると考えているようなのである。
 それはこの後、ろくろく出典を付すこともないまま、(エドワード・サイードに倣って言えば「オリエンタリズム」のこの上ない発露にまみれた調子で)アラブ人が依然として文化的に遅れている民族である、といった趣旨の文章を書いていることからも明らかだろう。

 「なにもないことの福音」(T・E・ロレンス)というイギリス人によって吹き込まれた貧困のロマン主義的理想化は、アラブ人の新しい民族意識と古い矜持にまことによく調和した――彼らの矜持は援助より賄賂をうけとるほうをよしとするのである。主権を求める新しいナショナリズム的主張は、放っておいてほしいという古くからの願望にささえられていて、ごく一握りの支配者一族による搾取を強化し、この地域の発展を阻害するのに役立つだけだった。西洋文明にたいする盲目的なイデオロギー的な敵意のために――この敵意はなんとも皮肉なことに大部分は西洋人によって焚きつけられたのだが――、彼らには、この地域がいずれにせよ近代化されるであろうことも、その利害は無縁で彼らを必然的に従属民族とみなすであろう遠くの大国よりも、中東全体の利害をおのずから共有するユダヤ人と手を組むほうがはるかに賢明であろうことも、見通せなかった。

同p278-279

 要するにアーレントは、ユダヤ人はパレスチナの地で「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」事業を成し遂げたからこそ国家を設立する権利がある一方で、アラブ人はそれを成し遂げられなかったからこそ「その地の所有権」を頑なに主張するのは不当である、と言っているのである。

3-3『革命について』から見た「近東における和平か休戦か」

 シオニストが「力こそ正義」と主張しながらパレスチナの地の所有権を主張したよりも、いっそう憮然とさせられる意見を見せられたような思いがするが、公平を期すために言っておくと、これは何もこのユダヤ人思想家が同族をひいきするために出来あいの論理をこねくり回している、というわけではない。アーレントはあくまでも大真面目にこの論理を信じている(裏を返せば、だからこそタチが悪いとも言えるのだが)。
 それは、「和平か休戦か」が記されてから15年後に出版された『革命について』を読めば明らかだ。18世紀に大西洋の東西で起きた二つの革命をくわしく分析したこの著書は、アーレントの政治観を克明に伝えてくれる。

 『革命について』がフランス革命をくさす一方で、アメリカ革命を高く評価したのは良く知られているが、アーレントがこの二つの出来事を評価するにあたって用いた基準は、それが「解放(liberation)」にとどまるか、それとも「自由(freedom)」を創出し得ているかだった。
 アーレントがなぜフランス革命を酷評するのかといえば、それがあくまでも「必然性(necessity)」から「解放」されることを目指しただけであって、そこから政治的な「自由」を目指せなかったからだった。邦訳者である志水速雄は、アーレントが言うところの「必然性」を以下のように解説している。

 〔……〕アレントは、革命の展開などの歴史過程において「必然性necessity」として現れるものの根底には、生き物としての人間の存在に結びついた「必然性」、つまり生命の必要があると述べている(同様の思想は『人間の条件』のなかでも、特にその第5節、第13節などで、述べられている)。そして、貧困を、人間がこの生命の必要という「必然性」に直接支配されることとして捉えている。したがって、人間の政治的社会的行動を規定するもっとも典型的なものは、この生命の必要の直接的・圧倒的な拘束力としての「貧窮」だということになるわけである。

ハンナ・アーレント『革命について』ちくま学芸文庫p92

 人間には腹を満たすための食事だったり、体を回復させるための睡眠だったり、子孫を残すための性交だったりといった「必然性」がつきまとうわけだが、アーレントからすればそのような「生き物としての人間」――露骨に言えば動物同然の人間――に捉われたままでいる者は、人間としては三流にすぎない(きっと、「貧困にうちひしがれ」ているアラブ人もこの中に含まれるだろう)。
 アーレントから見ればフランス革命はそうした「必然性」に捉われている貧窮した民衆に支持されながら展開していったのだが、同時に革命を頓挫させる原因となったのもこの「必然性」だった。 

テロを解き放ち、革命を滅亡にまで追いこんだのはこの必然性〔貧窮〕であり、人びとの緊迫した欠乏であった。最後にいたってロベスピエールは(その最後の演説のなかで)予言のかたちで定式化したように、何が起ったのかはっきりと気づいた。彼はこう述べたのである。「人類史のなかでわれわれが自由を創設する瞬間を逸してしまった以上、我々は滅びるだろう。」「歴史的瞬間」を逸するほど彼らを長いあいだ悩ませてきたのは国王や棒軍の陰謀ではなく、それよりもはるかに強力な必然性〔貧窮〕と貧困の陰謀であった。この間に革命はその方向を変え、もはや自由が革命の目的ではなくなっていた。すなわち、革命はその目的を人民の幸福におくようになっていたのである。

同p91-92

 これに対してアメリカ革命は――ネイティブ・アメリカンから広大な土地を奪い、アフリカから連れてきた黒人を奴隷とすることによって――「必然性」からあらかじめ逃れられていたおかげで、「解放」を目標とすることなく政治的な「自由」を追い求めることが可能になった。
 もっとも、単に政治的「自由」を実現した程度では革命を正統なものとするには不十分である。あらゆる国家に言えることではあるが、国民や隣国に政治体として承認してもらうためには、なんらかの「権威」がなくてはならない。
 たとえばフランス革命ならば人権宣言という法の制定をもって、あらゆる人間は平等であり、民衆が王権を打倒して権力を握ることは正当である、と権威づけたわけであるが、アーレントは一方で、アメリカ革命の場合は「独立宣言や合衆国憲法にはこれと同じような定式が見当たらない」と述べる。
 ではアメリカは何をもって革命を権威づけているのであろうか? 彼女はそれを、「革命過程そのもの」あるいは「創設行為」であると推定している。

 アメリカの創設者たちが自ら書きしるすことのできた大成功、つまり、アメリカ革命以外のすべての革命がそれ以後何世紀にもわたる攻撃に生きのびるほど十分安定した新しい政治体を創設するのに失敗したにもかかわらず、アメリカでは革命したという単純な事実は、アメリカ憲法が、作動しはじめたとは言えないにもかかわらず、「崇拝され」はじめたまさにその瞬間に決定されたのであった。そして、アメリカ革命がそれ以後つづく他のすべての革命ともっとも際立って異なっていたのはこの点であった。したがって、新しい共和国の安定を保障したのは、不滅の立法者にたいする信仰とか、「来世」における報いの約束や罰の恐れなどではなく、また独立宣言の前文に挙げられている真理の疑わしい自明性でさえなく、実際は、創設行為そのものが含んでいた権威であったと結論したくなるのである。

同p318-319

 アメリカという国家がゆるぎなく存在するのは、「不滅の立法者」、つまり神の権威にもとづいているわけでもなく、「独立宣言の前文」のような足元のあやうい「真理」にもとづいているわけでもなく、「アメリカの創設者」がすばらしい「創設行為」をなしとげたという権威があるからだ、とアーレントはみなしているのである。
 これはちょうど、先ほど見たような、ユダヤ人はパレスチナの地で「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」事業を達成したからこそ建国の権利を持っている、との「和平か休戦か」の判定と一致する。ユダヤ人が権威としているのは、2000年前にその地に棲みついていたにもかかわらず追放されたという歴史でもなく、アラブ人との戦争で勝利したという暴力的な成功でもない。そうではなくパレスチナの地でユダヤ人はたぐいまれな「創設行為」を行ったからこそ、建国にあたって必須の権威をもっている、と彼女は主張しているのだ。

3-4アーレントから見た先住民族

 1948年から1963年までの間にひとりの思想家の価値観が一貫しつづけている事実には瞠目させられるが、同時に、このような独善的な価値観でもって現実政治の調停を行なおうとする態度にはよりいっそう驚かされる。
 アーレントからすれば、ある土地の領有権を主張しあっている二つの政治的勢力がいたとして、そのどちらかに利があるかということは、いかに優れた「創設行為」を行ったかどうかによって決められるのだ。片方の勢力が、自分たちはその土地に先に住んでいた民族である、と主張しようとも、彼女は耳を貸さない。先ほども見たように、「和平か休戦か」においてはアラブ側の「その地の所有権」を主張する姿勢を「頑固」な「外交政策」と述べているのだから、アーレントはそんなものは国家創設の根拠にするには弱すぎる権威だと考えている。
 無論、先住民族の権利にかんする決議が国連総会で採択されたのは2007年の話なので、今日の目から過去のこういった価値観を裁断しようとするのは慎重でなければならない。しかしながら、アーレントが生きているうちに似たような権利を保証する決議が行われたとして、彼女が反対した可能性は十分に考えられる。
 それは『革命について』のなかで、ネイティヴアメリカン(アメリカ先住民)が非常に軽く扱われていることからも予測できる。

〔北アメリカ〕大陸の「未知の荒野」を通ずる最初の道は、当時すでに開かれており、その後百年以上のあいだずっと切り開かれることになるが、それはあたかも、「衝動的な暴行」と「突然の蹂躙」なしには「最初の一歩も踏みだす(ことができず)……最初の木も倒す(ことができない)」かのように、「一般的にもっとも邪悪な要素によって」おこなわれたものであった。しかしどんな理由にせよ、とにかく社会を出て荒野に踏み込んだ人びとが、強制力をもつ法律の範囲から逃れた人にはすべてが許されるかのように振舞ったとしても、彼ら自身、またそれを目撃した人びとやそれを賛美した人びとですら、新しい法律と新しい世界がこのような行為から生まれるとは少しも考えなかった。アメリカ大陸の植民に役立った行為がどんなに罪深く、どんなに獣的であったとしても、それは一人の人間の行為にとどまっていた。

同p137-138

 ヨーロッパから北アメリカに渡航してきた人々は、ネイティヴアメリカンによって「すでに開かれて」いた道を暴力でもって開拓していき、先住民を追い出して植民していった。この過程をアーレントは決して「新しい法律と新しい世界」、つまり政治的共同体を生み出す行為とは見ていない。北アメリカ大陸で諸々の植民者がなした行為は単なる「一人の人間の行為」であって、政治的な暴力ではない、というのだ(アーレントからすれば政治は「複数者(multitude)」によって行われる行為である。そしてこのように言うことで、アメリカへの入植者たちの政治的責任を不問にする)。
 そして、この叙述においては殺戮、ないし保留地へと放逐されていったネイティヴアメリカンの末路が嘆かれることはない。もしも彼らが政治的権利を持った主体としてアーレントから認められているのならば、きっとこの後に何らかの追悼が行われたはずであろう(シオニストの横暴な方針によって失われたパレスチナ・ユダヤ人の「自由」について多くの言葉が尽くされたように)。しかしながら、彼女はそもそも彼らが殺されたとか、居留地に移住された、という説明すらしていない。『革命について』において、ネイティヴアメリカンはその歴史をまともに書くまでもない存在として扱われているのである。
 ここからすれば、アーレントは先住民の権利を否定したであろう、との推測はそう間違っていないように思われる。彼女はきっとネイティヴアメリカンはもちろんのこと、アイヌ、琉球、サーミ、バスク、アボリジニ、タイノ、コイコイ……などといった人々が、ある土地に先に住んでいたにもかかわらず移住者によって侵略されたり、支配されることで苦境に遭っていると訴えたとしても、彼らが何らかの「創設行為」を成し遂げていなければ決して政治的権利を認めないだろう。そして、これは今日イスラエルの暴力によって殲滅される危機に瀕しているパレスチナ人についても当てはまるはずであろう。

3-5「zionist problem」か、それとも「Arab problem」か

 百歩譲ってこのような立場を認めたとしよう。しかしながら、依然としてアーレントの誤謬がなくなるわけではない。先程「和平か休戦か」から引用した文章をあらためて見てみよう。

 この結果を最終的なものと見なそうというユダヤ人の決意に、それをただの幕間劇とみなそうというアラブ人の決意が対抗する。ここでもわれわれが直面しているのは、出来事からは引きだすことのできない決意であり、出来事によってちっとも変わらない決意である。勝利がユダヤ人の態度を固めさせ、おなじように敗北がアラブ人の態度を固めさせているようだ。この点でのアラブ人の政策はひじょうに単純で、敗北を割引して考え、その地の所有権という変わりばえのしない主張と、イスラエル国承認拒否を相も変わらず頑固にくりかえす外交政策が中心である。

「近東における和平か休戦か」p267

 散々見てきたように、アーレントはアラブ人が「その地の所有権という変わり映えのしない主張」を「頑固にくりかえ」していることを批判している。仮にこうしたアラブ人の主張が、パレスチナで「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」事業を達成したユダヤ人に向けられたものであるのならば、それを「頑固」であるとみなすのはそれなりに理解できる。政治的な達成を何も成し遂げていないアラブ人が、優れた発展を遂げたユダヤ人をやっかみながら「その地の所有権」を盾に敵を追い出そうとしているとするのならば、たしかに批判されてしかるべきであろう。
 しかしながら、現実的にはアラブ人がここで対立しているのは、彼らを暴力でもって追いだし、「その地の所有権」を無視したうえで建国したシオニストだ。彼らは平和裡にイスラエルを建国しようとしたのではなく、敵意をもって対峙していた人々なのだから、アラブ人が彼らを前にして「頑固」になるのは普通の話である。したがって、ここでアーレントが行っているように、ユダヤ人も悪いが「その地の所有権」を頑なに主張するアラブ人も悪い、といったDD論的な構図で事態を見ようとするのはあきらかに間違っている。
 単に議論の組み立て方が間違っているだけなのであればまだ救いようはあるが、実際には「和平か休戦か」は救いようのない論考と言わざるをえない。なぜかといえば、こうした議論によってシオニストの罪がぼやかされてしまっているからだ。「和平か休戦か」はどう読んだとしても、イスラエルは確かに批判されるべきであるが、同様にアラブ人にも罪はある、という以上のことは述べていないため、シオニストの政治的責任が軽減されているのである。
 それは以下の(たとえ長くなってしまっても引用しなければならない)文章からも明らかであろう。

 近東の諸民族にとってこの一年間の出来事の損害を見積もる最も現実的なやり方は、死傷者、経済的損失、戦争による破壊、軍事的勝利によるのではなく、政治的な変化によるものであり、そのうち最も目立っているのは、新しい種類の家なき人びと、すなわちアラブ人難民の創出である。〔……〕ひどいことに、脱出がどのように発生したにせよ(アラブ側が唱える残虐行為のプロパガンダか、じっさいの残虐行為か、あるいは両者の混合か)、彼らのパレスティナからの避難は、戦争中のシオニストによる大規模な住民移動計画によって準備され、つづいて難民が故郷にふたたび立ち入ることをイスラエルが拒否し、シオニズムに反対するアラブ人の古くからの主張をついに実現してしまったのである。すなわち、ユダヤ人はひたすらアラブ人を家から追いだすことを目指していたというのだ。搾取にもとづいていなかったというユダヤ人の郷土の誇りであったものは、最終テストにいたって災いのもとと化した。すなわち、アラブ人の避難は、もし〔ユダヤ人と〕共通の経済のなかで生活していればあり得なかったであろうし、ユダヤ人によって歓迎されることもなかっただろう。

同p287

 パレスチナからのアラブ人の避難については、かつてシオニストによって、アラブ側の「プロパガンダ」によって起きたものだ、とのプロパガンダが行われていた。実際は大した残虐行為が起きてなかったにもかかわらず、アラブの指導者が民衆に嘘をまきちらしたがために、パニックが起きてしまった結果難民が発生してしまったのだ、と主張されていたのだ。
 こうした議論は今となっては『パレスチナの民族浄化』を記したイラン・パペによって否定されている。1948年のパレスチナ各地では、シオニストが以前から練り上げていた「ダレット計画」というマスタープランにもとづいて実際に残虐行為が起きていたし、難民はシオニストによって殺されるとの現実的な恐怖にもとづいて避難したのだ。

 もちろん、アーレントは「和平か休戦か」を執筆の時点でこうした事実を知りえなかった(パペが依拠したIDFの公文書は90年代後半に公開されたものだった)。それゆえ、彼女が事態の深刻さを「脱出がどのように発生したにせよ」というあいまいな言葉で濁し、アラブ人難民発生の責任主体を特定しなかった、と批判するのは無理筋である。
 だが、一方でアーレントがアラブ人の避難を「シオニズムに反対するアラブ人の古くからの主張をついに実現してしまった」結果であると見なしていることは救いがたい。彼女は、アラブ人が以前から「ユダヤ人はひたすらアラブ人を家から追いだすことを目指してい」ると言い張ってきた、と非難している。アーレントはアラブ人のことを、実際には共存すべきであったユダヤ人を誤って敵とみなしたがために、予言の自己成就を犯すようにしてパレスチナから避難せざるをえなくなった存在としかみなしていないのである(彼女は「じっさいの残虐行為」が起きた可能性があるにせよアラブ人は批判されるべきであると考えているのだから、ここに情状酌量の余地はない)。
 はなはだしい犠牲者非難と言うほかない。実際に戦争によって大量の難民が発生した場合には、そうした事態を引き起こした主体(この場合で言えばユダヤ人の軍隊であるハガナーやイルグン、そしてシュテルン)が批判されるべきであって、逃げるだけの難民は批判されるべきでないはずである。だが、アーレントはその過ちを易々と犯してしまっているのだ。

 ところで、アーレントはアラブ人がパレスチナから避難した事態について、「アラブ難民問題Arab refugee question」と呼んでいる。最近邦訳版も出たキャスリン・ソフィア・ベルの『アーレントと黒人問題』では、アーレントが「黒人問題Negro question」を「黒人の問題Negro problem」と捉えていた、と明らかにされている。

私は、アーレントが黒人問題〔Negro question〕を白人の問題〔white problem〕ではなく黒人の問題〔Negro probelm〕として見ていると論じた。そこで言いたかったのは、アーレントが奴隷制や人種隔離、植民地主義/といった問題を構成する際、黒人が問題であるかのようなやり方で構成しており、白人による黒人へのレイシズムを問題として位置づけはしなかったということである〔……〕。

キャスリン・T・ガインズ『アーレントと黒人問題』人文書院p247

 簡単に言いかえれば、アーレントは黒人が受けている冷遇を、黒人自身の責任であって白人の責任ではないと見なしていた、ということだ。
 ここまで見てきたアーレントのアラブ人への態度を踏まえるのであれば、ベルに倣って、こういう言い方もできるであろう。アーレントは、アラブ人問題(Arab question)をシオニストの問題(zionsist problem)ではなくアラブ人の問題(Arab problem)として見ている、と。

補節2.『革命について』から見た「シオニズム再考」

 アーレントが『革命について』を出版する以前は、知識人の間でアメリカ革命はフランス革命にくらべて「局地的な重要性をもつにすぎない出来事にとどまっ」ていた(たぶん、これは彼女の野心的な著書が出版されてから60年経っても依然として変わらない見方だろう)。これについてアーレントは以下のように表現している。

なるほど、北アメリカの植民地化と合衆国の共和政はヨーロッパ的人間のおそらく最大の、まちがいなくもっとも大胆な企てであろう。しかし、合衆国は、その歴史上一〇〇年近く、ヨーロッパの母国からの名誉ある、あるいはさほど名誉でもない孤立の内に、まったく独立していた。

『革命について』p77(強調筆者)

 たしかに、アメリカ建国の父たち(ジョン・アダムス、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントン……)はいずれもイギリスからの移民を先祖として持つ人々だったから、彼らがヨーロッパを母国としていると見なすのは一見すると自然である。
 しかしながら、「シオニズム再考」を読んだ後にこの一節に目をとめてみると、既視感を覚えざるをえない。
 アーレントは、アメリカがモンロー主義に則ってヨーロッパから「名誉ある、あるいはさほど名誉でもない孤立の内にまったく独立していた」という。アメリカは本来の出自を忘れてあたかも自分がヨーロッパとは無関係に独立したと思い込んでいるが、実のところその独立は「ヨーロッパ的人間」によって成し遂げられたのだから、あらためて自国の起源を思いだすべきだ、と彼女は警告しているのである(同時に彼女はヨーロッパ人に向けて、アメリカの革命を文字どおりの意味でも、比喩的な意味でも対岸の出来事と思うなかれ、彼らがなしとげたことはヨーロッパの偉大なる達成の一つとして数えるべきことなのだから、と主張しているともいえるだろう)。
 これは「シオニズム再考」においてアーレントが、ヨーロッパから孤立していくシオニストたちに向かって、ユダヤ民族が西洋文化の発展の分け前を与えられる権利を持っていることを忘れるな、と警告したことと似ている。念のため、もう一度同じ箇所を引いておこう。

シオニストは、ヨーロッパ諸民族にとって不可欠な――弱小な民族のみならず強大な民族にとっても不可欠な――連帯を断ち切っただけではなく、信じがたいことに、ユダヤ人がもちうる唯一の歴史的・文化的な安住の地さえも彼らから奪おうとした。というのも、パレスティナと地中海圏はつねにヨーロッパ大陸に属してきたからである。政治的にはいかなるときもとまではいえないが、地理的、歴史的、文化的にはつねにそうであった。こうして、シオニストは我々が一般に西洋文化と呼んでいるものの根源と発展におけるユダヤ民族の正当な持ち分を彼らからうばおうとしたのだ。

「シオニズム再考」p179-180

 「シオニズム再考」が書かれたのが1944年で、『革命について』が出版されたのが1963年だから、彼女のヨーロッパへの異常なまでのこだわりは20年近くにわたって一貫していたわけだ。
 ここでも我々は瞠目しなければならないのだが、一方でやはり、アーレントがなぜここまでヨーロッパにこだわらなければいけなかったのか、との問いは、たとえ執拗になろうとも繰りかえさなくてはならないだろう。
 さしあたり考えられるのは、彼女が「創設行為」は「ヨーロッパ的人間」しかできないと見なしていた、という可能性である。よくよく考えてみると、アーレントが「創設行為」だったり「はじまり」だったりといった言葉を使う時に例示されるのは、いずれもヨーロッパでの出来事なのだ。
 彼女が『人間の条件』において西洋文化の起源たる古代ギリシャを高く評価しているのは良く知られているが、それは同時にギリシャが後世の人々が権威として絶えずうらやむような「創設行為」をなしえたからであろう。また、『革命について』においては、ローマの建国(創設)もそれなりに高く評価されているが、いわずもがなこれはヨーロッパにおいては欠かせない歴史である。それから、『全体主義の起原』においてその歴史が叙述された国民国家もまた、「解放されたヨーロッパ農民階級」があってこそのものだった。一時期彼女が熱狂していたハンガリー革命についても、「ヨーロッパ家族の一員」によるものにほかならない。そして、アメリカ革命も大西洋の向こう岸で起きた出来事ではあるが、先ほど見てきたとおり「ヨーロッパ的人間」が成し遂げた偉業である。
 もちろん、アーレントがヨーロッパ以外の出来事にてんで通じていなかった、あるいは興味がなかった、という可能性もなくはない。いずれにせよ、このように振りかえってみると彼女のヨーロッパびいきは読者をして面食らわしめるほどだ。しかし同時に、アーレントがなぜユダヤ人(およびパレスチナ)をヨーロッパに引き留めたがっていたか、という問いの答えも、ここから導き出せるのではないだろうか。
 つまり、こういうことだ。アーレントは、ユダヤ人がヨーロッパ人でなければ「民族の郷土」を打ち立てることなどできない、と考えていたのではないだろうか。裏を返せば、彼女はユダヤ人がアジア人になってしまってはまともな「創設行為」ができなくなると考えていたのではないだろうか。

4.「沈黙」以後のアーレント

4-1アーレントの50年代以降のイスラエル、そしてアラブ人への言及

 よく知られているとおり、「和平か休戦か」の発表以降、アーレントはイスラエルについて(アイヒマン裁判を傍聴するまで)ほとんど言及しなくなる。それは彼女がイスラエル建国以降、『全体主義の起原』や『人間の条件』といったまとまった著作を執筆する方に精を出すようになっていったこととも無関係ではないだろう。それと同時に、もろもろの論考にアラブ人の姿が現れることもなくなっていく。
 もっとも、プライベートな場面ではアーレントはイスラエル、そしてアラブ人に散発的に言及している。彼女が最も信頼を寄せた師であるカール・ヤスパースとの間で交わされていた書簡などはその最たる例だ。一例として、妻がユダヤ人であるヤスパースは1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)に際してアーレントに手紙を送り、イスラエルへの全面的支持を表明しているが、12月26日に書かれた返信は思いのほか芳しくないものだった。

 私にはいまもってスエズでの冒険は、軍事的にすら万全に遂行されなかったせいでよけい悪化してしまった破滅的政策のように思えます。イスラエルがそこから得られたのは、いちばん安上がりに武器を調達できたことだけで、情勢はちっとも変わらなかったのです。

L.ケーラー、H.ザーナー編『アーレント=ヤスパース往復書簡1926-1969 2』みすず書房p90

 ここからは依然としてアーレントがイスラエルに対して批判的であることがうかがえるが、一方でアラブ人に対する言及はない。
 つづく手紙でヤスパースは、国連がイスラエルを「侵略者」とみなしたことで「恥をさらした」と批判的に述べるが、アーレントはこれについても翌57年4月にそっけなく返している。

けれどあなたは、「イスラエルの壊滅は人類の終わりを意味するだろう」という気分でいらっしゃる。これはたとえ気分としても、正当な根拠を欠いているように思えます。私はしばしば、ユダヤ人の終わりを意味するだろうという気分にはなりますが、それすら当を得ているかどうか。ヨーロッパにとってユダヤ人がもつ意味、その政治的=現実的意味についても、私たちの意見はぴったりとは一致しておりません。ここ二〇年でその意味は決定的に変わってしまったのです。今日ではユダヤ人はもはや、ヨーロッパ諸国民の重要で欠くべからざる構成部分ではありません。いずれまたそうなるでしょうか? 私にはわからないし、そう信じてはおりません。

同p98

 どうやら、アーレントはこの時点でユダヤ人をヨーロッパに引き留める努力を(「シオニズム再考」ではあれだけこだわっていたのに)放棄してしまったようだ。そして、アラブ人については依然語られない。イスラエルについて積極的に語る気にもならない以上、アラブ人についてはなおのこと言及する気にすらならない、といったところなのだろうか。
 だが、翌58年11月の手紙では、アーレントは突然このスエズ危機について語っている。

〔……〕スエズ戦争の前日に陸軍の一連帯が大量虐殺を行った村の名前は、クファール・カシム。事件はこうです。イスラエル内のアラブ人村すべてに戒厳令がしかれて、住民はすべて、夕方五時以降は家にとどまるよう命じられ、違反者は男女子どもを問わず射殺されることになった、と。ところがこの布告は、クファール・カシムでは四時半になるまで知らされず、住民は野良に出ていて、家に帰るのが間に合わなかった。そのため村はほとんど根こそぎ殲滅されてしまったのです――女、子ども、その他すべて。兵士たちは射殺命令を受けたとき、布告を知らされるのが間に合わなかった者をどうするのかと質問したのですが、ユダヤ人将校の答えは、アッラーの御慈悲にすがるがいいさ!

同p150-151

 アーレントはクファル・カシムで起きた虐殺に言及することで、明確にイスラエルへの失望を表明している。彼女がこの事件についていつ知ったのかは定かではないが、これこそがスエズ危機について真正面から言及することをためらっていた理由ではないか、と推測することは可能だろう。
 また、同じ手紙の末尾にはこんな文章もしたためられている。

――最後にもう一つ。ユダヤ人部隊がみせしめのために根絶した最初のアラブ人村は、デイル・ヤシムという名です。パレスティナからのアラブ人大量脱出は、この最初の虐殺事件と大いに関係があります。

同p151

 このように書くことで、アーレントはイスラエルの無条件の支持を表明する師に、遠回しながら釘を刺している。また、「和平か休戦か」ではあいまいな言及にとどまっていたアラブ人の避難の原因についても、この手紙ではデイル・ヤシーンで起きた虐殺こそがそれだ、としっかりと言及されている(ヤスパースはその後「イスラエルにかんして私が盲目であ」ったことを認め、アーレントが送ったバルフォア・ブリックナーのアラブ人難民についての本も読んでいる)。
 できれば、それを公の場でも表明しておいてほしかったものだが――どうあれ、アーレントはシオニストの罪をはっきりと直視するようになったと言えるだろう。

4-2「どんな命令にでも従う連中」

 もっとも、だからといってアーレントがアラブ人に対する偏見から抜け出せたわけではないようだ。
 周知のとおり1960年にアドルフ・アイヒマンが逮捕され、エルサレムにおいて裁判が行われた際に、アーレントはイスラエルへと向かって傍聴レポートを記している。その間もヤスパースとの書簡のやりとりは続けられていたのだが、61年4月13日の手紙では以下のようなイスラエル国内の様子が伝えられている。

 裁判にかんする国内の関心は、作為的にひどく煽られています。裁判所のまえには、事があればどこへでも群がってきそうなオリエント的モッブがたむろしています。

同p239

 アーレントが『全体主義の起原』においてモッブを蔑視しながら叙述していたのは良く知られているが、引用では同時に「オリエント」をモッブ同様に軽蔑していることがうかがえる。
 結局、アーレントほど注意深い人でさえオリエンタリズムからは逃れられないのか、と落胆させられるが、おまけに彼女は以下のようにイスラエル国民の序列づけさえ行っている。

 私の第一印象、いちばん上位に来るのは裁判官で最良のドイツ系ユダヤ人たち、つぎは検事で、ガリツィア人ではあってもともかくもヨーロッパ人。すべてをとりしきっているのは警察ですが、彼らには私にはどうも気味がわるく、ヘブライ語しか話しませんし、アラブ的風貌で、なかには見るからに残忍そうなタイプの人がいます。どんな命令にでも従う連中です。そして扉の外にはオリエントのモッブ。ここはイスタンブールか、なかばアジアのどこかの国かと思わせるほどです。それにイェルサレムで大変目立つのが、バイエスとカフタンのユダヤ人、この連中は分別ある人たちすべての暮しをぶちこわしています。

同p240

 筆者からすれば、かような剥きだしのヨーロッパ中心主義を(私信とはいえ)さらけ出せる人がいることこそ「気味がわるく」感じられる。本稿の2節で、アーレントがユダヤ人をアジア民族だとみなす人がいるのを「ばかげ」ていると述べたことを確認したが、結局のところ彼女はアジアを蔑視していたからこそ、そのような態度をとってしまったのだろう。
 オリエント人である筆者はこのような文章を前にすると冷静ではいられなくなってしまうので(それに彼女は筆者のようなオリエント人の難癖なんか聞きたくないだろうから)、ここはひとつ他人の意見を参考にすることにしよう。アーレントと同じユダヤ人であるバトラーは、このような差別意識にまみれた文章を以下のように指弾している。

 明らかにここでいう「分別のある人びと」は信心深い人やアラブ人でもない。そして彼女の「オリエントの群衆」への言及があきらかにするのは、アーレントのイスラエルに対する異議が、ある部分では、ヨーロッパ系ユダヤ人が中東に居をかまえるとアラブ系やセファルディームのユダヤ人とまじりあってしまうことに対する不快さに関係しているということだ。アーレントのいうユダヤ性はヨーロッパ的なものである。アーレントは〔ゲルショム・ショーレムとのやり取りで述べたように〕自分が愛することができるのはひとりひとりの人間《パーソン》であって、いかなる種類の「人びと|ピープル」でもないと論じているけれども、そうはいいながらも彼女が「人びと|《ピープル》」という形の存在を嫌うことができるのか知りたいものである――彼女が実際にしたのは、「オリエントの群衆」やその同類というかたちでの仕分けなのだから。もしも「分別」がヨーロッパユダヤ人の専売特許であり、アラブ系文化に出自をもつ者たちは「いかなる命令にも従ってしまう」のだとすれば、それはすなわちアーレントがどんな命令にも従う人間として糾弾したアイヒマンと、エルサレム裁判でみずからが距離をおいてみていた非ヨーロッパ系ユダヤ人との間に、並行的類似性を自分では知らないうちに設けてしまったことになる。

『分かれ道』p265

4-3「戦争花嫁」としてのアーレント

 アイヒマン裁判のレポートが『ニューヨーカー』に掲載されてからというもの、アーレントの見解は(特にユダヤ人社会のあいだで)物議をかもしたのは良く知られている。その間もヤスパースは頻繁に手紙のやり取りをつづけ、アメリカで孤立しかけていたユダヤ人思想家をはげました(そもそも、アイヒマンを形容する際にアーレントが用いた例の「凡庸な悪(banality of evil)」も、ヤスパースとの書簡の往復のなかで生まれたものだった)。
 こうした40年以上にわたる書簡を通じたやりとりは、1967年になると散発的になっていく。この時期の手紙を見ると、ヤスパースはリューマチや多発性関節炎に苦しめられ、風邪をひいたとも頻繁に報告している。手紙を書く気力すら失われていたのだろう。
 そんな中で、アーレントは1967年6月10日に以下のような手紙を送っている。

 一週間半まえにシカゴからかなり疲れて家に帰って来て、それ以来ほとんどラジオに張りつきっぱなしです。イスラエルは鮮やかな手際でしたね、もちろんナセルがまさしく張り子の虎だったにしても。ダヤンの宣言もひじょうに気に入りました。昨日読んだイェルサレムからの報道では――どこか目につきにくいところに載っていましたが――、彼はヨルダンにたいして連邦化か国家連合を提案したとのこと。そうなればたくさんの問題が一挙に解決するでしょうね。まちがいなくロシアはこんどの事件の背後にいますし、さらには、ヴェトナム問題も同時に討議できるような和平会議を開かせようと画策するでしょう。いましがたのニュースによると、ソ連は外交関係を絶ち、イスラエルを制裁すると脅かしているとのこと。最悪の事態がまだもちあがりそうです――もっともイスラエルにしてみれば、攻撃に出なければはまりこんだだろう事態に比べれば、かなりましでしょうが。

L.ケーラー、H.ザーナー編『アーレント=ヤスパース往復書簡1926-1969 3』みすず書房p241-242

 この年の6月10日は、6日間戦争(第三次中東戦争)が終結した日付である。アーレントはその出来事を話題にしているのだが、ここではイスラエルについて好意的に記されている。
 ヤング=ブルーエルによる伝記に、アーレントがこの時期にイスラエルを支援するための寄付を行い、あたかも「戦争花嫁」のように振舞っていた、と書かれているのは有名だが、それはこの手紙から見てもたしかな事実だと裏づけられるだろう。アーレントはこの戦争に際してシオニズム批判をひっこめ、イスラエルの勝利を願ったのだ。
 この三か月後、アーレントはエルサレムを訪れたときの様子をヤスパースにこう書き送っている。

 イスラエルは、多くの点で、いえ、ほとんどの点でと言っていいくらい、じつに好ましい感じでした。国民全体があのような勝利に示した反応が、万歳の絶叫ではなくて、観光熱だというのは――だれもかれも新しい占領地域を一度見に行こうと、すっかり浮かれているのです――なかなか愉快です。私はもとアラブ領地域すべてに行ってみましたが、どこでも、押し寄せるイスラエル観光人客に征服者ぶった態度は見られませんでした。アラブ人住民は予想以上に敵意をもっていて、イェルサレム(旧市街)の市場では、かつては通りかかる客につきまとった物売りたちが、いまではぷいと背を向けます。

同p244

 もはやアーレントから(アイヒマン裁判のときに見られたような)イスラエル批判が聞かれることはない。それどころか、イスラエル国民が「観光熱」に「浮かれて」「占領地域を一度見に行こうと」している様子を、「なかなか愉快です」とまで言ってのけている。
 単にアラブ諸国からの自衛戦争というイスラエルの主張を擁護するだけならばまだ理解できなくもないが、ここまでの変節ぶりを目の当たりにすると、なにか見てはいけないものを見てしまったような気分になるところだ。
 かつてアーレントは修正主義者をはじめとした、パレスチナ全域を支配しようとするシオニストを批判していた。しかし、1967年にいたるとイスラエルによる「もとアラブ領地域」の占領を平然と肯定するようになっている。
 イスラエルへの態度が180度近く変わっているのもさることながら、占領された住民であるアラブ人への無神経な態度にも驚かされる。アーレントはもっとアラブ人の「敵意」が弱いだろうと見越していたところ、「ぷいと背を向け」るほど強かったと書き留めているのだ。
 果たして、これがかつてシオニストの「力こそ正義」という主張を強く批判した人と同一人物によって書かれたものなのだろうか――そんな疑いも兆してくるところだが、次の叙述を読むとさらに虚を突かれる。

イスラエル軍がよく戦ったことは疑えませんが、同時に、敵方が途方もなく劣った軍隊だったことも確かです。そこが決定的・革命的に変わらないかぎり、なにも心配する必要はありません。しかしもちろん変わることはありうるし、それも急速に変わるかもしれません――アラビア語を話すオリエント系ユダヤ人を見るとそう思えます、まさに同じ境遇の出なのに、戦争ではみごとな戦いぶりを見せたのですから。

 ここでは、かつて「モッブ」と蔑視されていた「オリエント系ユダヤ人」が好意的に評価されている。とはいえ、こういった誉め言葉は素直に受けとれないだろう。
 アーレントは「敵方」、つまりエジプトやヨルダンなどのアラブ人と「オリエント系ユダヤ人」を比較し、前者は「劣った軍隊」である一方で、後者は「みごとな戦いぶりを見せた」と称賛している。これは言いかえれば、アラブ側の国々の軍隊教育には「革命」が起こっていない一方で、イスラエルの軍隊教育が素晴らしかったからこそアラブ系ユダヤ人が「みごとな」軍人へと育った、とばかりに間接的にイスラエルを称揚する国家主義的な態度にすぎない。
 「オリエント系ユダヤ人」は敵を見くだすためのダシに使われているだけなのである。まちがってもこの叙述だけをもって、彼女がアラブ人への偏見から脱した、とは評価しえない。「オリエント系ユダヤ人」をイスラエルに益する者としてしかみなしえなかった時点で、アーレントは決定的に(彼女がかつて蔑視していた)ナショナリズムに恍惚とするシオニストへと転向したといえるだろう。

終わりに

  昨今、(3節の末尾でも引用した)『アーレントと黒人問題』が出版されたことによって、アーレント研究者の間で彼女の黒人観が話題になる機会が増えたらしい。それはそれで有益な動向だとは思うが、一方で筆者はこのような疑問も抱いている――ならば、アーレントのアラブ人観は果たして界隈で話題になっているのだろうか?
 エドワード・サイードは1985年に発表した「差異のイデオロギー」で、以下のような疑問を提出している。

 ハンナ・アーレントのことを考えてみよう。パレスチナにおける二民族共存のためにユダ・マグネスやマルティン・ブーバーが重ねてきた努力に、彼女は長年のあいだ密接にかかわってきた。戦前はユダヤ人のパレスチナ移住のために働いたものの、主流派シオニズムに対してはつねに批判的だった。〔……〕だが一九六七年、彼女はユダヤ防衛連盟に寄付金を送り、七三年にもそうした。この情報――アーレントの伝記のなかでエリザベス・ヤング=ブルールが一連の矛盾に何ら気づくことなく伝えている情報――は注目すべきものだ。シオニズムがパレスチナ人に行ったことに対して〔アーレントは〕他の点ではきわめて同情的かつ反省的な人物だったのだから。マグネスの支持者たちやメイル・カハネは、この不一致とどう折り合いをつけたのだろうか?

エドワード・W・サイード「差異のイデオロギー」『収奪のポリティックス』NTT出版p158

 サイードが提起した問題は、こうも言いかえられるだろう。「あれだけシオニズムに批判的だったハンナ・アーレントが、1967年を境になぜ積極的にイスラエルを支援するようになったのか?」と。
 アーレントのもう一人の師にして愛人であるマルティン・ハイデガーに現在つきまとっている問題(「なぜナチに加担し、ユダヤ人を蔑視したのか?」)にかこつければ、「アーレント問題」とでも名づけられるだろうこの課題は、アーレント研究では散発的ながらそれなりに取りあげられてきた。たとえば、日本では早尾貴紀が『ユダヤとイスラエルのあいだで』にて「理論レベルの限界」ゆえにイスラエルを批判できなかったとアーレントを論難しているし(素直に告白すれば本稿は彼の議論に大きく影響を受けている)、最近では二井彬緒がアーレントのシオニズムとのかかわりを綿密に追いかけている。
 だが一方で、「アーレントは、パレスチナ人をはじめとしたアラブ人をどのように見ていたのか?」との疑問は、(筆者の観測範囲が狭いのを承知で言えば)あまり取り上げられてこなかったのではないだろうか? アーレントが顰蹙ものの差別意識でもって黒人を論じていたのはベルの論争的な著書が出版される以前から知られていたが、一方でアラブ人をどう見ていたか、という問題については護教的なアーレント学者はもちろんのこと、それ以外の人々にとっても死角になっているように思われてならない(アーレント自体が真剣に研究する対象として見られていない可能性もなくはないが)。
 こういった等閑視がまかり通っているのはなぜなのか――最初に考えられる答えは、シオニズムを批判していることで有名なアーレントが、パレスチナ人を蔑視していたはずがない、との先入見が人々のあいだに植えつけられているのではないか、というものだ。片方を批判しているのならば、もう一方は批判しないはずだ、というわけである。
 しかしながら、これはよくよく考えてみるとすぐに解けるはずの臆見にほかならない。シオニズムに批判的であることと、パレスチナ人に差別意識を向けることはそれぞれ排他的な態度ではなく、むしろ両立しうるからだ。アーレントがユダヤ人が破滅に向かうことを食い止めつつも、一方でアラブ人を遅れた民族とみなしていたことは、3節で見てきた「和平か休戦か」でも克明に表れていた。
 もちろん、人間は(アーレントに倣って言えば)「思考欠如」に見舞われやすい生き物なのだから、一度植えつけられた偏見を覆すのはなかなか難しい。アーレントがシオニズムを批判していたという漠然な知識にもとづいて、ならば彼女はきっとパレスチナ人に同情的だったろう、と自動的に推測するのは仕方のない話なのかもしれない。
 しかしながら、昨今アーレントを援用しながらイスラエルのガザ侵攻やレバノン侵攻を批判する声がちらほらと聞こえてくることについては、筆者は危惧の念を禁じえない。たしかに、有名な思想家の権威によりかかることで少しでも批判に正当性をもたせようという気持ちはわからなくはない(筆者もそうした戦術はしばしば用いている)。ただ、その思想家が実はパレスチナに批判的で、イスラエルに好意的だったとしたらどうだろうか?
 たしかに、「シオニズム再考」あたりまでのアーレントならば、今日のイスラエルを批判していた可能性は十分にある。しかし、「和平か休戦か」あたりのアーレントならどうだろうか。ましてや、1967年以降のアーレントだったら……本稿で見てきたアーレントの態度の変遷を踏まえるのであれば、かならずしも彼女は今日イスラエル批判をしただろうとは言いきれないのではないか。アーレントはアイヒマンについて、クリシェの繰りかえしに安住する人物として描写していたが、ならば我々も今日まかりとおっているクリシェの繰りかえし(「アーレントなら現在のイスラエルを批判しただろう」「アーレントならパレスチナを支持したはずだ」etc.)を見直すべきなのではないか。
 そして、問題はただ単にアーレントがイスラエルを支持したとか、アラブ人を蔑視していた、といったレベルにとどまらない。彼女の思想そのものが多くの問題をはらんでいる以上、それもまた全面的に見直すべきなのではないか。
 あけすけに言ってしまえば、こういうことだ――パレスチナやユダヤ人を強引にヨーロッパに属するものとみなすほどに西洋中心主義者で、独善的な価値観でもって先住民の権利を易々と無いものと見なすような人間の思想を借りることによって、今日ヨーロッパ仕込みのセトラー・コロニアニズムでもってパレスチナ人を迫害し、(アメリカも含む)ヨーロッパから援助された武器でもって人々を殺戮としているイスラエルを本当に批判できるのか?
 
イラン出身のアメリカ人比較文学者ハミッド・ダバシは、「ガザのおかげで、ヨーロッパ哲学の倫理的破綻がさらけ出された」との挑発的なタイトルをもつ論考をミドル・イースト・アイに寄せ、今般のガザ侵攻をまともに批判できないヨーロッパの知的権威たち、特にドイツの御用学者ユルゲン・ハーバーマスを糾弾している。

 ハーバーマスは、パレスチナ人の虐殺を支持することが、彼の祖先がナミビアで行ったヘレロ族やナマクア族の大量虐殺と完全に一致していることを知らないようだ。ダチョウのことわざ〔おろかなダチョウは頭を砂のなかに隠しただけで、周囲から隠れたと思い込んでいる=頭隠して尻隠さず〕のように、ドイツの哲学者たちはヨーロッパの妄想の中に頭を突っこめば、世界は自分たちの本音を見破れないと決めつけている。

 私が見るに、結局のところハーバーマスは驚くべき、ないし矛盾した言動をとっているわけではない。ハーバーマスは、彼の哲学的血統が持つ不治の部族主義と完全に一致している(彼はそれがあたかも普遍的姿勢だと勘違いしていたようだが)。

https://www.middleeasteye.net/opinion/war-gaza-european-philosophy-ethically-bankrupt-exposed

 さすがにアーレントはハーバーマスほど恥知らずではないが、「ヨーロッパの妄想のなかに頭を突っこ」んでいる点では五十歩百歩だろうし、「不治の部族主義」に捉われている点でも変わらない。このような人間の唱える思想が、果たして信頼に足りるものなのだろうか? そう問うべきときが訪れている。

脚注

(注1)国民にしか人権を与えず、非国民には人権を与えない、という姿勢が最も表現されているのは、我々もよく知る日本国憲法第14条第一項である。

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 ここでいう「国民」とは、憲法第10条(日本国民たる要件は、法律でこれを定める」)、そして国籍法が定めるように日本国籍を持つものに限られる。実は、この条項はGHQ草案の第13条では以下のようになっていた。

すべて自然人は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.

 GHQ草案が「自然人」と書くことで日本国民ならずあらゆる人民を「法の下の平等」に置くのを狙ったのに対し、日本国憲法ではこれを「国民」と書き換えたことによって外国人は人権を授かる対象ではなくなってしまった(ちなみに、GHQ草案第16条には、「外国人は平等に法の保護を受ける権利を有する(Aliens shall be entitled to the equal protection of law.)」という文言もあったが、古関彰一の『日本国憲法の誕生』によると、当時の法制局第一部長佐藤達夫がGHQを相手に手練手管を駆使した結果これもいつのまにか削除されたという)。
 このような書き換えは、当時日本にいた在日朝鮮人の扱いとの兼ね合いで起こった可能性が高い。1947年に日本は外国人登録令を公布し、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とした。この結果在日朝鮮人は、「朝鮮」籍をもつことになる。一見すると朝鮮の国籍のようにみえるが、実はこれは単に朝鮮出身という意味合いしか有していない。直截に言えば在日朝鮮人は事実上の無国籍に処せられたのだ。
 その後、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されるにともなって外国人登録令は廃止されたが、ここで「朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて日本の国籍を喪失する」との通達によって、正式に在日朝鮮人は国籍を喪失した。その結果、在日朝鮮人は国籍を持たない外国人として日本で生活していくこととなる。
 たしかに、現在はたとえ憲法に「国民」としか書いておらずとも、人権は外国人にも適用されるとの解釈が一般的である。1964年には「本条(憲法第14条)の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推適用される」との判例もある。
 もっとも、今日もなお日本においてくすぶっているマイナー民族の問題(在日朝鮮人、クルド人、異様なまでに低い難民の認定率、入管問題……)を踏まえれば、その程度の姑息な手段が根本的な解決にならないことは言うまでもないだろう(そもそも、日本国民自体が今日人権をもつ対象として扱われているか、という問題もあるにせよ)。

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