アーレントとアラブ人問題
この記事の要約
ハンナ・アーレントはシオニズムの批判者としてよく知られているせいか、今般のガザ侵攻にあたってイスラエルの暴挙を論難するために彼女の思想が援用されることがすくなくない。
たしかに、アーレントは1945年に「シオニズム再考」を発表したことで周囲のシオニスト(たとえばゲルショム・ショーレム)から批判された。また、彼女はジューダ・マグネスから影響を受けて、ユダヤ人とアラブ人が共存することで国家を運営するバイナショナリズムを唱えもしたが、現実にはアラブ人を排除することでイスラエル国家は創設された。政治的に敗北したともいえるアーレントは、以降アイヒマン裁判まで公の場でイスラエルについて(数少ない箇所を除いて)論じなくなっていく。
これらの経緯を見れば、アーレントはイスラエルを一貫して批判し、アラブ(パレスチナ)人には同情的だったように思われる。しかし、1948年に書かれた「近東における和平か休戦か」では、アラブ人もまた批判の対象となっている。それどころか、諸々の私信などでは、アーレントはアラブ人をはじめとしたオリエント人を明確に蔑視していた。そして、最終的に彼女はイスラエルを全面的に支持するようになっていく。
こうした差別的態度は、諸々の思想とは関係のないものなのだろうか? それとも、思想内容から来る必然的なものだったのだろうか? 本稿は後者の可能性もあると示唆しつつ、アーレントの思想の見直しを提案する。
1.「分割も削減もなくパレスチナ全域を包含するユダヤ・コモンウェルス」
1-1シオニストから見たフランクリン・ルーズベルト
1944年11月、第二次大戦がピークにあった中で行われた第40回アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の候補フランクリン・ルーズベルトは、共和党の候補トマス・E・デューイを相手に勝利し、4選を果たした。この5カ月後に死去するという史実が示すとおり、ルーズベルトは健康問題を抱えていたが、それ以上に彼は国民に圧倒的な支持を得ていた。日本を相手に優位に進行していた戦争の状況もルーズベルトを後押しした。
この選挙期間中、アメリカのシオニストたちはどちらの陣営につくべきか右往左往しながら過ごしていた。ルーズベルトを支援するべきか、それともデューイを支援するべきかと彼らは迷っていたのだ。客観的に見れば、ルーズベルトについたほうが勝ち馬に乗りやすいように思える。なにより、アメリカのユダヤ人は20世紀になってからはほとんど民主党を支持していたのだから、いまさら共和党への鞍替えを考えるのは一見するとおかしな話だ。
しかしながら、シオニストにとってルーズベルトは信用のおけない大統領だった。ルーズベルトは過去の大統領選挙においてユダヤ人の8割から9割の票を得ていたものの、一方でシオニズムに対しては冷淡だった。たとえば彼は、39年に発表されたマクドナルド白書への介入をシオニストから求められても断っている。
当時のイギリス植民地相マルコム・マクドナルドは、36年から続いていたアラブの大反乱を受けて、これ以上の混乱を避けるためにユダヤ人国家の設立を禁止するとともに、ユダヤ人のパレスチナ移民を制限する方針を打ち上げた。シオニストからすれば建国の夢が絶たれるばかりか、人材の供給を妨げられるのは理念の継続にあたって死活問題だったため、これはなんとしても阻止すべき案件だった。だからこそ、彼らはルーズベルトにすがりついたのだが、にべもなくあしらわれたのだ。
また、世界シオニスト機構代表のハイム・ヴァイツマンも、42年7月に大統領と会見した際に苦杯を舐めている。彼はルーズベルトに向けて、ドイツの侵略から守るためにパレスチナにユダヤ人軍の動員を要請した。だがルーズベルトは、当時ヴァイツマンが研究していた合成ゴムについて話すばかりだった。
1-2二大政党から支持を取りつけたシオニスト
このように、シオニストにとってルーズベルトは、少なくともパレスチナに新国家を建設することに関しては頼りにならない人物だった。そんな時に彼らは、次回大統領選に共和党から立候補するニューヨーク州知事のトマス・E・デューイがユダヤ人票の獲得を目論んで、ユダヤ人国家建設を後押しするのではないか、との噂をキャッチする。
とはいえ、アメリカユダヤ人会議の名誉顧問スティーヴン・ワイズにとって、共和党に鞍替えするなんて話は一顧だに値しなかった。ワイズはルーズベルトと個人的な友人関係を結んでいたため、彼を裏切ることは到底考えられなかったのだ。ワイズはルーズベルトの政策顧問だったナイルズに向けて、デューイがシオニズムに同情的な発言をするかもしれないと不安を吐露しているものの、だからといって共和党に投票するかもしれない、なんて話は間違ってもしなかった。
一方で、ユダヤ人国家建設のためならどんな策を採ることも厭わない修正主義者は、共和党との交渉も遠慮なく行っていた。当時アメリカ新シオニスト機関――露骨に言えば、修正主義シオニズムのアメリカ支局――の事務局長を務めていたベンシオン・ネタニヤフは、積極的にロビー活動を行い、共和党員にシオニズムの理念をレクチャーしようと試みた。現在のイスラエル首相ベンヤミンの父であるネタニヤフの目的は、共和党の綱領にパレスチナのユダヤ人国家樹立を支持する条項を盛り込むことだった。
こうしたロビー活動はネタニヤフだけでなくそのほかのシオニスト――その中にはアメリカシオニスト機構の代表者アバ・ヒレル・シルバーもいた――も行ったのだが、その結果彼らの努力は実を結んだ。共和党は44年6月に行われた全国大会で、パレスチナへのユダヤ人移民を無制限にすることを掲げただけでなく、パレスチナを「自由かつ民主的なコモンウェルス」にすべきだ、との選挙綱領を発表したのだ。
こうした動きにワイズは当惑した。共和党がシオニズムを支持するようなことがあれば、アメリカのユダヤ人は民主党を支持しなくなるかもしれない。そんなことがあれば、ワイズとルーズベルトとの間に育まれてきた友情は台無しになってしまう。そこでワイズは、当初参加する予定がなかった民主党の全国大会に急遽足を運ぶことにした。そして、このままではルーズベルトはユダヤ人票を失うことになりかねない、と警告し、民主党の選挙綱領にシオニズムへの支持条項を盛り込むよう要請した。
ワイズは共和党に勝る条項として、「自由かつ民主的なユダヤ・コモンウェルスの樹立」という文言を盛り込むよう提案した。こうした彼の努力は実り、民主党は選挙綱領に、「我々は、パレスチナを無制限のユダヤ人の移民と植民地化に開放し、そこに自由で民主的なユダヤ人コモンウェルスを樹立する政策を支持する」との文言を書きこんだ。
1-3「アラブ人には自発的な移住かもしくは二級市民権のいずれかの選択しか残されていない」
紆余曲折があったとはいえ、トータルで見ればシオニストにとって一連のロビー活動は大成功をおさめたと言えるだろう。なにしろ、アメリカの二大政党の選挙綱領に、ユダヤ人のパレスチナ移民を奨励する文言を入れこんだばかりか、ユダヤ人国家の樹立を支持する、との言質まで取ったのだから。
その余勢を駆って、同年10月に行われたアメリカシオニスト機構の年次大会では、彼らはより大胆な方針を表明する。
「分割も削減もなくパレスチナ全域を包含する」「ユダヤ・コモンウェルス」を樹立するのを目的とするというのは、言いかえればアラブ人との共存を放棄し、ユダヤ人のみの国家を打ち立てるということだ。
この二年前に発表されたビルトモア綱領では、「ユダヤ民族のアラブ人隣人との完全な協力への用意と意欲」が表明されており、そこでは一応アラブ人との共存は視野に入っていた。しかし、わずか二年でそうした方針は完全に覆った。この時になってシオニストは、アラブ人をパレスチナから追放すると大っぴらにするようになったのだ。
こうしたシオニストの動きを受けて、ハンナ・アーレントは次のように論評している。
2.なぜハンナ・アーレントはヨーロッパにこだわったのか?
2-1シオニズムは反ユダヤ主義に抵抗しない
「シオニズム再考」は今からちょうど80年前に書かれたが、邦訳版でも50ページに満たない分量にもかかわらず、シオニズムの問題点をあますところなく指摘している論考である。なんなら、部分的な修正を加えれば80年後の今日においても通用する、一級のシオニズム批判だと言っていい。
『コメンタリー』誌で発表される予定だったものの、そのシオニズム批判が読者からの反発を招くと危ぶんだ結果掲載を拒否された「シオニズム再考」にてアーレントは、テオドール・ヘルツルを始めとしたシオニストがいかに問題含みな形で反ユダヤ主義と「取引」しようとしたかを批判している。
ユダヤ人国家の提唱者であるヘルツルは、周知のとおりドレフュス事件に衝撃を受けて反ユダヤ主義がまかりとおるヨーロッパにユダヤ人の生きる場所はないと悟った。しかしながら、彼は反ユダヤ主義と対峙するのではなく、むしろそれと取引したうえでユダヤ人国家の設立をスムーズに進めようと目論んだ。彼は反ユダヤ主義をなくそうとしたのではなく、むしろ温存したうえで反ユダヤ主義者と交渉し、ユダヤ人を他所の土地に移送することのメリットを説きながら国家建設に必要な人材を集めようと企てていたのだ。
ヘルツルの暗躍ぶりは以前書いたことがあるので詳細は上の記事に譲るが、こうした彼の「現実主義的」な戦略は、その後イスラエルが建設されて以降も後継のシオニストによって繰りかえされていく。
彼らは――たとえば、ベンヤミン・ネタニヤフがドナルド・トランプやオルバーン・ヴィクトルなどといった排外主義者と公然と手を組んでいるように――反ユダヤ主義者と結託する一方で、シオニズムに批判を向ける人々を「反ユダヤ主義者」と罵倒する二枚舌を駆使しながら、イスラエルの正当性をアピールしつづけてきた。また、イスラエルを取り囲む中東諸国がいかに危険かと訴えながら、その敵意をうまく利用しつつアメリカやドイツなどの援助を取りつけ、国力を強化しつづけてきた。
こうしたイスラエルの歴史をふまえてみると、シオニストの常套手段に早くから気づいていたアーレントの慧眼には敬服せざるをえない。
2-2混ざりあうことのない「人種」
また、アーレントはこういった偏狭なナショナリズムに傾斜していくシオニズムが、実のところ彼らが最大の敵とみなすべきはずの国家の焼き直しであるにすぎないとも見抜いていた。
本来ならユダヤ人とは、あくまでもユダヤ教を奉じる人々のことを指す。つまり、アーリア人とかスラブ人とかいった民族ではなく、ムスリムやクリスチャンなどといった宗派のもとにカテゴライズされるべき人々なのだ。
にもかかわらず、シオニストはそういった宗教的要素にはほとんど興味を示さず、むしろ当時のヨーロッパで流行していた概念に魅せられながら、ユダヤ人を「生物学的」な「人種」とみなすようになっていく。
アーリア人はアーリア人の、ユダヤ人はユダヤ人の国家をそれぞれに築きながら、お互いはまじりあうことなく暮らすべきだ――そうしたナチス仕込みのアイディアでもって国家運営を行おうとするのならば、反ユダヤ主義と対峙することなんて到底できるはずもないし、ましてやほかの民族と共存することなんて夢のまた夢というほかない。シオニストがみずからを「生物学的」な「民族」とみなしてしまったことは、特に彼らがパレスチナで向き合わなければいけないはずのアラブ人との交流を困難にした。ここでもまたアーレントは、シオニストが将来建設することになる国家の行く末を正しく見据えている。
2-3パレスチナとユダヤ人はヨーロッパに属するか?
このように優れた分析力によって成り立っている「シオニズム再考」ではあるが、だからといってすべての文章に賛同できる論考とは限らない。特に、以下のくだりは(引用が長くなってしまうが)ほとんどの読者をつまずかせるのではないだろうか。
「シオニストは」「ユダヤ人の歴史をアジア民族の歴史として解釈」しようとするがゆえに、「ヨーロッパ諸民族にとって不可欠な」「連帯を断ち切」ってしまったばかりか、「ユダヤ民族の正当な持ち分」であるはずの「西洋文化」をみすみす手放してしまった――ごくごく簡単に言いかえればアーレントはここでシオニストに抗しながら、「ユダヤ民族」はヨーロッパ人であるし、パレスチナはヨーロッパである、と主張している。そして、みずからを「アジア民族」とみなし、パレスチナをアジアに属する地域だとするシオニストを批判しているのだ。
しかしながら、こうした主張は違和感を覚えさせる。たしかに、パレスチナの地において生まれたユダヤ教とキリスト教という二つの宗教は、ヨーロッパの文化を語るにあたって欠かしてはならない要素だ。それを踏まえればパレスチナはヨーロッパの中の一つであり、そこで生まれ、やがてヨーロッパの地へと流謫していったユダヤ人はヨーロッパ人だとする主張はそれなりに理解できるものである。
とはいえ、だからといって完全にパレスチナやユダヤ人をアジアから切り離そうとするアーレントの解釈は、(筆者がアジア人であるからかもしれないが)シオニスト同様にあまりに強引すぎるように思えてならない。パレスチナは様々な国々によって支配されてきた土地だ。バビロニア、エジプト、オスマン帝国などなど、パレスチナに侵略してきた国が別の国によって侵略しかえされを繰りかえしながら支配者は交代しつづけていったのだが、その中にはいうまでもなくアジアに属する国も含まれている。
アーレントはそうした交代劇を「政治的にはいかなるときもとまではいえないが」という留保をつけて表現しようとしているのだろうが、ふつうはパレスチナは「地理的」にも「歴史的」にもアジアに属すると解釈する人の方が多いだろう。ましてや、ムスリムが長く棲みついてきた土地であることを踏まえるのであれば(イスラーム教をアジアの宗教とすぐさま断じてしまっていいものかという懸念はあるにせよ)、「文化的」にもアジアに含める方が自然のはずだ。
もちろん、先ほども述べたようにパレスチナからはヨーロッパを形成することとなる文化が輩出されているので、完全にアジアの地であると断ずるのは難しい。さりとて、パレスチナをアジアから引きはがし、完全にヨーロッパに属するものである、との主張を承認するのはそれ以上に難しいと言わざるを得ないだろう。
これはユダヤ人においても同様である。ユダヤ人が居住してきた地はヨーロッパに限らない。北アフリカやエチオピア、インド、中国などの様々な地に彼らは移住していったし、あるいはそのまま中東の地に残った者もいる。彼らの中には現地のマジョリティから迫害された者もいるが、一方で現地の人々と共存しながら暮らした者も少なくない。それを踏まえれば、ユダヤ人を完全なるヨーロッパ人だとする解釈の方が「誤った考え方」であるように思えてならない。
2-4どうでもいい議論になぜアーレントはこだわるのか?
第一、なぜアーレントがシオニズム批判の一環としてパレスチナはヨーロッパであり、ユダヤ人はヨーロッパ人であると主張することにこだわるのか、理解に苦しむ。なるほど、先ほどの長い引用の手前で、彼女はこのように述べている。
みずからを「比類ない」民族だと考えたがために、ヨーロッパとの連携を無用のものとみなし、そこから孤立しようと企てるシオニストをアーレントは批判している。また、先ほどの長い引用の直後に彼女はこうも述べている。
シオニストはみずからをヨーロッパ人ではないと見なす一方で、だからといってアジア人と連携するつもりも一切ない。「ヨーロッパ的背景から引き抜かれ」ているばかりか、アジア的背景にも根づこうとせず、徹底的に一人でいようと目論むシオニストを批判しようとするアーレントの意図は、十分すぎるほど理解できるものだ。
しかしながら、このような明確な意図のもとに書かれた二つの文章の間に、例のパレスチナとユダヤ人をヨーロッパの側に割り振り、アジアから切り離そうとする文章が挟まると、途端に読者は当惑せざるを得なくなる。
はっきりと言えばここでわざわざ、パレスチナとユダヤ人はヨーロッパに属するものであり、アジアに属するものではありえない、と主張する必要はまったくない。単にシオニストがヨーロッパからもアジアからも孤立していこうとする有様を批判すればいいだけの話であって、パレスチナとユダヤ人がヨーロッパのものであるか、それともアジアのものであるか、なんて議論にかかずらう必要はまったくないはずなのだ。
そもそも、仮にユダヤ人がヨーロッパに属さない人々であろうと、それでもヨーロッパ人と連携できる可能性はあるだろう。まさか、アーレントはそうではなく、ヨーロッパ人でなければヨーロッパ人と連携することはできない、とでも考えているのだろうか? そんなはずはない。ジューダ・マグネスに倣って、ヨーロッパ(ユダヤ)人とアジア(アラブ)人が共存して成り立つ連邦を唱えたことで有名なハンナ・アーレントともあろう人が、そんな「ばかげた」考えにとらわれるはずがない……だったら、なぜ彼女はここでこんなどうでもいい議論に紙幅を割いているのだろうか?
補節1.『全体主義の起原』から見た「シオニズム再考」
アーレントがここまで意固地になってパレスチナとユダヤ人はヨーロッパのものだと強弁するのは、彼女が『全体主義の起原』において、国民国家は土地に根づいた民族がなければ成立しない、と分析していたことと関係がある、と考えてみてはどうだろうか。
アーレントの名前を世に知らしめた大著の第二部において、彼女は国民国家は「民族的帰属と国家機構とが、相互に融合し国民的思考において一体化されることによって」「成立」すると述べている。「国家機構」はともかくとして、「民族的帰属」はどのようにして育まれるのだろうか。
このようにアーレントは民族的帰属は、ある土地にある人々が定住し、そこを耕作することで人間の住める場所に作り替えてこそ萌芽するものであり、やがて子孫へとその土地が受け継がれていくことによって育まれるものであると考えている。ありていに言えば、民族的帰属は先祖から子孫へと脈々とつづく農業によってこそ成り立つ。
彼女はこうした土地に根づいた「真の土着農民階級が」いなかったからこそ、「南欧および東欧の諸民族が国民国家の設立に一度として成功しなかった」と述べ、一方で西欧には「土地を持つ自由な農民」がいたからこそ国民国家は成立したと分析している。
仮に以上の分析が正しいとすれば、東欧や西欧のユダヤ人がそれまで縁もゆかりもなかったパレスチナに移住したうえで、そこでユダヤ民族による国民国家を作ろうとするのはきわめて危険な試みと言わざるを得ないだろう。「なぜなら彼らの住む所には歴史が誰の目にも明らかな足跡を残して」いないのだから、移住してきたユダヤ人がパレスチナに民族的帰属を感じるのはすこぶる難しい。ましてや、それ以前に別の民族が残した「足跡」がある土地で、安定した国家を作ろうだなんて至難の業だろう。
おそらく、アーレントはこの難問を解決するために、パレスチナは「地理的、歴史的、文化的にはつねに」「ヨーロッパ大陸に属してきた」と主張したのではないだろうか。もともとパレスチナはヨーロッパの土地だと見なせば、ヨーロッパ人からユダヤ人が移住しても何ら問題なくそこで国民国家を作れるだろう、と彼女は考えていたのかもしれない。
……もっとも、このようなアクロバティックな弥縫策を受けいれたとしても、なおも問題は残る。というのも、先程引用した文章の後ではすぐさま国民国家の堕落の可能性が暗示されているからだ。
革命期のフランスで制定された人権宣言は、当初すべての人民に「普遍的」な権利を与えることを目的としていた。しかしながら、そうした「普遍的」な宣言は、やがて「特殊的国民的権利」へと成り下がり、それにともなって権利を与えられるべき対象も国民だけになっていく。これは裏を返せば、「民族的帰属」をもたない非国民には人権は与えられないということだ(注1)。
こうした「国民と国家の間の隠れた矛盾」は、アーレント曰く第一次大戦以降もっとも先鋭化された形で露わになっていく。第一次大戦が民族問題を契機に拡大してしまったことを踏まえて、国際連盟は民族自決原則を始めとした少数民族保護制度の拡充を図っていく。しかしながら、アーレントからすればこの時期に成立したもろもろの少数民族条約はおおむね、「国民国家の原理」を「全ヨーロッパで」「実現」することを目指していたがために、かえって「国民国家の信用をさらに落とすという結果をもらたしたにすぎなかった」。
では、第一次大戦以降の少数民族保護体制とはどんなものだったのか? それは、マジョリティを「国家民族(StaatVolk)」と見なしたうえで、彼らが他のマイノリティを保護する体制だった。そんなものは早晩崩壊するのが明白だった。
西ヨーロッパで成功した「国民国家の原理」を東欧に移植したところで、拒絶反応が起きるのは必定だった。たとえばポーランドやオーストリアなどには、国民国家を成り立たせるための必須条件である「民族的帰属」をもった民族がまだ育っていなかったからだ。結局、そうした「国家民族」は国家機構と有機的に結びつくことなく、国民国家をまともにスタートさせられないまま「ネイションによる国家の征服」という、フランスがかつてたどった道筋を追いかけることとなってしまう。
こうした特定の国民のみに人権を与え、一方で非国民にはその権利を与えない体制を築いた結果起きたのが、(それこそアーレントのようなユダヤ人に代表される)少数民族の迫害、そして(それこそアーレントが一時期そうだったような)無国籍者の出現である。
西ヨーロッパでのみ成功したモデルを他の地域にも無批判に適用したことによって起こった悲劇は、パレスチナの地で繰りかえされることとなる。
『全体主義の起原』が発表されたのは1951年であるが、エリザベス・ヤング=ブルーエルによる伝記によればアーレントは1945年から原稿を書きはじめたとのことなので、「シオニズム再考」から後の大著の執筆までの間隔はほぼないに等しい。たった一年かそこらで彼女の思想に大きな変化が生まれることはまずあり得ないだろう。
したがって、上で見てきたように国民国家の問題点を的確に見据えていた彼女が、それでもなおパレスチナをヨーロッパとみなせばヨーロッパのユダヤ人は国民国家を滞りなく作れるだろう、などと妄想した可能性は、おおよそ考えられない。
よって、この節の最初に書いた思いつきは破棄するほかないのだが、一方でこうした思いつきから出発した考察は、アーレントの態度の奇怪さをよりいっそう高めてくれるという副作用ももたらしたのではないだろうか。我々は以下のように問いたくなる気持ちを避けられなくなるだろう。
ヨーロッパの問題点を誰よりも剔抉しえたアーレントが、ではなぜ、パレスチナとユダヤ人をヨーロッパから引き離さないようあがいていたのだろうか?
3.アーレントのアラブ人観
3-1.DD論に陥るアーレント
「シオニズム再考」においてアーレントは、パレスチナをユダヤ民族だけの土地にし、アラブ人を追い出したところで、周囲をアラブ人からなる国家に囲まれていれば危険は避けられないと述べた。
が、そうした警告も空しく、シオニストはアラブ諸国との戦争に打って出て、遠慮なくパレスチナからアラブ人を追放した。そして、念願のユダヤ人国家を設立することとなる。
第一次中東戦争が続くさなか、アーレントは「ジューダ・L・マグネスの示唆にもとづいて」、「近東における和平か休戦か」を書きはじめる。この論考はその後1950年に発表されることとなるが、冒頭でアーレントは「アラブ-ユダヤ関係にかんするかぎり、戦争とイスラエルの勝利は何も変えなかったし、何も解決しなかった」とみなしている。依然としてシオニストに対して批判的な目を向けていることがうかがえるが、一方で、「和平か休戦か」においては、(「シオニズム再考」においてはほとんど言及されていなかった)アラブ人にも批判が及ぶようになる。
要するに、ユダヤ人とアラブ人は敵とみなすべき相手を、そして最終的には協力へといたるべき相手を間違えていたというわけだ。お互いの民族をイギリスによって操られている者とみなし、交渉の余地などないと軽視したがために、ろくに理解する契機をもたないまま戦争へと突き進んでしまったのがパレスチナの実情である、とアーレントは分析している。
そのうえで彼女は、この戦争を単なる「休戦」で終わらせてはならないと訴える。仮に休戦によって戦闘が止まったとしても、お互いの陣営が和解しなければ次なる戦闘へと備え続けなければいけない。イスラエルの場合は、「軍備や動員にあまりに出費がかさむと、幼いユダヤ経済の息の根をとめ」ることになるだろう、と「和平か休戦か」では警告されている。同時にアーレントはアラブ側にも「和平」を求めるのだが、そこでの口調はどことなく軽蔑を感じさせる。
もちろん、イスラエルと同時にアラブ人が批判されている文脈においては、こうした「和平も戦争もない状態をもちこたえるのは、他でもなく経済生活の沈滞と社会生活の後進性ゆえに、アラブ人のほうがたやすいだろう」といった嘲笑的な文言は、それなりに公平な立場から繰りだされている皮肉として受け止められるかもしれない。
しかしながら、「和平か休戦か」を読み進めていくうちに、小さかった違和感は徐々にふくらんでいく。
つづいてアーレントは「今日イスラエル政府は、既成事実をのべたて、力こそ正義、軍事的必要性、征服が法をもたらすと述べている」と批判している。「パレスティナのユダヤ人は一枚のカードに賭けた」、つまりアラブ人との戦争に何が何でも勝って土地を確保するという賭けに乗り出し、「そして勝った」わけではあるが、しかし、だからといってハッピーエンドにいたるわけではない。アラブ人からなる国家はいまだにイスラエルを囲んでいるのだから、一度戦争を起こし彼らに敵意を向けてしまえば、次なる戦争が起きる可能性は高い……しかし、シオニストはそうした「現在の現実」から不思議と目を背けている。
ベン=グリオンを始めとしたシオニストは「きわめて遠くはなれた過去」に目を向け、自分たちの理念のよって立つところを確認しているばかりで、これからも敵となるであろうアラブ人たちから目を背けているのだ。
このようにイスラエル批判にあたっては鋭利な判断力を発揮しているアーレントではあるのだが、一方でアラブ批判の段になると、それが奇妙にも影をひそめてしまっていると言わざるをえない。
先ほど、筆者はアーレントが「今日イスラエル政府は、既成事実をのべたて、力こそ正義、軍事的必要性、征服が法をもたらすと述べている」と批判していたのを確認した。言わばここで彼女は、軍事力によって強引にイスラエル-アラブの関係性をユダヤ優位なものとし、以降「この結果を最終的なものと見なそう」とする「決意」を難じているのである。
ならば、「それをただの幕間劇とみなそうというアラブ人の決意が対抗する」のは、彼女にとって望ましい話ではないのだろうか? 「力こそ正義」という論理を否定し、仮に戦争で負けたとしても「結果を最終的なものと見な」さずに不正義を問うていく姿勢は、多分アーレントも支持するはずだろう……だとすると、なぜここでアラブ人は批判の対象になっているのだろうか?
まさかアーレントは、アラブは戦争で負けたのだからその「出来事」を吞みこんだうえでパレスチナの所有権を放棄し、敗者は敗者らしく振舞え、とでも言っているのだろうか? 軍事力に劣る民族は土地を奪われても仕方ないのだから、それまでの強硬な態度を改めるべきだ、とでも主張しているのだろうか? そんなはずはないだろう……ではもう一度繰り返すが、だとすると、なぜここでアラブ人は批判の対象になっているのだろうか?
ひょっとして、彼女はアラブ人にも悪いところはあるので、シオニストだけを一方的に批判するわけにはできないといった論旨ありきで議論を組み立てようとしているのではないか――そんな懸念は、次の文章にたどりつくと確信に変わる。
アーレントともあろう人がなぜここで「どっちもどっち論」を振りかざすのか理解できないが、普通に考えてこの「議論」には「難点」などないし、「答え」も出せる。アラブ側の主張のほうが正しい。なぜならアラブ人は「ヨーロッパ・ユダヤ人の破局」にほとんど責任を負うていないからだ。
もちろん、シオニストがパレスチナに移住してきてからは、少なからぬユダヤ人がアラブ人との間の抗争で命を落としているのも事実である。ハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニーのように、アドルフ・ヒトラーと公然と会見してナチスと結託したパレスチナの指導者もいる。
だが、それはあくまでも(アーレントも蛇蝎のごとく忌み嫌っている)修正主義者を始めとした、先住民を追い出そうとしてでもユダヤ人国家を樹立すると息巻いた連中がアラブ側の憎悪を煽った結果起こった事象でもある。パレスチナでユダヤ人が受けた被害を、「ヨーロッパ・ユダヤ人」の、ドイツ人やポーランド人などに敵意を向けていなかったにもかかわらず殺されていったような被害と同列に扱うことはできない。基本的には「ヨーロッパ・ユダヤ人の破局」は、ヨーロッパ人こそが責任を負うべきであって、アラブ人が負うべくもない。
だから彼らが、「一方の迫害を救う目的で他方の人びとの迫害を正当化することはできない」と述べるのは正当である。たぶん、アラブ人でなくてもきっとそう言うだろう。その証拠に、今日イスラエルを批判し、パレスチナに連帯しようとする世界の人々は一様にこの主張を掲げている。アーレントと同じユダヤ人であるジュディス・バトラーもまたこう述べている。
こうした世界的にも認められている主張を「民族主義的」だとか「律法主義的」だというのは、きっとアーレントもそこに含まれるのだろうが、狂信的なシオニストくらいだろう。
3-2イスラエル建国の正統性はどこにあるのか?
それにしても、アーレントはなぜシオニストを批判しつつも、それでもなおイスラエルが樹立される正統性はあると考えるのだろうか? 彼女は片面でシオニストが「力こそ正義、軍事的必要性、征服が法をもたらすと述べている」ことを批判している。だが、もう片面でアラブの「その地の所有権という変わりばえのしない主張と、イスラエル国承認拒否を相も変わらず頑固にくりかえす外交政策」をも批判している。ということはアーレントは、シオニストの強引な手法自体は正当ではないと感じつつも、それでも「イスラエル国承認拒否」は不当だと見なしているわけだ。では、彼女はイスラエルが樹立される正統性をどこに求めているのだろうか?
それは、同じく「和平か休戦か」を読み進めていくと明らかになる。
こう述べたうえで、アーレントは「パレスティナでユダヤ人がなしとげたもの」を列挙していく。
「征服」的で、「現地人を絶滅しようという企て」をもった戦闘的なシオニストと、入植の過程で独自の事業を打ち立てた開明的なユダヤ人は別である、と彼女は考えている。
そして、こうした「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」ユダヤ人の達成が、ほかならぬシオニストによって無視されてしまったことこそイスラエル建国の罪である、とアーレントは訴える。
どうやらアーレントは、イスラエルが建国されるべき理由は、決してシオニストがアラブに対して武力で勝利したからではなく、「砂漠を繁栄した土地に変えること」ができたからこそだ、と考えているらしい。つまり、「土地の買収と国有化、集団入植の確立、農民や労働者の協同組合向けの長期貸し付け、社会・健康サービス、自由で平等な教育」などの、他の国々ではなかなか見られなかった実験を通して経済を格段に発展させ、これまで近代的な文明が築かれなかった中東の「砂漠」に画期的な成果を残したことこそが、ユダヤ人が「国民の家郷|《ナショナル・ホーム》」をパレスチナに打ち立てるにあたって、何よりの正統性になると考えているようなのである。
それはこの後、ろくろく出典を付すこともないまま、(エドワード・サイードに倣って言えば「オリエンタリズム」のこの上ない発露にまみれた調子で)アラブ人が依然として文化的に遅れている民族である、といった趣旨の文章を書いていることからも明らかだろう。
要するにアーレントは、ユダヤ人はパレスチナの地で「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」事業を成し遂げたからこそ国家を設立する権利がある一方で、アラブ人はそれを成し遂げられなかったからこそ「その地の所有権」を頑なに主張するのは不当である、と言っているのである。
3-3『革命について』から見た「近東における和平か休戦か」
シオニストが「力こそ正義」と主張しながらパレスチナの地の所有権を主張したよりも、いっそう憮然とさせられる意見を見せられたような思いがするが、公平を期すために言っておくと、これは何もこのユダヤ人思想家が同族をひいきするために出来あいの論理をこねくり回している、というわけではない。アーレントはあくまでも大真面目にこの論理を信じている(裏を返せば、だからこそタチが悪いとも言えるのだが)。
それは、「和平か休戦か」が記されてから15年後に出版された『革命について』を読めば明らかだ。18世紀に大西洋の東西で起きた二つの革命をくわしく分析したこの著書は、アーレントの政治観を克明に伝えてくれる。
『革命について』がフランス革命をくさす一方で、アメリカ革命を高く評価したのは良く知られているが、アーレントがこの二つの出来事を評価するにあたって用いた基準は、それが「解放(liberation)」にとどまるか、それとも「自由(freedom)」を創出し得ているかだった。
アーレントがなぜフランス革命を酷評するのかといえば、それがあくまでも「必然性(necessity)」から「解放」されることを目指しただけであって、そこから政治的な「自由」を目指せなかったからだった。邦訳者である志水速雄は、アーレントが言うところの「必然性」を以下のように解説している。
人間には腹を満たすための食事だったり、体を回復させるための睡眠だったり、子孫を残すための性交だったりといった「必然性」がつきまとうわけだが、アーレントからすればそのような「生き物としての人間」――露骨に言えば動物同然の人間――に捉われたままでいる者は、人間としては三流にすぎない(きっと、「貧困にうちひしがれ」ているアラブ人もこの中に含まれるだろう)。
アーレントから見ればフランス革命はそうした「必然性」に捉われている貧窮した民衆に支持されながら展開していったのだが、同時に革命を頓挫させる原因となったのもこの「必然性」だった。
これに対してアメリカ革命は――ネイティブ・アメリカンから広大な土地を奪い、アフリカから連れてきた黒人を奴隷とすることによって――「必然性」からあらかじめ逃れられていたおかげで、「解放」を目標とすることなく政治的な「自由」を追い求めることが可能になった。
もっとも、単に政治的「自由」を実現した程度では革命を正統なものとするには不十分である。あらゆる国家に言えることではあるが、国民や隣国に政治体として承認してもらうためには、なんらかの「権威」がなくてはならない。
たとえばフランス革命ならば人権宣言という法の制定をもって、あらゆる人間は平等であり、民衆が王権を打倒して権力を握ることは正当である、と権威づけたわけであるが、アーレントは一方で、アメリカ革命の場合は「独立宣言や合衆国憲法にはこれと同じような定式が見当たらない」と述べる。
ではアメリカは何をもって革命を権威づけているのであろうか? 彼女はそれを、「革命過程そのもの」あるいは「創設行為」であると推定している。
アメリカという国家がゆるぎなく存在するのは、「不滅の立法者」、つまり神の権威にもとづいているわけでもなく、「独立宣言の前文」のような足元のあやうい「真理」にもとづいているわけでもなく、「アメリカの創設者」がすばらしい「創設行為」をなしとげたという権威があるからだ、とアーレントはみなしているのである。
これはちょうど、先ほど見たような、ユダヤ人はパレスチナの地で「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」事業を達成したからこそ建国の権利を持っている、との「和平か休戦か」の判定と一致する。ユダヤ人が権威としているのは、2000年前にその地に棲みついていたにもかかわらず追放されたという歴史でもなく、アラブ人との戦争で勝利したという暴力的な成功でもない。そうではなくパレスチナの地でユダヤ人はたぐいまれな「創設行為」を行ったからこそ、建国にあたって必須の権威をもっている、と彼女は主張しているのだ。
3-4アーレントから見た先住民族
1948年から1963年までの間にひとりの思想家の価値観が一貫しつづけている事実には瞠目させられるが、同時に、このような独善的な価値観でもって現実政治の調停を行なおうとする態度にはよりいっそう驚かされる。
アーレントからすれば、ある土地の領有権を主張しあっている二つの政治的勢力がいたとして、そのどちらかに利があるかということは、いかに優れた「創設行為」を行ったかどうかによって決められるのだ。片方の勢力が、自分たちはその土地に先に住んでいた民族である、と主張しようとも、彼女は耳を貸さない。先ほども見たように、「和平か休戦か」においてはアラブ側の「その地の所有権」を主張する姿勢を「頑固」な「外交政策」と述べているのだから、アーレントはそんなものは国家創設の根拠にするには弱すぎる権威だと考えている。
無論、先住民族の権利にかんする決議が国連総会で採択されたのは2007年の話なので、今日の目から過去のこういった価値観を裁断しようとするのは慎重でなければならない。しかしながら、アーレントが生きているうちに似たような権利を保証する決議が行われたとして、彼女が反対した可能性は十分に考えられる。
それは『革命について』のなかで、ネイティヴアメリカン(アメリカ先住民)が非常に軽く扱われていることからも予測できる。
ヨーロッパから北アメリカに渡航してきた人々は、ネイティヴアメリカンによって「すでに開かれて」いた道を暴力でもって開拓していき、先住民を追い出して植民していった。この過程をアーレントは決して「新しい法律と新しい世界」、つまり政治的共同体を生み出す行為とは見ていない。北アメリカ大陸で諸々の植民者がなした行為は単なる「一人の人間の行為」であって、政治的な暴力ではない、というのだ(アーレントからすれば政治は「複数者(multitude)」によって行われる行為である。そしてこのように言うことで、アメリカへの入植者たちの政治的責任を不問にする)。
そして、この叙述においては殺戮、ないし保留地へと放逐されていったネイティヴアメリカンの末路が嘆かれることはない。もしも彼らが政治的権利を持った主体としてアーレントから認められているのならば、きっとこの後に何らかの追悼が行われたはずであろう(シオニストの横暴な方針によって失われたパレスチナ・ユダヤ人の「自由」について多くの言葉が尽くされたように)。しかしながら、彼女はそもそも彼らが殺されたとか、居留地に移住された、という説明すらしていない。『革命について』において、ネイティヴアメリカンはその歴史をまともに書くまでもない存在として扱われているのである。
ここからすれば、アーレントは先住民の権利を否定したであろう、との推測はそう間違っていないように思われる。彼女はきっとネイティヴアメリカンはもちろんのこと、アイヌ、琉球、サーミ、バスク、アボリジニ、タイノ、コイコイ……などといった人々が、ある土地に先に住んでいたにもかかわらず移住者によって侵略されたり、支配されることで苦境に遭っていると訴えたとしても、彼らが何らかの「創設行為」を成し遂げていなければ決して政治的権利を認めないだろう。そして、これは今日イスラエルの暴力によって殲滅される危機に瀕しているパレスチナ人についても当てはまるはずであろう。
3-5「zionist problem」か、それとも「Arab problem」か
百歩譲ってこのような立場を認めたとしよう。しかしながら、依然としてアーレントの誤謬がなくなるわけではない。先程「和平か休戦か」から引用した文章をあらためて見てみよう。
散々見てきたように、アーレントはアラブ人が「その地の所有権という変わり映えのしない主張」を「頑固にくりかえ」していることを批判している。仮にこうしたアラブ人の主張が、パレスチナで「過去に起こったどんなこととも異常なまでに異なっていた」事業を達成したユダヤ人に向けられたものであるのならば、それを「頑固」であるとみなすのはそれなりに理解できる。政治的な達成を何も成し遂げていないアラブ人が、優れた発展を遂げたユダヤ人をやっかみながら「その地の所有権」を盾に敵を追い出そうとしているとするのならば、たしかに批判されてしかるべきであろう。
しかしながら、現実的にはアラブ人がここで対立しているのは、彼らを暴力でもって追いだし、「その地の所有権」を無視したうえで建国したシオニストだ。彼らは平和裡にイスラエルを建国しようとしたのではなく、敵意をもって対峙していた人々なのだから、アラブ人が彼らを前にして「頑固」になるのは普通の話である。したがって、ここでアーレントが行っているように、ユダヤ人も悪いが「その地の所有権」を頑なに主張するアラブ人も悪い、といったDD論的な構図で事態を見ようとするのはあきらかに間違っている。
単に議論の組み立て方が間違っているだけなのであればまだ救いようはあるが、実際には「和平か休戦か」は救いようのない論考と言わざるをえない。なぜかといえば、こうした議論によってシオニストの罪がぼやかされてしまっているからだ。「和平か休戦か」はどう読んだとしても、イスラエルは確かに批判されるべきであるが、同様にアラブ人にも罪はある、という以上のことは述べていないため、シオニストの政治的責任が軽減されているのである。
それは以下の(たとえ長くなってしまっても引用しなければならない)文章からも明らかであろう。
パレスチナからのアラブ人の避難については、かつてシオニストによって、アラブ側の「プロパガンダ」によって起きたものだ、とのプロパガンダが行われていた。実際は大した残虐行為が起きてなかったにもかかわらず、アラブの指導者が民衆に嘘をまきちらしたがために、パニックが起きてしまった結果難民が発生してしまったのだ、と主張されていたのだ。
こうした議論は今となっては『パレスチナの民族浄化』を記したイラン・パペによって否定されている。1948年のパレスチナ各地では、シオニストが以前から練り上げていた「ダレット計画」というマスタープランにもとづいて実際に残虐行為が起きていたし、難民はシオニストによって殺されるとの現実的な恐怖にもとづいて避難したのだ。
もちろん、アーレントは「和平か休戦か」を執筆の時点でこうした事実を知りえなかった(パペが依拠したIDFの公文書は90年代後半に公開されたものだった)。それゆえ、彼女が事態の深刻さを「脱出がどのように発生したにせよ」というあいまいな言葉で濁し、アラブ人難民発生の責任主体を特定しなかった、と批判するのは無理筋である。
だが、一方でアーレントがアラブ人の避難を「シオニズムに反対するアラブ人の古くからの主張をついに実現してしまった」結果であると見なしていることは救いがたい。彼女は、アラブ人が以前から「ユダヤ人はひたすらアラブ人を家から追いだすことを目指してい」ると言い張ってきた、と非難している。アーレントはアラブ人のことを、実際には共存すべきであったユダヤ人を誤って敵とみなしたがために、予言の自己成就を犯すようにしてパレスチナから避難せざるをえなくなった存在としかみなしていないのである(彼女は「じっさいの残虐行為」が起きた可能性があるにせよアラブ人は批判されるべきであると考えているのだから、ここに情状酌量の余地はない)。
はなはだしい犠牲者非難と言うほかない。実際に戦争によって大量の難民が発生した場合には、そうした事態を引き起こした主体(この場合で言えばユダヤ人の軍隊であるハガナーやイルグン、そしてシュテルン)が批判されるべきであって、逃げるだけの難民は批判されるべきでないはずである。だが、アーレントはその過ちを易々と犯してしまっているのだ。
ところで、アーレントはアラブ人がパレスチナから避難した事態について、「アラブ難民問題Arab refugee question」と呼んでいる。最近邦訳版も出たキャスリン・ソフィア・ベルの『アーレントと黒人問題』では、アーレントが「黒人問題Negro question」を「黒人の問題Negro problem」と捉えていた、と明らかにされている。
簡単に言いかえれば、アーレントは黒人が受けている冷遇を、黒人自身の責任であって白人の責任ではないと見なしていた、ということだ。
ここまで見てきたアーレントのアラブ人への態度を踏まえるのであれば、ベルに倣って、こういう言い方もできるであろう。アーレントは、アラブ人問題(Arab question)をシオニストの問題(zionsist problem)ではなくアラブ人の問題(Arab problem)として見ている、と。
補節2.『革命について』から見た「シオニズム再考」
アーレントが『革命について』を出版する以前は、知識人の間でアメリカ革命はフランス革命にくらべて「局地的な重要性をもつにすぎない出来事にとどまっ」ていた(たぶん、これは彼女の野心的な著書が出版されてから60年経っても依然として変わらない見方だろう)。これについてアーレントは以下のように表現している。
たしかに、アメリカ建国の父たち(ジョン・アダムス、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントン……)はいずれもイギリスからの移民を先祖として持つ人々だったから、彼らがヨーロッパを母国としていると見なすのは一見すると自然である。
しかしながら、「シオニズム再考」を読んだ後にこの一節に目をとめてみると、既視感を覚えざるをえない。
アーレントは、アメリカがモンロー主義に則ってヨーロッパから「名誉ある、あるいはさほど名誉でもない孤立の内にまったく独立していた」という。アメリカは本来の出自を忘れてあたかも自分がヨーロッパとは無関係に独立したと思い込んでいるが、実のところその独立は「ヨーロッパ的人間」によって成し遂げられたのだから、あらためて自国の起源を思いだすべきだ、と彼女は警告しているのである(同時に彼女はヨーロッパ人に向けて、アメリカの革命を文字どおりの意味でも、比喩的な意味でも対岸の出来事と思うなかれ、彼らがなしとげたことはヨーロッパの偉大なる達成の一つとして数えるべきことなのだから、と主張しているともいえるだろう)。
これは「シオニズム再考」においてアーレントが、ヨーロッパから孤立していくシオニストたちに向かって、ユダヤ民族が西洋文化の発展の分け前を与えられる権利を持っていることを忘れるな、と警告したことと似ている。念のため、もう一度同じ箇所を引いておこう。
「シオニズム再考」が書かれたのが1944年で、『革命について』が出版されたのが1963年だから、彼女のヨーロッパへの異常なまでのこだわりは20年近くにわたって一貫していたわけだ。
ここでも我々は瞠目しなければならないのだが、一方でやはり、アーレントがなぜここまでヨーロッパにこだわらなければいけなかったのか、との問いは、たとえ執拗になろうとも繰りかえさなくてはならないだろう。
さしあたり考えられるのは、彼女が「創設行為」は「ヨーロッパ的人間」しかできないと見なしていた、という可能性である。よくよく考えてみると、アーレントが「創設行為」だったり「はじまり」だったりといった言葉を使う時に例示されるのは、いずれもヨーロッパでの出来事なのだ。
彼女が『人間の条件』において西洋文化の起源たる古代ギリシャを高く評価しているのは良く知られているが、それは同時にギリシャが後世の人々が権威として絶えずうらやむような「創設行為」をなしえたからであろう。また、『革命について』においては、ローマの建国(創設)もそれなりに高く評価されているが、いわずもがなこれはヨーロッパにおいては欠かせない歴史である。それから、『全体主義の起原』においてその歴史が叙述された国民国家もまた、「解放されたヨーロッパ農民階級」があってこそのものだった。一時期彼女が熱狂していたハンガリー革命についても、「ヨーロッパ家族の一員」によるものにほかならない。そして、アメリカ革命も大西洋の向こう岸で起きた出来事ではあるが、先ほど見てきたとおり「ヨーロッパ的人間」が成し遂げた偉業である。
もちろん、アーレントがヨーロッパ以外の出来事にてんで通じていなかった、あるいは興味がなかった、という可能性もなくはない。いずれにせよ、このように振りかえってみると彼女のヨーロッパびいきは読者をして面食らわしめるほどだ。しかし同時に、アーレントがなぜユダヤ人(およびパレスチナ)をヨーロッパに引き留めたがっていたか、という問いの答えも、ここから導き出せるのではないだろうか。
つまり、こういうことだ。アーレントは、ユダヤ人がヨーロッパ人でなければ「民族の郷土」を打ち立てることなどできない、と考えていたのではないだろうか。裏を返せば、彼女はユダヤ人がアジア人になってしまってはまともな「創設行為」ができなくなると考えていたのではないだろうか。
4.「沈黙」以後のアーレント
4-1アーレントの50年代以降のイスラエル、そしてアラブ人への言及
よく知られているとおり、「和平か休戦か」の発表以降、アーレントはイスラエルについて(アイヒマン裁判を傍聴するまで)ほとんど言及しなくなる。それは彼女がイスラエル建国以降、『全体主義の起原』や『人間の条件』といったまとまった著作を執筆する方に精を出すようになっていったこととも無関係ではないだろう。それと同時に、もろもろの論考にアラブ人の姿が現れることもなくなっていく。
もっとも、プライベートな場面ではアーレントはイスラエル、そしてアラブ人に散発的に言及している。彼女が最も信頼を寄せた師であるカール・ヤスパースとの間で交わされていた書簡などはその最たる例だ。一例として、妻がユダヤ人であるヤスパースは1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)に際してアーレントに手紙を送り、イスラエルへの全面的支持を表明しているが、12月26日に書かれた返信は思いのほか芳しくないものだった。
ここからは依然としてアーレントがイスラエルに対して批判的であることがうかがえるが、一方でアラブ人に対する言及はない。
つづく手紙でヤスパースは、国連がイスラエルを「侵略者」とみなしたことで「恥をさらした」と批判的に述べるが、アーレントはこれについても翌57年4月にそっけなく返している。
どうやら、アーレントはこの時点でユダヤ人をヨーロッパに引き留める努力を(「シオニズム再考」ではあれだけこだわっていたのに)放棄してしまったようだ。そして、アラブ人については依然語られない。イスラエルについて積極的に語る気にもならない以上、アラブ人についてはなおのこと言及する気にすらならない、といったところなのだろうか。
だが、翌58年11月の手紙では、アーレントは突然このスエズ危機について語っている。
アーレントはクファル・カシムで起きた虐殺に言及することで、明確にイスラエルへの失望を表明している。彼女がこの事件についていつ知ったのかは定かではないが、これこそがスエズ危機について真正面から言及することをためらっていた理由ではないか、と推測することは可能だろう。
また、同じ手紙の末尾にはこんな文章もしたためられている。
このように書くことで、アーレントはイスラエルの無条件の支持を表明する師に、遠回しながら釘を刺している。また、「和平か休戦か」ではあいまいな言及にとどまっていたアラブ人の避難の原因についても、この手紙ではデイル・ヤシーンで起きた虐殺こそがそれだ、としっかりと言及されている(ヤスパースはその後「イスラエルにかんして私が盲目であ」ったことを認め、アーレントが送ったバルフォア・ブリックナーのアラブ人難民についての本も読んでいる)。
できれば、それを公の場でも表明しておいてほしかったものだが――どうあれ、アーレントはシオニストの罪をはっきりと直視するようになったと言えるだろう。
4-2「どんな命令にでも従う連中」
もっとも、だからといってアーレントがアラブ人に対する偏見から抜け出せたわけではないようだ。
周知のとおり1960年にアドルフ・アイヒマンが逮捕され、エルサレムにおいて裁判が行われた際に、アーレントはイスラエルへと向かって傍聴レポートを記している。その間もヤスパースとの書簡のやりとりは続けられていたのだが、61年4月13日の手紙では以下のようなイスラエル国内の様子が伝えられている。
アーレントが『全体主義の起原』においてモッブを蔑視しながら叙述していたのは良く知られているが、引用では同時に「オリエント」をモッブ同様に軽蔑していることがうかがえる。
結局、アーレントほど注意深い人でさえオリエンタリズムからは逃れられないのか、と落胆させられるが、おまけに彼女は以下のようにイスラエル国民の序列づけさえ行っている。
筆者からすれば、かような剥きだしのヨーロッパ中心主義を(私信とはいえ)さらけ出せる人がいることこそ「気味がわるく」感じられる。本稿の2節で、アーレントがユダヤ人をアジア民族だとみなす人がいるのを「ばかげ」ていると述べたことを確認したが、結局のところ彼女はアジアを蔑視していたからこそ、そのような態度をとってしまったのだろう。
オリエント人である筆者はこのような文章を前にすると冷静ではいられなくなってしまうので(それに彼女は筆者のようなオリエント人の難癖なんか聞きたくないだろうから)、ここはひとつ他人の意見を参考にすることにしよう。アーレントと同じユダヤ人であるバトラーは、このような差別意識にまみれた文章を以下のように指弾している。
4-3「戦争花嫁」としてのアーレント
アイヒマン裁判のレポートが『ニューヨーカー』に掲載されてからというもの、アーレントの見解は(特にユダヤ人社会のあいだで)物議をかもしたのは良く知られている。その間もヤスパースは頻繁に手紙のやり取りをつづけ、アメリカで孤立しかけていたユダヤ人思想家をはげました(そもそも、アイヒマンを形容する際にアーレントが用いた例の「凡庸な悪(banality of evil)」も、ヤスパースとの書簡の往復のなかで生まれたものだった)。
こうした40年以上にわたる書簡を通じたやりとりは、1967年になると散発的になっていく。この時期の手紙を見ると、ヤスパースはリューマチや多発性関節炎に苦しめられ、風邪をひいたとも頻繁に報告している。手紙を書く気力すら失われていたのだろう。
そんな中で、アーレントは1967年6月10日に以下のような手紙を送っている。
この年の6月10日は、6日間戦争(第三次中東戦争)が終結した日付である。アーレントはその出来事を話題にしているのだが、ここではイスラエルについて好意的に記されている。
ヤング=ブルーエルによる伝記に、アーレントがこの時期にイスラエルを支援するための寄付を行い、あたかも「戦争花嫁」のように振舞っていた、と書かれているのは有名だが、それはこの手紙から見てもたしかな事実だと裏づけられるだろう。アーレントはこの戦争に際してシオニズム批判をひっこめ、イスラエルの勝利を願ったのだ。
この三か月後、アーレントはエルサレムを訪れたときの様子をヤスパースにこう書き送っている。
もはやアーレントから(アイヒマン裁判のときに見られたような)イスラエル批判が聞かれることはない。それどころか、イスラエル国民が「観光熱」に「浮かれて」「占領地域を一度見に行こうと」している様子を、「なかなか愉快です」とまで言ってのけている。
単にアラブ諸国からの自衛戦争というイスラエルの主張を擁護するだけならばまだ理解できなくもないが、ここまでの変節ぶりを目の当たりにすると、なにか見てはいけないものを見てしまったような気分になるところだ。
かつてアーレントは修正主義者をはじめとした、パレスチナ全域を支配しようとするシオニストを批判していた。しかし、1967年にいたるとイスラエルによる「もとアラブ領地域」の占領を平然と肯定するようになっている。
イスラエルへの態度が180度近く変わっているのもさることながら、占領された住民であるアラブ人への無神経な態度にも驚かされる。アーレントはもっとアラブ人の「敵意」が弱いだろうと見越していたところ、「ぷいと背を向け」るほど強かったと書き留めているのだ。
果たして、これがかつてシオニストの「力こそ正義」という主張を強く批判した人と同一人物によって書かれたものなのだろうか――そんな疑いも兆してくるところだが、次の叙述を読むとさらに虚を突かれる。
ここでは、かつて「モッブ」と蔑視されていた「オリエント系ユダヤ人」が好意的に評価されている。とはいえ、こういった誉め言葉は素直に受けとれないだろう。
アーレントは「敵方」、つまりエジプトやヨルダンなどのアラブ人と「オリエント系ユダヤ人」を比較し、前者は「劣った軍隊」である一方で、後者は「みごとな戦いぶりを見せた」と称賛している。これは言いかえれば、アラブ側の国々の軍隊教育には「革命」が起こっていない一方で、イスラエルの軍隊教育が素晴らしかったからこそアラブ系ユダヤ人が「みごとな」軍人へと育った、とばかりに間接的にイスラエルを称揚する国家主義的な態度にすぎない。
「オリエント系ユダヤ人」は敵を見くだすためのダシに使われているだけなのである。まちがってもこの叙述だけをもって、彼女がアラブ人への偏見から脱した、とは評価しえない。「オリエント系ユダヤ人」をイスラエルに益する者としてしかみなしえなかった時点で、アーレントは決定的に(彼女がかつて蔑視していた)ナショナリズムに恍惚とするシオニストへと転向したといえるだろう。
終わりに
昨今、(3節の末尾でも引用した)『アーレントと黒人問題』が出版されたことによって、アーレント研究者の間で彼女の黒人観が話題になる機会が増えたらしい。それはそれで有益な動向だとは思うが、一方で筆者はこのような疑問も抱いている――ならば、アーレントのアラブ人観は果たして界隈で話題になっているのだろうか?
エドワード・サイードは1985年に発表した「差異のイデオロギー」で、以下のような疑問を提出している。
サイードが提起した問題は、こうも言いかえられるだろう。「あれだけシオニズムに批判的だったハンナ・アーレントが、1967年を境になぜ積極的にイスラエルを支援するようになったのか?」と。
アーレントのもう一人の師にして愛人であるマルティン・ハイデガーに現在つきまとっている問題(「なぜナチに加担し、ユダヤ人を蔑視したのか?」)にかこつければ、「アーレント問題」とでも名づけられるだろうこの課題は、アーレント研究では散発的ながらそれなりに取りあげられてきた。たとえば、日本では早尾貴紀が『ユダヤとイスラエルのあいだで』にて「理論レベルの限界」ゆえにイスラエルを批判できなかったとアーレントを論難しているし(素直に告白すれば本稿は彼の議論に大きく影響を受けている)、最近では二井彬緒がアーレントのシオニズムとのかかわりを綿密に追いかけている。
だが一方で、「アーレントは、パレスチナ人をはじめとしたアラブ人をどのように見ていたのか?」との疑問は、(筆者の観測範囲が狭いのを承知で言えば)あまり取り上げられてこなかったのではないだろうか? アーレントが顰蹙ものの差別意識でもって黒人を論じていたのはベルの論争的な著書が出版される以前から知られていたが、一方でアラブ人をどう見ていたか、という問題については護教的なアーレント学者はもちろんのこと、それ以外の人々にとっても死角になっているように思われてならない(アーレント自体が真剣に研究する対象として見られていない可能性もなくはないが)。
こういった等閑視がまかり通っているのはなぜなのか――最初に考えられる答えは、シオニズムを批判していることで有名なアーレントが、パレスチナ人を蔑視していたはずがない、との先入見が人々のあいだに植えつけられているのではないか、というものだ。片方を批判しているのならば、もう一方は批判しないはずだ、というわけである。
しかしながら、これはよくよく考えてみるとすぐに解けるはずの臆見にほかならない。シオニズムに批判的であることと、パレスチナ人に差別意識を向けることはそれぞれ排他的な態度ではなく、むしろ両立しうるからだ。アーレントがユダヤ人が破滅に向かうことを食い止めつつも、一方でアラブ人を遅れた民族とみなしていたことは、3節で見てきた「和平か休戦か」でも克明に表れていた。
もちろん、人間は(アーレントに倣って言えば)「思考欠如」に見舞われやすい生き物なのだから、一度植えつけられた偏見を覆すのはなかなか難しい。アーレントがシオニズムを批判していたという漠然な知識にもとづいて、ならば彼女はきっとパレスチナ人に同情的だったろう、と自動的に推測するのは仕方のない話なのかもしれない。
しかしながら、昨今アーレントを援用しながらイスラエルのガザ侵攻やレバノン侵攻を批判する声がちらほらと聞こえてくることについては、筆者は危惧の念を禁じえない。たしかに、有名な思想家の権威によりかかることで少しでも批判に正当性をもたせようという気持ちはわからなくはない(筆者もそうした戦術はしばしば用いている)。ただ、その思想家が実はパレスチナに批判的で、イスラエルに好意的だったとしたらどうだろうか?
たしかに、「シオニズム再考」あたりまでのアーレントならば、今日のイスラエルを批判していた可能性は十分にある。しかし、「和平か休戦か」あたりのアーレントならどうだろうか。ましてや、1967年以降のアーレントだったら……本稿で見てきたアーレントの態度の変遷を踏まえるのであれば、かならずしも彼女は今日イスラエル批判をしただろうとは言いきれないのではないか。アーレントはアイヒマンについて、クリシェの繰りかえしに安住する人物として描写していたが、ならば我々も今日まかりとおっているクリシェの繰りかえし(「アーレントなら現在のイスラエルを批判しただろう」「アーレントならパレスチナを支持したはずだ」etc.)を見直すべきなのではないか。
そして、問題はただ単にアーレントがイスラエルを支持したとか、アラブ人を蔑視していた、といったレベルにとどまらない。彼女の思想そのものが多くの問題をはらんでいる以上、それもまた全面的に見直すべきなのではないか。
あけすけに言ってしまえば、こういうことだ――パレスチナやユダヤ人を強引にヨーロッパに属するものとみなすほどに西洋中心主義者で、独善的な価値観でもって先住民の権利を易々と無いものと見なすような人間の思想を借りることによって、今日ヨーロッパ仕込みのセトラー・コロニアニズムでもってパレスチナ人を迫害し、(アメリカも含む)ヨーロッパから援助された武器でもって人々を殺戮としているイスラエルを本当に批判できるのか?
イラン出身のアメリカ人比較文学者ハミッド・ダバシは、「ガザのおかげで、ヨーロッパ哲学の倫理的破綻がさらけ出された」との挑発的なタイトルをもつ論考をミドル・イースト・アイに寄せ、今般のガザ侵攻をまともに批判できないヨーロッパの知的権威たち、特にドイツの御用学者ユルゲン・ハーバーマスを糾弾している。
さすがにアーレントはハーバーマスほど恥知らずではないが、「ヨーロッパの妄想のなかに頭を突っこ」んでいる点では五十歩百歩だろうし、「不治の部族主義」に捉われている点でも変わらない。このような人間の唱える思想が、果たして信頼に足りるものなのだろうか? そう問うべきときが訪れている。
脚注
(注1)国民にしか人権を与えず、非国民には人権を与えない、という姿勢が最も表現されているのは、我々もよく知る日本国憲法第14条第一項である。
ここでいう「国民」とは、憲法第10条(日本国民たる要件は、法律でこれを定める」)、そして国籍法が定めるように日本国籍を持つものに限られる。実は、この条項はGHQ草案の第13条では以下のようになっていた。
GHQ草案が「自然人」と書くことで日本国民ならずあらゆる人民を「法の下の平等」に置くのを狙ったのに対し、日本国憲法ではこれを「国民」と書き換えたことによって外国人は人権を授かる対象ではなくなってしまった(ちなみに、GHQ草案第16条には、「外国人は平等に法の保護を受ける権利を有する(Aliens shall be entitled to the equal protection of law.)」という文言もあったが、古関彰一の『日本国憲法の誕生』によると、当時の法制局第一部長佐藤達夫がGHQを相手に手練手管を駆使した結果これもいつのまにか削除されたという)。
このような書き換えは、当時日本にいた在日朝鮮人の扱いとの兼ね合いで起こった可能性が高い。1947年に日本は外国人登録令を公布し、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とした。この結果在日朝鮮人は、「朝鮮」籍をもつことになる。一見すると朝鮮の国籍のようにみえるが、実はこれは単に朝鮮出身という意味合いしか有していない。直截に言えば在日朝鮮人は事実上の無国籍に処せられたのだ。
その後、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されるにともなって外国人登録令は廃止されたが、ここで「朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて日本の国籍を喪失する」との通達によって、正式に在日朝鮮人は国籍を喪失した。その結果、在日朝鮮人は国籍を持たない外国人として日本で生活していくこととなる。
たしかに、現在はたとえ憲法に「国民」としか書いておらずとも、人権は外国人にも適用されるとの解釈が一般的である。1964年には「本条(憲法第14条)の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推適用される」との判例もある。
もっとも、今日もなお日本においてくすぶっているマイナー民族の問題(在日朝鮮人、クルド人、異様なまでに低い難民の認定率、入管問題……)を踏まえれば、その程度の姑息な手段が根本的な解決にならないことは言うまでもないだろう(そもそも、日本国民自体が今日人権をもつ対象として扱われているか、という問題もあるにせよ)。
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