”立ち止まる”ことが許される社会であってほしい

二十代のとき、会社を辞めた。
新卒で入った会社で、辞めたのは二十代後半。
それまでずっとノンストップで走り続けていた状態。体力には自信があったから、どんな激務の中でも自分は大丈夫!と思っていた。
が、限界はあった。心身共に体調を崩した。それが辞めるきっかけ。

仕事を辞めると親に電話したときだった。
「次はどうするの?」と言われた。
今の仕事を辞めて、それで次の仕事は?もう決めてあるの?ということだ。
ちょっと待ってくれよ。今の私だったらそう親に言えるが、当時はそうではなかった。
「大丈夫。やりたいことは決まってる。次に行く」
そんなような言葉を返した。
実際、次にやることが決まっていたのも事実だった。
病院に通院しながら。薬を毎日飲みながら。
そんな状況の中、私はそう返した。こんなことも思っていた。
”子供がそろって定職に就いていないのは心配だろうな。親に迷惑かけたくないな”
私には兄弟がいる。彼はメンタルを患って定職に就いていなかった。
そう、あのときの私はそんなことを思っていたのだった。
当時の私をぶん殴りたい。

──ちゃんと休め。立ち止まれ。周りのことはいったん置いておいていいから、自分をもっと大事にしろ。

肩を掴みながらがくがく揺さぶって、言い聞かせてやりたいぐらいだ。
ずっと私は、自分のことを大切に出来ていなかった。
周りの人が喜んでくれればいい。
自分のことは二の次でもいい。
お人好しとかそんなレベルではない。バカげた考えにも程があった。
自分のことを大事に出来ない人間が、本当の意味で他人を大事になんて出来るわけがなかったのだ。

『自分で自分を認められないと、人は相手に認めてもらうことで、自分の価値を確認しようとしてしまう』
これは、とある本で見つけた一文だ。
それまでの私はたぶん、自分自身に価値があると思ったことがなかった。
だから周りに認められたくて、親にも喜んで欲しくて、自分の存在価値を、そうすることで見つけたかったのだ。今なら言える。
いやー、バカバカしい。

会社員時代はがむしゃらに毎日働いていて、立ち止まって何かを考えることすらなかった。少しでもボーっとする時間があったら、そうしていただろうか。分からない。なにしろ、あの頃はとにかく時間が無かったから。

少し話は変わるが、海外にはギャップイヤーというものがあるらしい。
高校を卒業したあと、大学入学前に、好きなことに挑戦する時間。
期間は一年間で、そのあいだ留学したり、ボランティアをしたり社会経験を積んだり。旅行だって何だってやりたいことをやってから、視野を広げて帰ってくるらしい。社会においてもギャップイヤーという、その言葉が認知されて評価されているとのこと。

日本だと、どこにも所属していない人間に対して白い目が向けられることは少なくない。それこそニートとかフリーターって聞くと、ネガティブなイメージを持つ人たちは圧倒的に多い気がする。
ギャップイヤーはこの国だと聞き慣れない言葉だけど、でもそれは大事な時間じゃないだろうか。小学校→中学校→高校、そこから進学するか就職するかどうするかは人それぞれだけど、あまりにスイスイ進むんでいくシステムに、それが普通の事だと思い込んで、立ち止まることは許されないのだと思い込んで。
自分が本当は何をしたいのか分からないまま、あるいは途中で見失ったまま進んでいく人は多いんじゃないか。
私だって、本当はよく分かっていなかったのだと思う。なんかおかしいな、そう気付く余裕すらなかった。今思うと、視野が狭いまま、違和感を覚えることなくずっと走っていた。
周りにはこんな世界がある、こんな考えがある、それらを自分からつかみ取ろうともせず毎日仕事に追われて、それが自分の全部だと思い込んでいた。

そんな私のような人間には、きっと立ち止まる時間が必要だったのだ。
社会人になったあとだって、ギャップイヤーのような期間があってもいい。
一度立ち止まってみる。そのことに、早すぎたり遅すぎたりってことはないんだろう、たぶん。