ゲームの「中毒性」についての考察
大前提として、どんなゲームのプレイヤーにも、守っていくべき生活がある。仕事があり、友達や家族もいるだろう。
どこまで行っても、ゲームは生活の一部でしかない。
家族や友人、快適な生活環境など全てを失って、
寒空の下でゲームをする生活をしたい人間などいないのである。
ゲームに関する話題で、「中毒性」という言葉が使われる時、
それはおよそ肯定的な意味で用いられる。
しかし、今回の記事では、
この「中毒性」というものの価値に、疑問を投げかけてみたい。
「中毒性」=「面白さ」ではない
この記事にたどり着くような人であれば、
Youtubeで「Hero Wars」というゲームの広告を見かけた事があるのではないだろうか。
頭の上に数字が表示されたキャラクターが沢山動き回る「アレ」である。
![](https://assets.st-note.com/img/1705454255121-tSuWiRoW1R.jpg?width=1200)
また、なんかみょうちくりんなパズルを出してくるパターンもある。
![](https://assets.st-note.com/img/1705454316247-P0Ql4scKxA.jpg?width=1200)
ついつい目で追ってしまう広告だが、
あの広告をきっかけに実際にゲームを始めた人や、
もしくはあの広告自体が大好きという人が、世の中にどれだけいるだろうか。
人は数字の羅列を見ると、ついついそれに意味を見出そうとして、
注意を向けてしまう。
複雑怪奇で訳の分からない情報であれば、無視する事が多いが、
適度にわかりやすいパズルのようなものを提示されると、
さほど興味が無くても、しばらくそれを見てしまう。
あの広告は、視聴者の意識を画面に向けさせる事自体には、
成功していると言える。
しかし、あの広告やゲーム自体に好印象を持っている人は、
決して多くない。
むしろ頻繁に表示される事によって、
不快感を持っている人の方が多いだろう。
所詮は、ついつい見てしまう人間の思考パターンを利用して、
相手の時間を無駄にしているだけで、
それが相手にとって楽しい時間、嬉しい時間ではないからだ。
これは広告の話だが、
ゲームのコンテンツについても同じ事は起こり得る。
人間の思考パターンを利用して、
あと少しで何か課題が達成できる、
あと少しで良い物が手に入る、という状態を作り続けると、
プレイヤーは止め時を失い、長い時間その作品をプレイしてくれる。
しかし、それがプレイヤーにとって嬉しい時間かどうか、
というのは、実は別問題ではないかと私は思う。
獲得率の異常に低いアイテムやキャラクターや、
理不尽でしかない難易度に対する疑問
一つ前の節の内容を受けて考えた時、
私はユーザーに丸一日や一週間等の長い時間をかけて、
レアなアイテムやキャラクターを獲得させるようなゲームメカニズムは、
果たして肯定されるべきなのだろうか、と思う。
難易度についても、
フロム作品のようにリトライ性が高く、
きちんと調節された難易度の高さであれば良いが、
ただただ、初見殺しや長いダンジョン、運要素でプレイヤーを殺そうとしてくるアトラスのRPGのような構造は、
ユーザーの時間をただ無駄にしているだけではないかと思う。
ゲームに人生を破壊されるのは自己責任の範疇か
どんなゲームであれ、
そのゲームをどのぐらいの時間遊ぶのかは、プレイヤーに委ねられている事ではある。
しかしながら、それはゲームの作り手に、
ユーザーに対する責任が無い事にはならない。
例えば、自分の意志で楽しんでいるかどうかだけが論点なのであれば、
薬物を取り締まったり、
薬物中毒に苦しむ人を救済する必要などない。
人間の理性は、
脳という物体の構造に依存している以上、完璧ではなく、
特定の刺激に対しては抗いようもないままに、
思考のパターンを変えられてしまう。
薬物とゲームで違うのは、刺激の作り方に過ぎない。
ゲームメーカーには、ただ長く遊ばせてドヤ顔するのではなく、
ユーザーの人生に寄り添うようなゲーム体験を作っていって欲しい。