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<「弐 新政」より>

※内容の一部を抜粋して公開しています。

「楠木を呼べ」
 到着を告げると、すぐさま帝のお召しが掛かった。福厳寺に設けられた仮御所に正成が参ずると、そこには側近の世尊寺行房だけが近侍しており、ほかの公卿や諸将の姿さえない。掛けられた御簾の向こう、わずかな灯火の照り返しが、帝の姿を縁取っていた。
「楠木多聞兵衛、御前に罷りこしました」
「よくぞ参った、楠木」
 平伏しつつあった正成だが、御簾の向こうから聞こえてきたその声に、わずかに震えた。呼び掛けは、帝の肉声であったからだ。すでに話を付けてあったのだろう、世尊寺は何も言わず、御簾をするすると巻き上げる。正成は平伏したまま、その微かな音を聞いた。
「面を上げよ」
 再度の御声。正成はひとつ間を置くと、端正な所作で身を起こして龍顔を拝した。
 穏やかな造作の、面長の面。それに比して小さく見える眼には、かつてと変わらない意志の強さを湛えていた。流浪のうちに蓄えられたのか、口もとを囲む長髯がそこに威厳を添える。僻地での暮らしは、その姿にわずかな野趣とたくましさを加えていた。
「一別以来だな」
 そう帝は微笑んだ。親しみのつもりではあったが、
「御意」
 応じる正成の声は硬い。むしろ、どこかよそよそしくさえ聞こえる。
「河内での戦、よくぞ戦い抜いてくれた。これほど早く大義が成された功、ひとえにそなたの忠戦のおかげだ」
「勿体なき仰せ。ともに尽くしました河内の民も喜びましょう」
「そなたに格別の褒美を取らせたいところだが、生憎、旅の途次にて渡すべきものもない」
「君徳があってこその果報にございます。わたくしの謀など、敵の囲みを解くにすら至っておりませぬ。過分なる褒詞を賜り、十分にございます」
 少しのやり取りのうちに、尊治の帝は早くも焦れはじめていた。正成の反応が、あまりに薄く、張り合いがないのである。
 六波羅攻略後に駆けつけた赤松一族にも、鎌倉陥落の報を持ち来たった新田の使者にも、帝は特別な褒詞を与えており、そのたびに感激に震える者たちを見てきた。このうえ、正成には御簾を上げての直答を許した。もっと喜んで良いはずである。
 だというのに、目の前の男は身をひとつ揺らせただけで、それ以上の何かを見せなかった。
「主上、ひとつお伺いしたき議がございます」
 代わりに、問いが返ってきた。
「申せ。遠慮は要らぬ」
「主上の願は幕府を討つことでございましょうや。政事を改めることでございましょうや」
 あまりに直截的な問いに、さすがの帝も言葉を失った。
「そっ、その方! 主上に対し奉り無礼にも程があろう!」
 呆気に取られていた世尊寺がようやく詰問の声を挙げたが、すでに遅かった。その言葉は、戦勝に水を差すだけではない、まるで帝のやりかたに異議を唱えたようでさえある。
 正成はこう言ったのだ──幕府を討ちさえすればすべてが解決するのか、尊治が治天の君となりさえすれば良いのか、それは私怨私欲で敵を滅ぼすことと何がちがうのか、と。
(この男は……!)
 わずかのうちに、帝の脳裏に幾つもの思いが駆け巡った。一瞬立ち上がった反感もつかの間、代わりに浮かんだのは笠置山での出会いと、そして法燈禅師の笑い声。
(……何を、浮かれていたのか)
 愕然とした。いまさらながら、北条得宗への意趣返しが成ったと喜んでいる自分に気づかされた。大義を振りかざそうとも、私怨は私怨である。我に返って見れば、その在りかたは、かつて笠置山で〝辛苦みつつ降った〟ときとは似ても似つかぬほど見苦しい。
 無論、帝自身は己の志を忘れたことはない。だが、周囲の歓喜に流されて、それに浸ろうとしていた自分の姿を、はっきりと見た。
 その姿を突き付けた男は、ふたたび拳をつき、平伏している。そこに揺らぎはなかった。

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