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<「壱 挙兵」より>

※内容の一部を抜粋して公開しています。

「名越高家殿は討ち死に。麾下の兵七千六百のうち三千近くを失ったとの由」
「そうか。ご苦労」
 あっさりと答え、高氏は伝令を労う。
 陣幕のうちには高氏ひとり、篝火ひとつ。ともに戦略を練るはずの側近たちの姿はすでにない。外には盛大に火が焚かれ、それを囲み酒をあおる兵たちの影法師が、幕のなかでちらちらと躍っている。
「差し当たり、急ぐ用もない。お主も呑んでこい」
「はっ……失礼つかまつります」
 伝令へわずかにくれた視線を卓上にもどし、高氏は床几に座したまま黙考をつづけた。
 目の前には畿内の地図を広げ、白黒の石を置いている。そのひとつひとつが六波羅であり、赤松や千種であり、比叡山門であり、三井寺園城寺である。南端の高野山には先帝の皇子である大塔宮護良親王の軍勢があり、河内には楠木軍とそれを囲む鎌倉の大軍がある。
 それ以外にも、先帝方と鎌倉方に別れた小勢の争いは無数にあるが、そんなものは無いに等しかった。所詮は土地の喧嘩に過ぎないし、大勢に影響があるような規模ではない。
 その意味で、特異なのは楠木勢だった。それこそ、規模で言えば無視できる小勢である。にもかかわらず、総勢十万という鎌倉方を釘付けにして早八十日以上も保ちこたえていた。
 数だけを見比べれば、これは驚異的な仕業だった。
 高氏自身、先年には河内国赤坂に赴き、楠木の戦の仕振りを見届けている。
 なだらかな丘陵にそびえる金剛山系の連なりを背景に、赤坂の城はひたすらに頑強だった。ただでさえ急な斜面を削り、逆茂木や鼠返しを隈無く置いて、正面攻めはあたら犠牲を増やすだけ。ならばと補給を断って干乾しにしようとすれば、かえって鎌倉方の輜重隊が襲われ、兵糧が奪われる始末であった。
 あのとき、籠城していた楠木勢は三百とも五百とも言われる。だが、高氏の目には、城に拠らない楠木勢の姿が映った。それは、河内の民であり、摂津や紀伊の民であり、金剛山から葛城山に掛けての山の民であった。
 彼らは兵としてではなく、戦の外で楠木のために働いていた。城は蟻の這い出る隙間もないほどの重囲のもとにあったから、民と楠木が密に連携した結果ではない。彼らはただ自発的に、鎌倉方に気づかれずに済む形で、楠木のために行動したのだった。
 もちろん、鎌倉方に目を付けられ、謀反に荷担した科で処罰される危険はあったろう。それを押してまで〝味方したい〟と民に思わせる人物であれば、平生よほど民に慕われているのであろうし、民の生を大切にする者であろう。
 その在りかたは、高氏にとって好もしい。
「楠木正成、か」
 ただ、彼とまったくちがうのは、正成がみずから行動する者だということだった。
 このたびの千早赤坂での再挙兵など、その最たるものである。先帝が隠岐島に配流となり、各地で蜂起した味方も敗れ、先帝方の灯火は潰えていた。にもかかわらず、楠木は再度蜂起した。しかも、当初は摂津の天王寺にまで進出し、応戦した六波羅軍を正面からの戦で撃退する離れ業をやってのけている。
 その後、速やかに本拠の河内にもどると千早赤坂の七城を城塞化し、千にも満たない手勢で十万の大軍を釘付けにした。たった千の小勢さえ、六波羅も鎌倉も満足に討つことができないのか……と、高氏でさえ思ったものである。
 それが、各地で討幕の兵が立ち上がる呼び水になったのだ。
 正成が、それを意図してやってのけたことは、疑いようもない。何しろ、千早赤坂の戦況は、各地の寺社や遊行僧、行商や馬借などが盛んに喧伝してまわっていたのだから。
 もともと楠木一族は、赤坂で採れる朱を商い、ひいては河内や紀伊の寺社で荷を預かる馬借でもある。そうした伝手で、話を広げたにちがいなかった。
 いまや、幕府への反抗は燎原の火の如き広がりを見せており、千早赤坂を囲む軍勢からでさえ、幕府に対する嫌気から勝手に撤退する者が出るほどである。実際に、新田義貞もそのひとりであったし、だからこそ高氏と呼応する気になったと言えた。
 世の潮流を作る。この混沌とした世にあって、それを成し遂げた男が、楠木正成なのだ。
 高氏の疑問は、そのうえで何故、楠木が千早赤坂で戦いつづけているのか、にあった。
 もう、所期の目的は達したはずだ。あとは以前のように、包囲の目を欺いて脱出し、手近な先帝方の軍に合流すれば良いはずである。そうせずに籠城をつづける意図が何か──。

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