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青春とは心の若さである/2021年正月

僕は91年の12月29日生まれだから、2021年がちょうど20代最後の年ということになる。自分の魂はもう30年に亘ってこの世に存在し続けているというわけだが、この肉体もなんだかんだ30年も生きているということになるのかぁ。僕は一回も骨折したこともなければ、インフルエンザにかかったこともないし。本当に、丈夫な体だ。

さて、昨年末から少年隊の曲を聴くようになったわけなんですが。ジャニーズ事務所を退所された錦織一清大先輩の、85年から90年代にかけての美しさに釘付けになってしまったのだった。平成育ちの僕にとって、少年隊といえばヒガシ。ヒガシだけが抜群にイケメンで、あとは野暮ったいオジさん二人・・・なんて思っていたけど大違い。この錦織、ニッキ様こそが少年隊のセンターであって、ジャニーズが誇る美貌と才能の持ち主、真のイケメンだったのです。ジャニーさん、本当によく発掘してくれたわ。ありがとう。

また話は変わって、この年末、コロナ禍で実家にも帰れないわけだったので、京都の神社仏閣を巡ってきた。夏ごろから龍安寺に行きたくて、ここのお寺はかの有名な「石庭」が一番の見物であるが、僕としてはこの寺の方丈北手にある「吾唯知足」の蹲を一目見てみたかったというのがあった。「吾唯知足」――吾レ唯ダ足ルヲ知ル。All you need, you already have、つまり自分が満足していると知る者は心が豊かであるという禅語。

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「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」――こういう杓子で考えると、僕は欲深い人間に分類されると思うし、嫉妬深く、そのうえ好色な人間の部類に入るはずだと自分のことを考えている。「足りている」「もう十分だ」「ここら辺で止めておこう」と考えられるほど、理性的ではない。第一に、僕は欲しがりだ。ないものねだりブルースだ。

揺るぎないものとは

龍安寺の訪問から3日後、2020年の大晦日に知恩院にお参りした。知恩院は浄土宗の開祖・法然上人にゆかりの、由緒あるお寺だ。その阿弥陀堂でひとりの僧侶の話を聞く機会に恵まれて、彼の話にはっとしたのだった。

「例の感染症の流行によって、世界は未だかつてないほど変化しており、その勢いはますます早まるばかりです。そうしたなかで、ひとつ揺るぎないもの。それは2500年続く仏教であり、釈迦の教えなのです」

別に仏教が2世紀以上も続いていることに息を飲んだわけじゃなくて、「揺るぎないもの」って大事なだなと感じたわけで。コア、というものですかね。仕事をしているときは自分の「コアバリュー」とか意識して、いわゆる「強み」っていうんですか、それを業務に活かそうとするわけなんですが、そういう特定のことに対しての価値ではなくて、「生きていく上で揺るぎないもの、コアになるもの」。これってとても大事じゃないです?

2020年は、本来一年で変わるはずじゃなかったものが一気に変化した年だった。なかでもデジタルの分野は、数年分を一気に未来へ早送りしたような感じだ。でもこれは遅かれ早かれやってくることだった。そうでしょ?速さはもはや問題ではない。僕らはこの時代に生きている限り、新しきものにいち早く適応し、ありとあらゆる問題をアジャイルに対処していく努力を求められている。そうした、常に変化し、もの凄いスピードで様々なものごとが流れてゆくこの世にあって、揺るぎないものとは何なのか。

「美しさ」――見た目の美は永遠ではない。体は加齢によって衰える。美も衰える。「お金」――使えば無くなるし、価値は変動する。「愛」でさえ、裏切りがある。「友情」も、何かを与えなければ次第に離れてしまうものだ。

若い心、美しい心

揺るぎないもの、僕がこれを答えるとすればそれは「美しい心」と言うだろう。つまり「若い心」と言うだろう。「心の若さ」というのは松下幸之助も譬えている。

青春とは心の若さである
信念と希望にあふれ、勇気にみちて日に新たな活動を続けるかぎり
青春は永遠にその人のものである

そもそもこの言葉はアメリカのサミュエル・ウルマン(1840-1924)という人の「青春」という詩から取られている(下記は作山宗久氏の訳)。

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。

ゆたかな想像力、安定を振り捨てる冒険心、新しきを学ぼうとする好奇心と探求心、人生への興味。美、希望、よろこび、勇気、力のインスピレーションを受けている限り、僕たちは若いのだ。

これは以前、三浦春馬君が亡くなった日の記事でも書いているんだけど、「キンキーブーツ」という作品に「ローラの6段階プログラム」というのが出てきて、それは「①真実を追い、②新しきを学び、③在るがままの自分と他者を受け入れて、④愛に光を当て、⑤自尊心を指針とし、⑥自分の心を変えれば、世界も生まれ変わる」というものなんだけど、僕はこのウルマンの詩と同じことを謂っているんだなと感じた。心の持ち方によって、人は輝くということをね。

じゃあ、若い美しさとはいったい何なのか。なぜ僕がニッキの若さに心を奪われ、いまのニッキに残念ながらその魅力を感じないのか。


欲しがりなのではない

そんなことを考えながら、今日は東京大神宮に初詣にいった。おみくじを引いた。大吉だった。神様も仏様もごちゃまぜなわけだけど、そのあと浄土真宗をひらいた親鸞の教えのことをちょっと詳しく知りたいなと思って五木寛之の書いた本を買った。

 救いがたい愚かな自己。欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを、地獄という。
 わたしたちはすべて一定、地獄の住人であると思っていいだろう。死や、病への不安。差別する自己と差別される痛み。怒りと嫉妬。
 しかし、宗教とは地獄にさす光である、と親鸞は考える。苦しむ魂を救うためにこそ信仰はあるのだ。それゆえに地獄に生きる者すべてはおのずから浄土に還る。日々の暮らしのなかでも、一瞬、そのことがたしかに信じられる瞬間がある。それが極楽である。しかし極楽の時間だけが長くつづくことは、ほとんどない。一瞬ののちには極楽の感動は消え、ふたたび地獄の岩肌がたちあわられる。
 現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことだ。(幻冬舎文庫「大河の一滴」)

基本的に我々の住んでる世の中は地獄、らしい。でもそれを忘れて恍惚する瞬間が人生にはある。それが極楽だと。でも極楽ばかりが長くつづくこともない。そういうことだ。

若かりし日の超絶的なニッキの美しさ、いやそれだけではない、美しい夕焼けを見て心が震えることだとか、きれいな花を見たときの喜びだとか、そういう一切はまるで地獄にさす光といっても良いようなもので、「つまりそういうのは全部ひっくるめてこの世の奇跡なんでしょう?」という結論に僕は至った。奇跡はほとんどが永遠には続かない。夏の花火のようにそれは儚く一瞬で、だからこそ美しく、偉大で、賞賛する価値がある。

奇跡を求めること――それは常に満足しないでいる欲求不満な自分の姿とは違う。美しいものを求めることが、禅の神髄である「知足」の心に反することだなんてこれっぽちも思わない。「奇跡」を自分のものにして、もう二度と手離さないようにしたいと考えたとき、それは不知足になるのではないか。要はしがみつかないこと。美や、力が「自分のものにならない」ということを知ったとき、はじめて僕は豊かな心になれる気がした。知足の心とは、所有欲を手放すことといえるだろう。

若さはあっという間に指のあいだをすり抜けていく。その美しさを永遠に掴んでいることなんてできない。これまで様々な失敗をしてきて、これからも沢山失敗をするはずだけど、いまはそれを受け入れることができてレベルアップしたのじゃないか。青春とは、心の若さである。

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