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今をきっちり味わう

小説家である中島敦曰く「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」と33歳でこの世を去った彼だからこそ、そう思えたのかもしれないが、確かに毎日時間が足りないことに焦らされている気がする。そのほとんどが仕事に費やされていて家のあれこれをしているとたちまちテッペンを超えそうになる。

それでも一昔前からしたらある程度家事やその他諸々の手間は機械などによって省けているはずなので、楽にはなっているはずなのに楽にはなっていない気がするこれ如何に。きっとそれらによって圧縮されたタスクで生まれた空間に新たなタスクを捩じ込むだからなんだろな、そりゃいくら時間があっても足りないわけで。

かく言う僕もヒリヒリとした日常を送っていた。静電気が常に纏っている焦燥感に包まれながら毎日を暮らしているそれがなんとも居心地が悪かった。数少ない時間にあれこれ詰めて熟すことこそが人生の目標とも思っていたが、それが居心地の悪さの根源と薄々感じながらも続けてしまっていた。

そんな秋のある日、河内長野にある花の文化園内にあるレストランに行ったんですよ。入園料払って行けるレストランなんでほぼ貸切みたいな状態で、その時点でゆっくりできていて、朝摘みのミントの入ったお冷を飲みながら料理を待つ。ふと窓の外を見ると青空にゆらめく木々、季節の花に赤トンボ。遠くの方に鳥の囀りが聞こえるだけで他は何もない、人もいない、ただそれを静かに眺めている。本当に静かに何も考えず、この後これをするとか今何をしているのかとか、そんな無駄なことを思い浮かべてはすぐに手放して窓を眺める。

丁度その時に料理が運ばれてきた。ローズマリーの香り豊かなチキンと文化園で採れたたくさんの野菜、スープ(大変嬉しい五穀米も!)。それまでヒリヒリしていた心がその空間のお陰でゆったりとしていたのだろう「あ、美味しい」とちゃんと思えた。素直に美味しいと思えたその感覚はもはや感動で、胸が躍りながら食べられた食事は何年ぶりだろうと嬉しくてたまらなかった。

食べ終えてまた窓の外を眺める。その美味しい感覚、そうか、タスクを詰め込みすぎて感覚が鈍っていたのか…そう思った時から無駄なタスク、無理なタスクは捨てようと素直に思えた。詰め込んだって、数をこなしたって意味はないんだ。重要なのは今をきっちり味わうこと。それ以下でもそれ以上でもないんだって。

レストランを出て温室や並木道をお嫁ちゃんと共に時間を気にせずゆっくり話しながら歩く。なんとも良い時間なんだろう、ずみずみまでちゃんと暮らしている感覚に満ちている。人を殺すには刃物は要らぬ、ちょいとタスクを重ねりゃ良い。毎日をゆったり、ちょっとばかしダラけたり諦めちゃったりって悪いことじゃないんですよ。頑張りすぎない、なるようにならせよう。

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