「誰がいうか」が大事? 本当にそうかい?
「何を言うかよりも、誰が言うか」
「信頼できない人の立派な言葉を聞いても、人は動かない」
そんな言葉を目にすると、いつもモヤっとする。
きっとその言葉が意味するのは、「人から信頼される人になろうね。信頼って大事やで」ってことなんだと、分かってはいる。
だがしかし、「何を言うかよりも、誰が言うか」は、あまりにも乱暴ではないだろうか。
その言葉があわらすことはつまり、「権威のある人の言葉は信じるけど、無名の人の言葉は信じません」ということ。
そしてこの言葉を聞く人達に「そうあるのが普通だよ」と刷り込む言葉である。
刷り込まれた人間は、信頼される偉い人に成ろうとするだろうし、信頼できない人の言葉は信じなくなる。
これはとても面白い。というか片腹痛い。
信頼フィルターを通して、歪んだ世界を見よ。と言わんばかりである。
もちろん人間に、そのような性質があることはよく理解できる。
信頼できる人についていった方が、生存確率が高いと判断するだろう。
しかし、それは本質を見ていないのではないか。
偉かろうが、偉くなかろうが、その言葉の内容に、アイデアに価値を見出すべきではないのか。
信頼フィルターを通せば、同じ言葉であっても、捉え方は180度変わってしまう。
どこの誰だかわからない人の意見も、忖度のないまっすぐな批判も、すべてをフラットに見て受け止めることができる人が、本当に器の大きな人なのではないだろうか。
私は「誰が言うかよりも、何を言っているか」を大切にしたい。
教師として子どもと向き合うとき、便宜上先生と子どもは地位が違う。
けれど、彼らの言う意見、言葉については、一人の人間としてフラットに取り扱う。
「子どもの戯言……」なんて言葉で片付ける大人でいたくはない。
信頼される人になった方が、自分の言葉を聞いてもらいやすいのは確かだ。
心理学的にも、それが当たり前だというだろう。
しかし私は、「誰が言うかよりも何を言っているかが大事だよ。みんなの言葉を平等に取り扱おう」と子ども達に伝えていきたい。