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二軒茶屋餅もの語り【6】未来へつなぐ物語
二軒茶屋餅に出合ったことがきっかけで伊勢の郷土史の面白さにはまった筆者。この面白さを皆様にもお伝えしたくて、二軒茶屋餅角屋本店の会長・鈴木宗一郎さんと社長・成宗(なりひろ)さんに取材したことをnoteで綴ってきました。
今回はいよいよ最終回。前回に続き、伊勢角屋・鈴木家が受け継いできたもの、未来へつなげるものについてお聞きします。
角屋2つ目の家業、昔ながらの醤油づくり
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宗一郎さん:
そやで、昭和19年から28~29年ぐらいまでお餅屋さんはお休み。原料があらへん、仕事があらへん。その間は、醤油の商売をしていました。醤油は必需品やもんで。
―――お醤油は、戦時中に始めたのですか?
成宗さん:
いえいえ、醤油や味噌の醸造は、大正12年(1923年)ごろの創業です。18代の鈴木藤吉、私の曾祖父さんに当たる人です。17代・18代・19代が3代続けて藤吉と申しまして。何か新しい事業を始めようというときに石鹸工場を造るか、醤油をやるかっていうので迷った挙げ句、醤油屋さんをやったらしいです。
―――今から100年ぐらい前ですね。
成宗さん:
今でも伝統的なたまりの仕込み樽を使って造っています。和歌山の大きな醤油屋さんが見に来られて「これ全部、本物の仕込み樽じゃないですか」って驚かれました。農大の先生も見に来られて「すごいですね。こんなん、残ってるとこないですよ」って言われました。
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成宗さん:
あと、はなつけって言いまして、蒸した豆に麹菌を打つんですけど、それも未だに麹蓋でこうやって、レンガ積みで積んでいるんです。清酒屋さんではまだ少々あるらしいんですけど、味噌、醤油蔵でやってるのはこれも非常に珍しいと言われました。
―――昔ながらの造り方を守っているのですね。
成宗さん:
醬油屋を始めた曾祖父は、さすが大阪の丁稚奉公で鍛えられた人で、建屋はその時に新築したらしいんですけど、中の機材は一切新品を一個も買わずに全部廃業される醤油屋さんのものを安く譲ってもらって始めたと聞いています。だから、この辺の物も1923年のときにもう既に中古ですから、相当古いものが置いてあります。
―――堅実に、物を大事に、今に受け継がれてきたのを感じます。
成宗さん:
これが、先程父が言っていました、戦後の砂糖がない時代にうちの家系を支えた商売だったんです。
二軒茶屋餅の変わるもの、変わらないもの
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―――角屋は、昔ながらのお餅や味噌づくりを堅実に守ってきたのですね。
宗一郎さん:
昔はそれで通りましたんやに。これが一生の仕事やと思ってその仕事をするんですけど。今はこんだけ変化が大きいと、10年おきにいっぺん考え直さんことには、これを一生の仕事やと思ったら、もう化石みたいになってしまう。
―――え、変えることを考えられたこともあるのですか。
宗一郎さん:
旧制中学の時分に、時代によって価値観が全部変わることを経験したもんで。上から来る話はそのまま聞かへん。斜めにものを考えるもんで、ちょっと嫌なことばかり言うけれども。
成宗さん:
若い時に絶対と教えられていたことが、終戦を境に100%ガラッと変わっちゃったら、「絶対ということは世の中にないやろうな」となるのは当然だと思います。
宗一郎さん:
戦争で日本が勝ったら日本語が国際語になると思っていました。英語は敵性語。野球でも「ストライク」は「正球1本」言うてた。負けた途端、英語の先生が担任になったんですわ。次の担任も英語の先生。こりゃあ英語を勉強せないかんということかなと思ったもんで、アメリカの『Reader's Digest』っていう雑誌を自分で取ってずっと読んでました。
―――これからの時代を見越して、新しいことを勉強されていたのですね。
成宗さん:
そうなんです。父が若い頃、某コーラ飲料を日本で販売したいってアメリカに連絡を取ったそうで、「独自の販売網を築くから」って断られたって言ってました(註:日本第1号のボトラー社が誕生したのは1956年)。
―――これからは流行るものをいち早く目を付けていた。
成宗さん:
スーパーもいち早くやろうとしたらしいです。まだ対面販売が当たり前の時代でしたから、祖父に「お客さんが取ってもうたら全部盗まれるやないか」って言われて終わったらしいですけど(註:日本初のセルフサービスのスーパーが誕生したのは1953年)。
宗一郎さん:
太平洋戦争後、預金封鎖・農地解放・財産税なんかで、土地や財産は没収された。けど、勉強して頭の中に入れたことは没収されへん。お金とか物とかそんなものは、時代が変わると価値がなくなってしまうけれども、頭の中に入ったものは、どんな世の中になってもまた使えるでね。
―――重みのある言葉、肝に銘じます。
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宗一郎さん:
それでも、自分がこの家業を引き継いだからには、昔ながらの生餅をつくる。お客さんから「駅の近くでも出してください」と言われるけど、そうすると生餅を貫けない。ずっと悩みながらも生餅づくりは変えませんでした。
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成宗さん:
私は二十代で、角屋の3つ目の新しい事業、クラフトビール製造を始めまして、本当にやりたいことをやらせてもらえました。
だからこそ、昔ながらに残っている二軒茶屋餅の良いところをちゃんと紡いでいきたいんです。原点回帰すべきところは原点回帰していきたい。お餅の売り場をたくさん増やすことよりも、この二軒茶屋へ来てくださったお客様に物語をきちんとお伝えすることの方が、角屋にとって遥かに大事で価値あることだと思っているんです。
〈了〉
茶屋のきな粉餅を食べたことで、二軒茶屋餅が貫いた生餅、そして440年以上の歴史を紡いできた角屋・鈴木家、そして町衆が自由闊達に活躍した伊勢の郷土史までつながりました。土地の記憶・風土の物語に出合うことがこんなに楽しいとは。これからも伊勢の物語、そして日本各地の物語を探していこうと思います。
鈴木宗一郎さん、成宗さん、本当にありがとうございました。