ある夏の日
小学生の夏は、いつもまーちゃんと川へ遊びに行っていた。
何てことはない。田舎は川へ行くことくらいしか、やることがないのだ。
いつも行く川は、道路脇のガードレールから鉄の「階段」がぶら下がっていた。「ハシゴ」ではなく鉄でできたちゃんとした「階段」が、ガードレールの足元に太い2本の鎖で巻きつけられていた。なぜこんなところに階段が、まさに取って付けたようにぶら下がっているのか、いつからある階段なのか誰も知らなかった。使い方は、ガードレールを乗り越え、滑らないようにへっぴり腰で下って行くだけだ。手摺も無いし、鎖だって安全は保証されていないし、やんちゃな男の子たちが勢いよく乗るとグラグラ揺れてとても恐ろしかった。しかも階段は中途半端な長さでなので、川底へ行くためには最後の段からは飛び降りなければならない。今思うと、かなり危険な場所だったのではないかと思う。
普段はごうごうという音を立てて流れる川幅の広い川も、夏になればいつも干上がっていいて普段は入ることができない場所に行くことができた。川が干上がると、乾いてひび割れた川底に小さな池がいくつもできて、取り残された小さな生き物たちがその中だけで小さな宇宙を作っていた。銀色の小さくて泳ぎの早い魚や、細長い魚など、いつもの流れの速い川では見失ってしまう生き物が沢山いて、私たちは夢中になって虫網ですくったりした。ある時遊びに行くと、その水たまりの中に、今まで見たこともない魚がいた。ぎょろっと大きな目玉と大きな口、長い髭のおそろしく大きなナマズだった。夏の川の水たまりは水鳥達の格好の餌場になるのだが、それは、あまりにも大きかったため、白鷺にも食べられることもなく、運良く生き延び、また、運悪く小学生に見つかってしまったのだった。
「どうする?持って帰って飼う?」
とまーちゃんが言った。ふと1つ年上のあきちゃんの家の玄関を思い出した。あきちゃんの家はお金持ちで大きな水槽があった。そしてあまり掃除もされてなさそうな緑の水の中には水槽からはみ出さんばかりの大きなナマズがいて、時々深い緑の水の奥からヌッと顔を出してはこちらを睨んでいたのが不気味だった。あきちゃんの家をしてもっても持て余している魚を、どうして私の家が飼うことができようか。
「もしかして、川の主かもよ」
私が言うと、まーちゃんの目がイキイキし始めた。そう、田舎は他にすることがないのである。川の主に出会えるなんて、六本木で偶然、石塚英彦のロケに遭遇して「まいうー」なんて言ってしまうくらい貴重な体験なのだ。もちろんそうなると次にする行動は「捕まえる」である。私たちの武器は、私が家から持ってきた頼りない虫網1本だけである。しかもこの虫網は、私の家の前にある丸市商店で買った虫網である。このお店は、当時はよく見かけるタイプの個人商店で、ミカンや新聞やお菓子やちょっとした生鮮食品が売っているコンビニのようなお店だった。丸市商店のおじさんはとても気さくで面白いおじさんで私たちは大好きだった。しかし、当時の虫網というのは、竹の棒に、針金の輪っかがぐるっとついたもので、破れやすいネットが張ってあっただけのものが主流である。いくらおじさんが良い人でも、虫網も良いものとは限らなかった。だいたい3回ほど使えば穴が開く。そして針金も弱いので、使う度に、骨折した首のように変な方向に曲がるので毎回元の位置に戻さなければならない。そんな、最弱装備で挑む戦いは結末が見えているようなものだが、それでも挑戦するので小学生は怖いもの知らずである。ズボンを膝まで捲し上げて水たまりの中に入れば、しまった、外から見てるだけでは分からなかったがかなりの泥が沈澱しており、足はズブズブと沈みあっという間に膝は飲み込まれてしまった。もちろんズボンのお尻も泥水に浸かる。しかしそれで諦める私たちではなかった。視界の悪い中、一人は追いかけ一人は虫網を構える。足元をぬるっとしたものがすり抜ける度に何者かが川底に私たちを引きずりこもうとしているような感覚にゾッとなる。足の指の間に細かい泥が入り込み、時々ある尖った小石を踏み抜いて絶叫し、追い回してなんとかナマズを網に入れた頃にはすっかり夕暮れだった。バタバタ暴れ回るナマズの入った重い虫網を二人して持ち上げ、まだ流れが残っている川の端まで運搬する。よいせっと放流すれば、体がぐらつき自分達も落ちそうにるところをお互いの手を引き合って何とかバランスを取った。大きな水音はしたがもう陽が暮れてナマズが泳いでいるかは確認できなかった。
数日後に大雨が降って干上がった川が一時的に元通りになったのだが、ナマズにしてみれば追い回されて散々である。