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あの日あの頃 私の原点

月刊『財界九州』2023年8月号の《あの日、あの頃》のコーナーに掲載された。その内容は本ブログで、過去に書き記してきたものだが~。ただ、地方の精神病院経営を生業とする私のこれまでを、時代遅れの精神医療業界の学会誌等ではなく「経済誌」で取り上げていただいたことに意味がある、と。ただ、日本経済も失われた30年だが・・・、まいいか!
そこで本ブログにても再掲。

あの日あの頃 私の原点

依存症治療に効果を上げた「夜間集会」

「夜間集会」とは西脇病院独自の呼称である。現在も続いているこの取り組みは、最初は、アルコール依症者を対象に、参加者に当事者の体験談を話してもらうことから始まったが、時代とともに精神科疾病構造の変化に伴い、今や薬物依存症、強迫的ギャンブル、うつ病、摂食障害など、多様な患者の集まりとなっている。
この集会の始まりは45年前にさかのぼる。当時、私は、長崎大学医学部附属病院精神神経科に籍を置いており、父がまだ理事長・ 院長の西脇病院には週に一回非常勤で勤務していた。ある時、国立久里浜療養所(現・ 久里浜医療センター、神奈川県)で、その年から行われるアルコール医療の研修会への受講をすすめられた。その時が第1回で、2週間だったように記憶している。研修内容はあまり覚えていないが、研修最終日に、当時の国立療養所久里浜病院の河野裕明副院長及び病棟スタッフと、退院して街で暮らしながら回復をはかっている患者OBとの懇談会が行われた。その集いにはもちろん私たち研修生も参加した。懇談会の中ほどで一人の患者OBが微笑みながら語った。「私は3年もやめたので、ぼちぼち酒を飲もうかと思っています」と。私はその頃、1年以上アルコールを断ち続け、治療につながっている患者を知らなかった。内心では「おいおいせっかく3年もやめているのにそんなこと考えて、それを治療者の前で口にしてもいいのかい?」と思いながら、河野先生の反応をうかがおうと、彼のほうへ視線を移した。河野先生も笑顔で、ただ黙ってニコニコされているだけで、別に何の指導、助言もなかった。「これでいいのか」と驚いたが、その瞬間、私もやりたくなった。
そこで、長崎に戻ると、西脇病院に入院中のアルコール依存症の全患者を診察室に集め「これから週に1回、私が当直の夜、1時間から1時間半程度みんなで病室に集い、これからの生き方を一緒に考え、語り合いを行うので参加してほしい」と伝えた。1回目は、私と6人の患者が参加してのスタートだった。そして幸運なことに、この6人の最初の参加メンバーは退院後も通院して、この夜間集会にもほぼ毎回、引き続き参加してくれた。おかげで、退院したら夜間集会に参加する、というのが患者間での伝言事項となった。しかし、その後、年月がたつ中で精神科痴愚の疾病構造の変化に伴い、患者はアルコール依存症者に留まらず、薬物依存症、強迫的ギャンブル、うつ病、摂食障害、時には寛解を維持している統合失調症の患者と、参加者の顔ぶれは多様化し、人数も増えて、毎回50名あまりが参加する大集会になっていった。病室には入りきらなくなり、管理棟の会議室、病棟食堂ホールと転々とすることを余儀なくされた。現在は、十数年前に建てた新館の病棟の一つをストレスケア病棟にして、そのホールで毎週火曜日に開催している。
この集会では、言いっぱなし、聞きっぱなしとし、会を進める私も一切助言をしないスタイルで続けている。これはプライドなどから自分の病を受け入れられない“否認”の問題を抱える患者に対して「説得より納得」に良い効果を与えるためだ。もちろん、外部参加者に参加費を要求することはない。新患、家族には出席を促している。
夜間集会は、入院中のアルコール依存症患者を一人ひとり診察するだけの時間が足りないのを補うためという側面もあったが、夕食後にみなで集い語り合ったことが、退院後の患者のよりどころや居場所の提供となっている。また、当初は、夜間集会と断酒会のみだったが、近年は当院が施設を提供するミーティングなどが多くなり、加えて今では、それが地域全域への広がりをみせて多くのミーティングが、地域内でも開設されている。依存症とは、プライドの病であり、自分の弱さを弱さとして認めきれない否認の病でもある。自分の弱音を吐露でき、自らに正直に向き合える場を見つけることが、治療、回復の第一歩だと確信している。


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