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社会的入院を強いられてきたのは統合失調症者(精神障害者)だけではなかった。

①警察からの要請

▼患者の引き渡しを拒む

父の逝去後に精神病院を継承して3年あまり(1985年ごろ)経った年の暮れの出来事である。
知人数名に伴われて、私と同世代の男性が西脇病院に連れてこられた。薬物依存症であった。覚せい剤を常用し、被害・関係妄想が出現、身重の妻に暴力をふるい、妻の両親が警察に通報していた。しかし、知人が治療を優先させたいとして、私の病院に連れてきたのだった。

当時は、まだ、精神衛生法の時代であったから、任意入院なる入院形態は存在しなかったが、本人も覚せい剤起因の妄想体験に悩んでおり、治療を望んでいた。そこで、病状の改善後は、覚せい剤取締法に基づき警察に出頭することを同意してもらったうえで入院を受け入れた。

ところが翌日、警察の護送車が病院前に乗りつけてきた。そして、屈強な刑事が複数名、診察室に入室し、入ってくるなり、一人の刑事が「昨日入院した男は、暴力団構成員のヒットマンであることはご存じだろう。あなたの病院は病状が改善したら、自首させるとの情報があった。覚せい剤不法所持で逮捕、立件しても、彼の刑期は長くない。彼はこれからも凶悪な犯罪を起こす可能性がある。長期入院を受け入れてくれる病院に連絡したところ、入院を受け入れるとの返答をもらっているので、引き渡してほしい」と私に申し渡した。

確かに、当時は各県に数か所の収容型の精神病院が存在していた。私は、その長期入院を受け入れると返答したという病院の医師が、彼の診察を行ったうえでその判断をしたのかどうかを刑事に尋ねた。返答は「否だ」、と。そこで、当該の患者にその病院への受診の意志を確認したところ、当院での入院継続を希望した。よって、私は当院で彼の入院治療を継続する旨をはっきりと(実は恐る恐るだが)伝え、警察にお引き取りを願った。

30代半ばの病院管理者である私にとってそれは非常に、怖い体験であった。今思い返すとよくあの度胸があったものだと思う。
その出来事は年の暮れのことであったので、翌年明け早々に、県内の精神医療機関の精神衛生法に関わる監督官庁である長崎県保健部にその詳細を報告した。そして、「先方の病院は受け入れに応じただけで、医師による診察は行われていない。その状況下で、私に患者の引き渡しを迫り、『入院が決まっている』と明言した刑事の行為は、医師法第4章第17条『医師でなければ、医業をなしてはならない』に反してないか」と問いかけた。しかし県当局からは、「警察の取った行動は適正である」という回答が返ってきた。

その出来事の数年後、宇都宮病院において不祥事が起き1987(昭和62)年には、改正精神保健法が成立し、任意入院が制度化された。そのヒットマンの患者は、西脇病院を退院後、重大な犯罪に関わることはなかった。そして、退院後しばらくしてから、入院当時はまだ彼の妻の胎内にいた女の子をしっかりと抱いて訪れてきた。その後、音信は途絶えた。今存命なら私と同じ77歳だ。
また、県当局から、当時の回答が不適切なものであったとの謝罪を得たのは、2007(平成19)年になってからであった。

②保護観察所からの要請

▼代用刑務所

次にお話しするのは、池田小学校事件の後、朝日新聞が2001(平成13)年7月4日から6日まで3日間にわたって一面を割いて報じた特集「精神医療と法」に掲載されたもの(5日の一部)である。

〈昨年9月、九州の民間精神病院の院長あてに、一通の公文書が届いた。この病院に通院しているアルコール依存症の男性患者に対する問い合わせの手紙だった。
差出人は、執行猶予や仮出所した人などの指導監督に当たる地元の保護観察所長だ。文書には「協力等依頼書」とある〉

く男性患者は昨年4月、酩酊状態で傷害事件を起こした。主治医だった院長は「責任能力あり」と判断し、結果的にその男性患者は起訴された。院長は、刑を受けることが今後の治療の上からも望ましいと考えた。本人の自覚を促すことになるからだ。男性本人も実刑を覚悟していた。ところが判決は執行猶予つきの有罪判決。男性は保護観察処分となった。
保護観察所長からの手紙には「本人は現在、実害はないまでも飲酒しては周囲に対する迷惑行為が顕著である。今後も問題行動が続くならば、貴院において強制入院は可能か」とあった。
院長はこう回答した。
「本人の問題行動(再犯)を司法化(執行猶予の停止)ではなく、医療化(措置入院)することが可能かという質問と理解します。これは、精神病院を刑期のない代用刑務所として活用できないか、との問いかけであるとも受け止められます」
以後、保護観察所長からの返事はなかった〉

朝日新聞 特集「精神医療と法」
2001(平成13)年7月4日~6日(5日の一部)

もう年月も経過している。明らかにしてもいいだろう。九州の民間精神病院の院長とは、私のことである。
この件も“内々に”というわけにはいかないので、県当局に電話で報告し、法による適正な対応を求めた。しかし、その後にいただいた返答は、何か奥歯に物が挟まったような内容であった。

その男性患者は、保護観察所長が危惧したように、実害はないまでも飲酒酩酊による迷惑行為を繰り返し、泥酔と身体合併症も進行していったことから、頻回に救急病院への搬送が行われた。そして当然のごとく、アルコール性肝硬変から肝不全となり、終末期を迎えることになった。しかし、そのときには、彼を引き受ける病院はもうどこもなかったので、当時彼が通院していたメンタルクリニックからの要請で、私の病院で引き受けた。西脇病院は精神科専門であることから、肝不全に対する十全な治療はできず、入院の翌日には亡くなった。

最後までサポートしてくれていたメンタルクリニックの院長には、次のように死亡した旨の報告を行った。「24日午前に入院されましたが、夕刻より呼吸不全となり、25日早朝6時に亡くなられました。救急救命病院も彼のこれまでの行動から、受け入れに消極的で、やはり最後は当院でした」と。

③児童相談所からの要請

▼そして今も
小さな記事だが「氷山の一角」
2023年2月7日 西脇健三郎(ニーケン)-noteより


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