
マスメディアとの付き合い方 2008年版 ラジオの時間と映画の時間
2025年現在、情報発信の術は様々だ。とてもついて行けそうにないと思いつつ、マァいいかと、こうしてnoteに同じ年のタレント高田純次曰く「年をとったらやってはいけないことは、昔話と自慢話、そしてお説教」を何時も発信している。何処かで誰かに老害と疎まれながら、今日の情報社会にしがみ付いているのである。
先に紹介した2009年の長崎新聞の投稿記事、今思うとあの内容を社会面(いわゆる3面)に、それもかなりの紙面を割いて掲載してくれた、と感謝である。確かにあの頃は新聞各紙の取材にもよく応じていた。それが自らの思いの発信元だった。他にも色々と・・・。
そこで、その色々を紹介してみよう。これ、昔話だよ!
日本精神科病院協会雑誌 2008年4月 特集 精神科医療とメディアとの距離
「マスコミを受け入れるということ」著 西脇健三郎
ラジオの時間
当院では、1999年から2000年にかけて新改築を行い、私の理念である「機能分化」「ダウンサイズ」「利便性の確保」が実践できる施設面の環境づくりを一応整えた。そこで、この際、地域の人たちが心の病を自分のこととして考えてもらえるようなメッセージを、装い新たにした精神科病院から発信できないものか、何かもっと精神科病院が地域の仲間入りをさせてもらえることができないものか、という思いを持つようになっていた。
当時、地元民放のラジオ局で、毎週土曜日の午後、放送局を飛び出し、繁華街、あるいは観光名所、さまざまな商業施設にスタジオを移してラジオ番組が行われていた。たまたま、その番組の担当アナウンサーとは知己の間柄。「うちの病院から放送してみたら!」と持ちかけたところ、その声かけから約2ヵ月後に実現したのである。
新装した建物の最上階、研修室と命名したものの、まだ研修室としての役目を発揮する機会に恵まれていなかった一室に、まず放送用ミキサーが運び込まれた。そして、テーブルには放送用のマイクが置かれ、さらにバックバンドであるマリンバ・パーカッションの打楽器なども設置され、見る間にスタジオヘと様変わりしていった(見出し画像)。さあいよいよ放送開始だ。「どこでも行きます270分、熊ちゃんとゆっこの引越しラジオ!隔離じゃなくって、開放的な精神科病院、西脇病院からお送りします」と、さっそく今日の引越し先が西脇病院であることをゆっここと由紀子アナウンサーが紹介してくれる。「いまは別に開放的なのが精神科病院の売りではないけど、まあいいか」等と思っていると、熊ちゃんこと熊切アナウンサーがすかさず、「この病院、木目調ですよね。すべて木、何か意味があるのですか、やはり心が癒されるのですかね」と、その後4時間半たっぷりお付き合いさせていただいた。もちろん私1人ではそんな長時間、おしゃべりの専門家に太刀打ちできるわけはない。幸い、途中からダルク相談室の室長が応援に駆けつけてくれたり、眼鏡橋のたもとにある西脇診療所に移動放送車が出かけ、そこで診療所長にもインタビューに応じてもらう等、おかげで順調に番組は流れていった。また由紀子アナウンサーも「西脇病院探検隊」と称してレストラン、病棟、デイケアセンター等、病院内を番組の合間合間に駆け回り、職員へ、そして患者さんに、さらには当日行われていた家族教室に参加の家族の方々にもインタビュー、皆さん気軽に、それも楽しみながら取材に応じてくれ、終わってみたらあっという間の4時間半であった。こうして精神科病院発、270分間にわたる長崎県下全域、佐賀県、熊本県の一部に向けての完全生放送は無事終了した。
今回の精神科病院からの270分完全生中継は、精神科病院も地域の社会資源の1つであると認知される先駆けにでもなればといった思いで始めたことであった。だが番組終了後、多くの友人、知人たちが尋ねてきたのは、「270分の放送にいくら支払ったの?」であった。もちろん、番組の取材に協力し、場所を提供しただけ、といったことで無料である。また逆に私も出演料はいただいてはいない。
とにかく精力的に番組を組み立ててくれた地元民放ラジオ放送局のスタッフのおかげで、私たち精神科病院に勤務する者が社会参加の1つの貴重な機会を与えてもらえたわけだし、また、番組時間内も地域からの入院要講を受け入れる等、日頃と変わりなく淡々と業務を行ってくれた病院職員、そして、それなりのスタンスでこの生放送に協力、お付き合いいただいた入院患者の皆さん方、そういった人たちに感謝しつつ、尋ねられた内容はともあれ、地域の友人、知人の反応から少しは地域社会に精神科病院も仲間入りさせてもらえたかなと思ったものであった。
映画の時間
私は当時、60歳近くになるそのときまで、私の「人生」にとって映画は観るものであって、制作する側になるこという願望はあったとしても実現できるとは思ってもいなかった。ところが、その映画制作が一時期私の「生活」の一部になったのである。幸い、寿命(「生命」)を縮めるほどの出来事ではなかったが・・・。それが「いつか読書する日」(2005年モントリオール世界映画祭審査委員特別賞受賞)の長崎ロケーションであった。というのも、この作品の緒方明監督と私の病院に勤務する医師が中学校時代の同級生であったことから、この映画制作になんらかの関わりを持つことになった。
長崎でオールロケーションを行うことになったことから、ロケーションにふさわしい場所を探さねばならないと、事前に制作担当者が訪れて来た。いわゆるロケハンである(私はそれまで映画制作にそのような作業があることすら知らなかった)。そこで、とにかくロケーション現場として利用できる家屋が必要であるとのことだった。たまたま、私の亡くなった両親が住んでいた家がまだ空き家になったままであった。それも、山の斜面に建っていて、それまで聞いた映画のイメージにピッタリの気がしたので、早速、制作担当者を案内して、亡き両親の住まいを見てもらった。玄関、居間等、数カ所を眺めながら、制作担当者が「西脇さん、ここはいいですね。使えますよ!」と。これがいけなかった。乗せられてしまったのである。
それからは、診療はそこ、そこに、病院の相談室を撮影では会議室に、また、主人公の大場美奈子(田中裕子)が勤務し、レジを打つスーパーマーケットは、義弟が経営するスーパーマーケットにと、強引にロケ現場を決めていく私があった。私は映画人になったと錯覚をおこしていたのである。そんな私に「西脇さん、どうしても1つ決まらないところがあるんです。椀多(岸部一徳)が妻の容子(仁科亜希子)を介護する住まいが見つからないのです」と制作担当者の関君が遠慮がちに・・・語りかけてきた。勢いとは止められないものである。「なら、うち(自宅)のキッチンとリビングを使うといいよ」と私は言った(言ってしまった)。結果、約10日間、わが家のキッチンとリビングはロケ現場となった。家族は妻の実家に預け、私は診療が終わり帰宅してももちろん撮影は続いている。そこで、2階の自室で息を潜めて、缶ビール片手にそれこそ、いつも読書する日々であった。
「生活」の中にしっかりと映画制作がやってきたわけだが、私は最後まで実際に参加することはなかった。やはり、映画人にはなれなかったのである。ただ、わが家が映画の中にまぎれもなく登場する。私と家族にとって、わが家を撮影に提供した数日間は、「人生」のいい思い出になることは間違いない。確かに、映画づくりとは魅力的で、見事なものである。でも私はこの多少の関わりの中で、これからも分をわきまえ、好きな映画をいつも観る側で楽しませてもらうのが性に合っている、ということを改めて悟らせていただいた。
ただ、このような経験をしたことで思うに、精神科病院を表も裏もよくわかってもらい、精神障害者についても十分理解してもらったうえで、三谷幸喜、宮藤官九郎、周防正行あたりの脚本、監督で、親しみやすい小酒落た精神科病院物語を描いてもらいたいものである。