ジェットコースター人生 その34
地方巡業ならぬ展示会キャラバンは無事2年を終えて、最後は大阪天満橋の会場でありました。
最後の日には私や兄の応援もあり娘はホッとした表情をしています。「やっと終わったー。当分こんなしんどいことはお休みさせてもらいます!」夕食の時、高らかに宣言。
一番大変だったのは一緒に全国を回るそれぞれの企業との人間関係だったと後日漏らしていました。わが娘ながらよくやったと心の中で褒めました。
二人が大学を卒業するまでは、何一つ我が家の状況は話しませんでした。
兄は私が倒れた時、東京からの新幹線である程度は覚悟したようですがその何十倍もの現実は知りません。
東京で就職するものと思っていたのに、卒業後は私を手伝いたいと言い出しました。
表向きは繁盛しているように見えても背負っている荷物はなかなか減りそうにありません。
親の会社に入るとは。特に我が家のそれは何かで簡単に飛んでいきそうな、か細い屋台骨です。ほかに就職する方がいいに決まっていると言ってもがんと意思を曲げません。
周りからも「一度はほかの会社で勉強した方がいいよ」とアドバイスされても気持ちを変えることはできませんでした。
一応私と娘が営業で外回り、息子は事務所で総務として働くことになりました。ほかにはその都度、企業からの応援や大学生のバイト、エスティシャンなどであちこちへ出向きました。
身内の良さと不都合は時間とともに顔を出し始めました。
ある日、娘が付き合っている人がいると告白?しました。
真剣な横顔に彼女を自由にしてあげる時期が近いことを悟りました。
うちのエースを失くすことは会社にとって痛手ですが、幸せになりたいと
思っている娘を縛る権利は私にはありません。
二十歳も半ば巣立ちは急にやってきました。