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11/24 雑記 考えのあれこれ4『憂鬱な少女たちのシ』『植物姉妹』読了

 今日は、昨日の寒さはなんだったんだろうか? っていう暖かさ。
 今日は、文フリでゲットした『憂鬱な少女たちのシ』『植物姉妹』『ひだまり童話館短編集4あおい話』を読む。

『憂鬱な少女たちのシ』『植物姉妹』

 この二つは木爾チレンさんの作品。『植物物語』なんだかんだ最後の方で泣きそうになってしまった。なんでなんだろうって思う。どういう感情からなのか、掴みきれない。なのに動かされる。不思議な感覚でした。

 ひだまり童話館はまだ最初の方。
 明日は映画に行くので読めないかなあ。

***

 またしても昨日の続きだよ。


 1234と同じテーマで書いてきたんだけど、これで一旦メモは完了かなと思う。
 自分以外の人にはよくわからんのではないかと思う。
 小説にするのが一番スッキリするとは思う。
 そんな楽しくなりようのない話、誰も読みたくないだろうが。
 ↓こちらの続きです。

 『天気の子』を映画館で見た時に驚いたのが、「誰かを犠牲にしない」と言うことだった。
 世界が崩れても自分の大切な人を優先するって、このストーリーはなんだろうか?? ってもやっとしたのを覚えている。
 でも、これが物凄く流行った。
 若い層にこれがどのような意味でもって爆発的に受け入れられたのか、気になっていた。

 小学生の頃佐々木淳子さんの『ダークグリーン』と言う漫画が好きだったんだけど、最後は世界のために誰かが犠牲にならないといけないというのがせつなかった。
 あらゆるアニメや映画作品でも物語はそういう展開を踏む。
 『すごい神話』に書いてあったと思うんだけど、物語は神話のパターンをなぞっているということだった。

 上映から何年か経った今、もううろ覚えになっているんだけれど、天気の子の世界(東京)は崩れるが、滅びたわけじゃなかったよね。
 非常に、自分達にとって都合が悪くはなったがなんとか生きている。

 私がもやっとしたのは、その中で生活するヒロインは日々罪悪感を持ち続けることにならないか? と言うことだった。

「私が役目を果たさないせいで」
「私さえ犠牲になれば」
「私のせいでみんなが困っている」

 こういう心情が降り積もってしまうのではないかと思ったしそう描かれるのではないかと思ったんだ。
 だから二人はどうしても心からハッピーになりきれない。

 たとえどんなに
「君のせいじゃない」
「どうして、君が犠牲にならなきゃいけないんだ」
「これでいいんだ」
と隣で言い聞かせたとしても、自分のせいだと思わされるというか。罪悪感は拭いきれない気がした。

 だからすごくモヤモヤした。
 このモヤモヤが考えさせられていいという感じで流行っているのなら納得がいったのかもしれない。


 いま、『天気の子』のこの展開を私は受け入れる気持ちになっている。
 多分それは私が気がつかないうちに誰かに罪悪感を感じさせ、当然のようにいろんなものを犠牲にさせてきたんだなと実感しているからなんだと思う。

 従来の「世界のために誰かが犠牲になる物語」は「せつない」感情を残した。強い感動を引き起こす。
 犠牲となった人物のことを思うと心が痛むからだ。
 この時罪悪感を感じるのは犠牲にした私たちの側だ。
 でもそれはすぐに別の感情に塗り替えられる。
 世界が崩壊しなかった幸福感を周囲と分かち合うことになるからだ。
 犠牲者に感謝をして安堵する。

 しかしこの犠牲者が目の前で犠牲になり続ける姿を見続けなければならないとしたらどうだろうか。
 安堵し、生活し続けることができるだろうか。心から幸福でいられるだろうか。 
 毎日毎日戦ってボロボロになっていく、一人の犠牲者の前で。
 きっと耐えられないね。
 忘れて生きていくから、目に入れないようにして生きていくから笑って生きていけるんじゃないかな。
 だから見続けても平気でいるために、人間の心はいずれこのように防衛する。

 「この子が犠牲になるのは当然だ」
 「犠牲になるべき存在なんだ」
 「このように世界はできているんだから」
 「この子もそう望んでいるんだ」
 「役割だよ」

 そしてもし犠牲者がその立場から退こうとしたなら大いに焦る。

 「そんなことをしたらどうなるか、わかっているのか」
 「君のせいで世界が滅ぶんだぞ」
 「世界はそういうふうにできているんだから、役目を果たしなさい」
 「君がその立場を選んだんじゃないか」(選ばざるを得なかったにも関わらず)

 そもそも犠牲になっていたなんて見たくも知りたくもないから、犠牲者のしんどさなんて聞きたくもない。元の世界を維持できればそれでいい。
 心の痛みを抑圧して、これでいいと正当化してあんていさせたのに、再び痛みを感じさせられるのは嫌だと防衛し、無神経になったんだ。
 だからそんな愛のない言葉が出てきてしまう。

 『天気の子』でヒロインが罪悪感を抱くだろうと思ったのは、たとえ誰に言われなくても自分の心がこれらの声を再現するからだ。 
 誰に君のせいじゃないと言われようと、心の中の声は簡単に消すことはできない。


 従来の「世界のために誰かが犠牲になる物語」を繰り返しなぞらせることは(支配者にとって)とても都合がいい。
 だから天気の子が意図的にこのパターンを破壊する展開を描いたのだとしたら、意欲的だなと思う。
 現実的に見て、誰か一人が犠牲になる世界より、多くが不便を分かち合う世界の方が真っ当だよな。
 このヒロインに湧き上がってくるだろう心の声をも破壊して、それでも私は犠牲にならなくてもいいと心から納得する展開を見たいなと思う。


 書きながら、女性問題や、安い労働力として使用されている人のことを想像していた。
 「君らがやらないとみんなが困るんだよ」というのは非常に愛がない言葉だと思う。
 でもいう人はそのことに気づいてない。きっと前述したようなメカニズムによって。

 安い労働力によって100円を保っていたのが300円になるのは労働者のせいじゃない。是正しただけだ。
 家事介護子供を産み育てる無償労働を押し付けることによってバリバリ働くを実現していたのに、同じように働けないからいらないと女性の進出を切り捨てるのはフェアじゃない。無償であったものを含めた労働の仕方そのものを是正しなくてはいけない。

 なのに犠牲者が「嫌だ」と主張すると、愛のない言葉によって罪悪感をしょわされる。しょわされるがままに背負い込む(犠牲者が怒りを自分に向ける)のはもうやめないか。と言いたい。
 防衛したせいで無神経になった人の愛のない言葉に反応し怒りを向けるのもやめないか。見たくない人に無理強いしてもより一層抵抗されるだけだ。
 自分や他人に闇雲に怒りをぶつけてもいいことは何もない。

 とはいえいずれ、見たくなくても自分が踏み躙り犠牲にしているものを可視化して、愛や思いやりに欠けた言葉を発していることに気が付かなきゃいけない。
 そのために踏み躙られている人は主張し続ける。
 まずは必ず愛のない言葉が返ってくる。
 それはもう織り込み済みにしておく。失望するだろうけど期待してなかった分怒りは湧かないかもしれない。やっぱりなあと悲しくはなる。その気持ちを受け止めよう。
 そして見たくない人が見ようとできるように防衛を解く。
 つまり相手の言い分を聞くのが最初のステップだね。
 ハードルの高そうな人をにいきなり立ち向かわなくてもいい。
 理解できそうな人を選べばいいんだ。

 フェミニズムについて考えていたのはこんなところかな。
 男性問題のあれこれはゴッドファーザーの感想の時にも書いたけど、仕組みについてはメモしていなかったから、それも書きとめておきたいところ。

 おやすみなさい。


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