笑うことと驚くこと
多くの人は、誰かと話すとき「きつい言い方にならないように」とか「丁寧に」「相手を傷つけないように」ということを気にすると思う。
私もそうだ。
でもそれ以上に気を付けているのが「笑うこと」「驚くこと」だ。
生徒さんでも仕事の相手でも友人でも家族でも。
相手が言ったこと、やったことに関して、「笑ったり」「驚いたり」したくなることはある。いきなり「エーツ」と言ったり「あはははは!」と笑ったり。そんなとき、一瞬だけ、注意するのだ。
笑いや驚きは、言葉よりも感情がストレートに出る。だからごまかせない。
その分それは相手に言葉よりも良くも悪くもインパクトを与えるからだ。
多くはこちらを「笑わせようと」「驚かせようと」してやっていたりする。だから、そうと感じ、実際にも面白かったりびっくりしたなら思い切りやればいい。
でも、時々、「笑わせるつもり」も「驚かせるつもり」もない場合がある、ということを少し頭の片隅に置いておくことは必要なことだ。失敗談や目の前で何かやらかしたとき、笑いが救うこともあればも傷つけることもあるからだ。そこの見極めはとても大事。遠慮のない相手ほどやってしまっていることもあれば、気を遣う相手を盛り上げようとしてやってしまうこともある。
要は、相手をどれくらいよく見ているか、だと思う。
要は笑いも驚きも信頼関係あってこそなのかもしれない。
子どもたちは往々にして、こちらがびっくりするようなことを言ったりやったりする。でも本人は真剣だったりする。そういう仕草は大人にとってはかわいらしくほほえましく、また面白かったりする。でもその時はぐっとこらえるのだ。相手をよく見ればその子がこちらを笑わそうとしているのかそうでないのかはわかるはずだ。
幼いころの強烈な記憶がある。3歳くらいだったと思う。私は数人の大人の前にいた。その大人たちに私は一生懸命話していた。何を言いたかったのか憶えていないのだが、強烈に覚えているのは、私が発したことに関して、大人たちがことごとく、「大笑い」したことだった。
大人たちは答えるでも共感を見せるでもなく、とにかく「笑」った。
「○○なんだよ」「あはははは」「それでねこうなって○○でね」「あははは」こんな調子で、一言でも私が発しようならどっと笑うのだった。
私はなぜそんなふうに笑われるのかわからなかった。何を言っても笑うので、戸惑い恥ずかしくなった。そのうち、言葉が通じない得体のしれないものに見えだんだん気味が悪くなったのだった。
この場面は大人になっても時折思い出す。手を後ろで組んで壁にもたれるようにして立っていた、そんなポーズまで思い出すほど鮮明に。
私の周りにいる大人はみな、いい人で、かわいがってもらっていたと思う。だからあの時いた大人たちも、きっと私をかわいがってくれた人たちだったと思う。幼児のたどたどしい口調で、何かを一生懸命言ったりするのがかわいくて面白くてしょうがなかったのだろうと、今なら少しはわかる。
でも、楽しく面白かったらいつだって「大笑い」していいわけじゃない、ということを、この時の記憶がいつも私に教えてくれる。驚く、こともしかり。驚く、というのは、その人にとってそのことが「驚くべきことではない」場合、驚かれることで傷つくことがある。驚く表現は、下手するとその人との距離を作る行為なのである。
笑うこと。驚くこと。泣くことも、かもしれない。
どれも諸刃の剣と思う。
表現者としては敏感でいたい。