"仕方ない"という言葉
先日「痛みの特効薬」というブログを書きました。その追記ではないですが「痺れが辛い」という訴えをどう捉えて貰えるかで肉体的な痛みが増減する訳では無いとは思っています。
けれども"ここまでやってもらえたのだから仕方ない"と諦めがつき、痛みと付き合っていこうという覚悟が患者の側にできるということはあるのではないでしょうか。
知り合いの関西の理学療法士さんは、入院中の患者さんの希望を"病院だから無理です"とすぐに却下するのではなく"何か方法はないか立ち止まってみませんか"という内容のポストを時々しています。
人には各々の人生があり、何を大切に生きたいのか逝きたいのかはそれぞれで、それを他人か"非常識なこと"とか"些細なこと"と判断するのは違うと私は捉えています。
もちろん病院側からしたら「そんな希望は考えるまでもなく無理だ」ということも多々あると思います。そのことも十分に理解しています。が、それでも"何とかできないだろうか?"と考えてみることは"痺れを何とかできないだろうか?"と考えることと似ているように思います。
ブログに書いて来ましたが、くも膜下出血を発症してから医療の場において様々な事に出会い、断ち切れない思いになかなか前を向けずにいました。
過去を振り返ったときに人が悔やむのはどんな場合でしょうか?
結果が全てではないと私は思っています。
痺れを訴えた時に"仕方ない"で終わらず、たとえ形だけでも手を取り診察されることで気分的におさまるところはあると思うのです。
先生が"治療法を色々調べ何種類もの薬を試してみたけれど効き目がなかった"という場合には、同じ痺れでも患者の側が"仕方ない"と思い諦めがつき、初めて痛みと共存していく道を探し始められるのだと思います。
それを医療従事者の側に"仕方ない"という言葉で門前払いされてしまうから、患者の側に悔いとして残ってしまうのではないでしょうか?
回復期退院後、2年が過ぎた頃から私は痺れに悩まされるようになりました。それに対し今の神経内科の先生は"痺れは仕方ない"とも"死ぬような病気だったのだから"ということもなく、診察の度に症状を尋ね一通りの神経学的診察をしてくれます。そして合う薬がないか思案してくれます。
また、担当の理学療法士さんは振動の幅や強さを細かく調整したり、気圧変動に対する耳のマッサージなど、私の痺れを軽減する方法が何かないかと細やかに対応してくれます。
そういう医療従事者の姿勢に私は"ここまでしてもらっているのだから仕方がない"そう思えています。決して痺れ自体が軽減している訳ではなく、むしろ悪化しているにも関わらずです。
北風と太陽ではないですが、"仕方ない"という強風を吹かせるよりも、もっと患者の心の鎧を脱がせる方法があるのではないでしょうか?
自分が全力を尽くした時に諦めがつくように、他人が全力を尽くしてくれたときにもまた人は諦めがつくような気がします。
と言っても、たくさんの患者がいる病院という場でひとりひとりの患者に全力を尽くすということが難しいということは患者の側も理解していると思います。
全ての患者に全力を尽くせないとしても、わかり切っていることだからと立ち止まることもせず"痺れは仕方がない"と言ったり"病院だから仕方がない"と言うことは患者に悔いを残させることであり、最悪それは医療不信へとつなげてしまうような気がします。