感受性の向かう先
いつの頃からでしょうか?
"何とかなる"
と思えるようになったのは。
回復期を退院した年の年末に原因不明の痛みに襲われ救急搬送されて以来、少し動くと身体のあちこちが痛むようになりました。
そこに脳疲労が重なると、ちょっとした外出で何日も動けなくなるようになりました。
家で大人しくしていれば疲れることも痛みが出ることもない。だったらもう出かけない方がいいのでは?と何度も思いました。
くも膜下出血を起こし、人間いつ何があるかわからないからやりたいことを精一杯やろう。そう思って退院したはずなのに‥
高次脳機能障害とわかったことも加わり、何のために助かったのか先が見えない日が続きました。
チャレンジと挫折を繰り返しながら迎えた今年の春、家族でディズニーランドに行きました。
行くまでは悩みました。私が行くことで家族に負担をかけてしまうことを恐れたからです。
私が行かなければ家族はパーク内を駆け回ってたくさんの乗り物に乗れるはずです。でも、私が一緒に行けば車椅子を押したり休憩をこまめに取ったりと、確実に足手纏いになります。また、身体の痛みも心配でした。
どうしようとかなり迷いましたが、"一緒に行こう"と言ってくれる家族に引っ張られ、"痛みが出たらその時はお任せ下さい"という療法士さんに後押しされて決心がつきました。
発症から2年目にして訪れたディズニーランドはとても楽しかったです。そして家族は"一緒に行けて本当に良かった"と言ってくれました。また、翌日、定休日にも関わらず痛みの対応をしてくれた療法士さんもとても喜んでくれました。
思い返せばこのようなことが何度となく繰り返されて来ました。その度に悩む私をみんなが励まし支えてくれた結果、ようやく気持ちに踏ん切りがついたように感じています。
人に迷惑をかけてまで自分が楽しんでいいのだろうか?ただでさえお荷物なのに。そんな風に思う自分がいました。
でも何度も繰り返す中で、私が喜ぶならば苦労が苦労でなくなる人がいること。労力を惜しむことなく、私のために手を差し伸べてくれる人がいることを実感して来ました。
その積み重ねでしょうか。先日の関西への旅は何の憂いもなく行くことができました。
現在、両肩に加え右手の腱鞘炎にも悩まされています。そんな中、広報の音訳を頼まれました。
音訳でパソコンを扱うと痛みが悪化します。安静が一番と医師にも言われているので、もしかすると手のためには音訳を断って欲しいと療法士さんは思われたかもしれません。
でも、私のやりたいという気持ちを尊重し、痛みが最小限で済むようにストレッチを教えてくれたり、痛みが出たら対応しましょうと言って応援してくれています。
腱鞘炎や肩関節周囲炎という病気だけにフォーカスするのではなく、私という人間全体を見た上で、多少の身体の痛みよりも音訳をすることの方が私の生活のためには良いと判断してくれたのではないかと思うのです。
生活期という時期は一生続きます。改善しても治ることはない後遺症を抱えながら、この先一生生きて行かねばなりません。
だからこそ時には人の手を借りたり痛みが悪化しても限度さえ超えなければ、自分のやりたいこと、楽しみたいことをやってもいいのかもしれないと思えるようになって来ました。
健常だった頃だって程度の差はあれども、人の手を借りたり迷惑をかけたりしながら生活して来たはずなのですが、当時はその意識が薄かったのかもしれません。
とかく卑屈になりそうな自分ですが、鋭くなった感受性を出来れば感謝の方に向けて生きていければと思っています。