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信頼関係の第一歩


不安な気持ち

2年前のこの時期は、ちょうど急性期から回復期の病院へと転院した頃でした。

担当療法士さんが若くノリの軽い感じの人になり、リハビリ内容も180度変わったため戸惑っていたことを懐かしく思います。

何度か回復期については書いていますが、今でも思い出すと残念に、そして口惜しく感じることがあります。
それでも以前のようにやりきれない思いに駆られずに済んでいるのは、少しずつ消化出来ているからなのかもしれません。

現在は理学療法・作業療法ともに自費のリハビリ施設にお世話になっています。どちらも脳疾患を専門とされているからか、知識も豊富で技術も確かだと感じています。

ただ、それだけに回復期で見つけられなかった後遺症が次々炙り出されて来て、ふと不安になりました。

急性期から回復期へは「高次脳機能障害はない」と申し送られました。そして回復期を「後遺症は左足の軽い麻痺のみ。日常生活に支障はない」と言われて退院しました。

急性期では理学療法士さんの介入だけだった上、目が見えなかったこともあり高次脳機能障害その他に気付かれなかったのかなと思いました。けれども回復期では理学・作業・言語、全ての療法士さんがついていました。

にも関わらず、巧緻運動障害や感覚障害、高次脳機能障害などなど見落とされてしまうなんてことがあり得るのでしょうか?

見落とされたのではなく退院後に新しく出てきた症状だったり、回復期退院後に悪化したのだったらどうしよう‥と不安になりました。

ただ、その不安の裏には見逃されたと思いたくない、そんな気持ちがあったように思います。

受け止め方

そんなことでしばらく悶々としていましたが、1人で考えていても仕方がないのでとりあえずリハビリの時に療法士さんに聞いてみました。

もう長いお付き合いなのでリハビリ中に冗談をいったりして楽しくお話をしています。でも、「お聞きしたいことがあるんですけれど」と切り出したらすぐに真剣になってくれます。

もしかしたらみなさんにとっては当たり前と思うようなことかもしれません。けれども私にとっては当たり前のことではありません。

回復期、リハビリの最後はエアロバイクでした。20分漕いだあと麻痺した左足がペダルベルトから抜けないことが度々あり、自分の手で左足を掴んで抜こうとしてバイクごと傾いて倒れそうになったこともありました。

そのため足が抜けなさそうな様子を見かけて療法士さんが駆けつけてくれたり、こちらからお願いして手伝ってもらうようにしていました。
けれども、担当の療法士さんだけは決して手伝ってくれませんでした。

どうしてなのかと理由を尋ねたところ「愛だよ愛」と訳のわからない返事が返って来ました。

そんな風に質問をしても茶化されたり「何言ってんですか」と一蹴されたり、答えてくれたとしても「それは違いますね」とだけで説明がなされないことが多かった気がします。

親しみを込めて茶化したりしていたのかはわかりませんが、専門家から見たら些細なことや馬鹿馬鹿しいと思えることでも、患者にとっては不安だったり真剣に悩んでいたりすることもあります。だから質問に対してはもう少し真剣に受け止めてもらいたかったなと思っています。

聴く姿勢

不安に思っていることを黙って最後まで聴いてもらえることはとてもありがたいことです。
これもこうやって文字にすると当たり前のことのようですが、実際に行ってもらえることはそう多くないと感じています。

ケイト・マーフィのLISTENという本の中に次のようなことが書かれています。

・いちばん会話を邪魔するのは「自分は次になにを話そうか」という心配
・「次に何を言おう」と考えている方がかえって不適切な返答をする
・相手の話をすべて受け止めた方が、もっと的確な反応ができる
「うまい言葉」が、信頼関係に必要なわけではない

LISTEN ケイト・マーフィー著 篠田真貴子監訳 より抜粋

この本を読んだとき自分がこれまでいかに人の話を聴けていなかったか思い知らされました。

上記の部分だけでもそうです。真剣な話であればあるほど「良いフィードバックをしなければ」と思い、聴くことがおざなりになりがちでした。

今の療法士さんは「聴く力」に秀でている方だ思います。相談したときなどに多くを語られる訳ではないのに心に響く言葉が返って来るのは、私の気持ちを聴き、受け止めた上で出て来る言葉だからのような気がしています。

説明することで得られる安心感

今回も不安をしっかり受け止めたあとに、具体例を示して説明をしてくれました。

ちょうど回復期でリハビリをしているときの動画があったのでそれを用いながら、回復期ではどういう状態で現在がどうであるのか説明してくれました。

そしてその上で「残念ながら回復期では見逃されてしまったようだけれど、回復期より悪化しているということはなく、むしろ動画と今では明らかに状態は良くなっているので安心して大丈夫ですよ」と話してくれました。

単に「良くなってますよ、大丈夫ですよ」というだけと、根拠を示して説明してもらうことでは得られる安心感は全く異なります。

回復期で見逃されてしまったことは本当に残念ではありますが、それでもやはり悪化しておらず良くなっているという回答にほっとしました。

リハビリが終わったあとも

私の不安が強そうだったことを汲み取ってくれたのでしょうか、帰宅後にメッセージが届きました。
そこには、この一年半経過を追っているけれど本当に良くなっているので安心して良いことと共に、"気になったらその都度また相談して下さい"と付け加えられており、さらにほっとしました。

そういえばXである方が
信頼している療法士さんがその場で即答されることもあるけれど後から回答がくることもあり、リハビリの後も考えてくれるのだと感じる。
そんなことを書かれていました。

先ほどのLISTENには「うまい言葉が信頼関係に必要な訳ではない」と書かれていましたが、信頼関係に必要なのは返答の内容よりももしかしたら考えている気にかけている、という姿勢なのかもしれないと思いました。

そして、信頼関係とは互いに築くものだと思いますが、リハビリ後も気にかけてくれることに対して患者の側である自分は何が出来るのだろう、と考えています。

最後に

患者と医療従事者とのコミュニケーションの取り方には色々あるとい思います。

患者をリラックスさせたり距離感を縮めるためにフレンドリーさが必要なこともあるでしょう。

でも、相手がそれをフレンドリーだと受け止めているかどうかが大切だと思います。また、時と場合を考えないと信頼関係を崩してしまうことにもなりそうです。

相手が何かを訴えた時には、言葉にどんな思いがのせられているのか、まず聴くことが大切だと思います。

それが専門家からしたらあり得ない馬鹿げていることであっても、素人にとっては不安なことだったりします。

また、自分でも馬鹿げた心配だとわかっていても、専門家から「大丈夫」その一言が欲しいだけのこともあると思うのです。

「聴く」ことでその気持ちを汲み取り、説明や返答することで患者の不安を取り除いて貰えたら、患者はもっと信頼してリハビリや治療に向き合えると思います。