中心に患者がいること
思いだけが先走りうまくまとまらないままになってしまいました。
今のリハビリの標準がいつか変わってくれたらそんな願いを込めて書きました。
音訳への想い
仕事ではないけれど、私にとってのアイデンティティとでもいうべきものが音訳ボランティアでした。高次脳機能障害によってこれが出来なくなったことが、私にとって1番辛いことであったと思います。
回復期退院後、高次脳機能障害のリハビリを受けようと思ったのも音訳に復帰したいという一心からでした。でも、具体的なアドヴァイスは貰えず、仕事ではないためかあまり熱心に対応してもらえない、そんな感じでした。
自ら本や雑誌を録音できなくても、他の人の録音を原稿と照らし合わせてチェックする聞き返しだけでも出来ないだろうか?担当のSTに聞いてみましたが「注意障害があるから難しいでしょうね」と言われ、音訳を諦める決心をし、高次脳機能障害のリハビリもやめました。
音訳を諦めると伝えて
お世話になっている自費リハの先生にも
「音訳を諦めます」と伝えました。伝えながら涙が出てしまった私に、黙ってティッシュを渡してくれたことを覚えています。
そしてリハビリの後「みどりさんが悩み苦しんで出した決断だと思います。なので私はその決断を支持したいと思います」という旨のメッセージを下さいました。そう言いつつ気持ちは揺れ動き
「決断はしたけれど、それでもいつか音訳に戻れたらと思っています」
という私の言葉に
「自分が聞いているだけでも音訳への想いは相当なので、いつか音訳に戻れたらというお気持ちは大切にしてくださいね。」
そう返してくれました。
諦めるという私の決心も、でも諦めきれないという私の想いもどちらも受け止めて下さいました。
諦めるのは早いとか勿体無いとかの意見ではなく、揺れ動く気持ちをそのまま受け止めて貰えることは本当にありがたいことでした。
もう一度音訳にチャレンジしたいという想い
病院の高次脳機能障害のリハビリをやめたあと、自費リハの言語聴覚士さんに高次脳機能障害について相談したことがあります。
その中で音訳の聞き返しについて「注意障害があるから難しいでしょう」と言われたこと話すと
「出来るかどうかやってみましたか?」と聞かれました。
無理といわれて頭から出来ないと思い込んでいました。が、別のことでちょっと自信がついたこともあり、今回「試してみようかな?」と思いました。
ただ、試すには誰かに録音をしてもらい、それを私が誤読がないかチェックし、さらに漏れがないかダブルチェックをしてもらう必要があります。
ダブルチェックは夫に頼み、録音の方を自費リハの先生にお願いをしてみました。すると快く引き受けてくださり
「みどりさんの音訳へのチャレンジのお手伝いが出来るなら大変嬉しいです」とメッセージを下さいました。
やはり音訳を諦めきれないから試してみたい、その思いを受け止め「チャレンジのお手伝いができるなら嬉しい」と言ってくれること。これほど頑張ってみようという気持ちにさせてくれる言葉はないと思いました。
納得せず諦めたこと
何度も出てくる事例ですが、急性期から回復期へ移ったときに麻痺に対するリハビリが無くなり思わず
「麻痺は治らないんでしょうか」と聞いた私に対して
「死ぬような病気だったんですから」と返された言葉。
どうしてこんなに引きずるのかと思っていたのですが、一つには納得しないで麻痺のことを諦めたからなのかなと思います。
「死ぬような‥」という言葉により、私は麻痺のことには口をつぐみ体力作りと筋トレに励むようになりました。
麻痺に対するリハビリが必要・不必要は別として、きちんと説明を受け、納得して麻痺のことに執着せず筋トレに励もうと思ったのならば良かったのでしょう。
けれど結果的に麻痺へのアプローチがないことを納得出来ないまま口をつぐみ、筋トレをして退院したことは未だ後悔として残っています。
このことは前のブログにもありますが、Twitterに療法士さんが書かれた通り
"分かりやすく説明することが必要。患者さんにとって自身の将来に関わること"
このことにまさに当てはまる気がしています。
退院後の不安
スペースで療法士さん達が話しているのを聞いて、退院後の患者さんの生活をこんなに考えている医療職の方々がいるということにとても驚きました。
家の状況はもちろん、今後どういうリハビリが必要で経済面も含めどれくらまでなら出来るのか。
自分の手を離れたあとの患者さんのことを考え、
"退院後の患者さんの生活"がより良いものになるよう動いている人がいることに感動を覚えました。
ご自身でも"自分たちは少数派だけれど、これが多数派にならないといけない"
そんなようなことを仰られていました。
私の回復期でのリハビリは多分"標準"だったのだろうと最近は思うようになりました。
理学療法は最後まで体力強化と筋トレでした。作業療法で生活動作訓練が行われたのは退院前の1週間でした。しかしその大半は免許センターの適性検査へのリハビリで費やされてしまいました。
思ったより動作が出来なくても日程が足りないから退院。患者にとってはとても不安です。入院できる日数に限度があるから仕方がないところはあるでしょう。でもできるだけ退院を決めるのは生活動作訓練をして大丈夫と患者が思えてからであってほしいと思います。
また、退院後のリハビリについてはだれがどんな風に決めるものなのだろうか?それも疑問でした。
通所のリハビリも病院のリハビリも受けられないだろう。そう担当の理学療法士さんに言われました。そしてこれ以上リハビリはいらないからジムに行くように。それ一択でした。
でも実際に病院でのリハビリを受けることは出来ました。なぜ、何を持って病院のリハビリは受けられないと言ったのだろうか。そしてジムは自信がないと何度訴えてもジム一択だったのはなぜだろうか。私の意思はそこには介在しなかった気がします。
継続して運動が必要なのであれば、本人が出来そうと思えることの中で何かないか何故考えてくれなかったのだろうか?経済的なことや施設までの移動距離、そして本人の意思。それらを総合的に考えて提案してくれたらよかったのに、そう思います。
裏打ちされたものがないまま
"ここ数年で1、2に元気な患者だから自信を持って退院しろ"
そう言われても、以前とは違う自分での帰宅です。他人と比較されても自信は持てません。
自信が持てると言えないまでも、不安がなるべく少ない状態で退院できるように。そんな風に考えてくれる療法士さんはまだまだ希少価値のようです。
患者を中心として
リハビリに限ったことではありませんが、本人の意思はとても重要なものだと思います。
自費リハの療法士さんが黙って寄り添っていてくれることに本当に感謝しています。私の音訳への想いを理解してくれていただけに、もしかしたら「音訳を諦めます」と言ったとき"本当に諦められるの?"と疑問に思われたかもしれません。
でも何も言わずに私が決断したことを受け入れ、そして今度は「やっぱり諦めきれない、チャレンジしたい」ということにも喜んで協力してくれました。
何事にもそうですが、ご自身の見解を述べられることはあっても、中心にあるのはいつも私の意思です。私の背景を考慮して提案してくれるけれど、私が望まないならば押し付けることはなく、他の方法はないか考えてくれます。そこが回復期の療法士さんとの大きな違いです。
退院後に私がどういう環境でどう生活をし何を望んでいるのか。回復期の療法士さんたちの目はそこになかったと思います。
誰のための何のためのリハビリなのか。患者が回復期を退院して次のステップに向かうためのリハビリではないのでしょうか。
今担当してもらっている自費リハの療法士さん、そしてスペースでお話をされている医療者の方々。どの方にも感じるのは中心に患者がいることです。患者の意思や環境を尊重する姿勢が患者の生活を支え、新たな一歩を踏み出す原動力になると思います。
ただ、そういう療法士さんたちがまだまだ少ないということ本当に残念だなと思います。
所属する病院の環境の影響も大きいことと思います。けれど"療法士ガチャ"なんて言葉が死語になってくれることを望みます。
"患者さんを置き去りにしない"とても端的な言葉だと思います。
この言葉を大切にしてくれる医療者が1人でも増えてくれることを願っています。