見られているだけで、人は成長していく
承認を満たす
「見られている、ということは脳の要求している『承認』を満たすことです。何かをしている姿を見られているだけで、人は成長していきます。」
脳科学者である茂木健一郎さんがこう言っていました。たしかに、私自身もそういう経験をしたことがあります。
なわとびで
低学年の子がなわとびをする時、
「先生、私、二重跳びできるようになったの!!見てて!!」
「先生、何回とべるか数えていて!」
などと言います。実際に跳んでいる表情は笑顔で楽しそうだし、チャレンジ精神も感じられます。見られるということは、認められているという承認を満たす以外にも、数えられているというある種の緊張感も満たされ、より自分が成長していくのだと思います。
どんな風に見る?
では、どんな人が、どんな風に見ていれば教育効果があがるのでしょうか?
なわとびの事例で考えると、なぜか子どもたちは、友達に数えることを要求しません。先生に、見てほしいのです。自分よりも立場が上の人に見てもらう緊張感と承認を子どもたちが求めているのだと思います。
スポーツで
スポーツの試合ではどうでしょうか?試合終了のインタビューで、
「皆さんの応援が力を貸してくれました!」
という言葉はお決まりのセリフではあります。それは感謝であり、本心なのだと思います。ここで「応援」という言葉になっていますが、テレビで見ている大多数は直接的に声をその時に届けるような応援はできません。応援しないテレビやインターネットの向こうの大多数ではどうでしょうか?
サッカーワールドカップが今年の11月に予定されています。スタジアムで観戦し、応援できる人数は限られていますが、テレビで見ている人たちは30億人ともいわれ、中にはビッグクラブのスカウトもいます。もちろん、歴史や伝統、国を背負う誇りとプレッシャーなどもあると思いますが、テレビやインターネットの向こうで、大勢の人・自分の人生を左右するかもしれない人が見ていると思うだけで、これも緊張と承認を満たすものになります。
審判で
私はバスケットの審判をしています。下手な審判が担当するゲームは荒れ、ファウルが増え、退場者も出ます。上手な審判が担当するゲームはバスケット本来の楽しさを、選手も観客も味わうことができます。選手は、上手な審判に見られている、と思うだけでルールを意識して、よりよいプレーをすることを心がけます。監督も、ルールを意識した指示をします。選手のスキルが向上し、よい試合になります。これは、努力を続ける技術の高い審判が可能とすることです。
岩下修先生の言葉から
最後に、「AさせたいならBといえ」という名著を三冊も生み出した岩下修先生は、行進の練習の際、おすすめの言葉がけについてこうおっしゃっています。
「まなざしの共有」の中で、子どもは安心して学習に参加できます。30名以上の子に、一時間中、まなざしを向け続けることはできません。そんなとき、ある一つの列について、前の子から一人ずつ、まなざしを傾けます。「見ています」のひとことで、その子とつながります。わずか5秒で、列全員の子とまなざしを共有できるのだといいます。
みんなに「見られていると感じさせること」が、成長の一歩になる、というのです。教師は一人なのに、みんなが見られていると感じさせる技術は秀逸です。
まとめ
これまで考えてきましたように、「見られている」ということが子供の成長を促すのは間違いないようです。ただその際、「実力の高いプロの人物」に、「見られていると実感させる」ように見る、ということがポイントのようです。
私も、これまで以上に人間力を磨き、授業力を磨き、そこにいるだけで子どもたちが動き出すような授業をしたいと思っています。
三浦健太朗