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女の自分が意識してこなかった「男性の生きづらさ」(2021/9/14追記)

 昨日11月19日は国際男性デー。国際女性デーすらここ数年で知ったレベルの私なので、恥ずかしながら、昨日初めて知りました^^;
 国際女性デーが1975年にできたのに対し、国際男性デーは1999年開始と、比較的新しい記念日のようです。(Wikipedia情報)

 日々女性として、女性の生きづらさばかりを考えて生きている身としては、男性に女性ほどの生きづらさなんてあるの? と、ついつい考えがち。(失礼)

 でも、この機会に調べてみると、フェミニズムに対してマスキュリズムという言葉もちゃんとあり、生きづらさを訴える男性の意見を見ると、なるほどと思うこともありました。
 例えば、体力の有無にかかわらず、力仕事ばかり任されてしまったり。お洒落で髪を伸ばしたら、女々しいとか不潔とか言われてしまったり。そんな気もないのに、何かと物事を性犯罪と結び付けられて考えられてしまったり(男性保育士さんが、女の子のおむつ交換をするのを嫌がる保護者がいる等)。
 身体的な力の差や、脳のつくりに違いがあるので、何もかも性別関係なく同じにしよう、というのはナンセンスですが、男・女という違いだけで、本人の能力や意思を無視して「こうあるべき」と決めるのは乱暴だなぁと思います。

 でも、一方で、こういう生きづらさに加担している自分がいることにも気が付きました。
 大きな荷物があったときに、男性がいたら運んでくれることを期待してしまったり、髪が長い男性がいたら、アーティストさんなのかな、と思ってしまったり、美容室で美容師さんの性別のリクエストができたら、女性を選んでしまったり。
 怖いのは、上記のようなことをほぼ無意識でやっているってことです(-_-;)

 歴史的に見て、男性の方がいろんな場面で権力を持ってきた、というのは事実としてあると思います。これまで男女別に与えられてきた役割とかイメージとかいうものは、その時には当たり前だったでしょうし、必要なものだったと言われれば、その通りなのだと思います。

 でも、その考えって今も必要でしょうか?(;^ω^)
 
(自戒の意味も込め……)

 日本の国会とか大企業のお偉いさんたちを見ていたら、フェミニズムを推進することって、必要だと思います。でも、女性の権利を訴えるなら、理不尽に押し付けられている男性の生きづらさにも目を向けないと、本当の平等はやってこないんだろうなぁ、とも思います。

 ……そんなわけで、近々、「『男女』を求められることへの生きづらさを共有する会」というのをにじまゆプロジェクトのオンライン交流会でやってみようかなと思います。
 シス男性(女性)からは、その性で生きることへの生きづらさを語っていただきたいですし、トランス男性(女性)の方には、トランス前後での社会からの風当たりに変化があったか伺ってみたいです。また、中性・無性で生きている方は、男女どちらかであることを期待されたときにどうしているのか、というのも気になるところ……。
 にじまゆプロジェクトに興味を持ってくださっている方だと、参加者はLGBTQ+当事者に偏ってしまうと思いますが、いわゆるストレートのマジョリティにも参加してもらいたいトピックですね。なかなか難しいですが^^;

 詳しい参加条件や日程が決まったら、Twitterにて周知します!

(2021/9/14追記)
男女の生きづらさをシェアする会、次回は9/19(日)に実施します!
お申し込みはPeatixから!


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穂積歩夜(ほよ)
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