【読書】『何のためのテスト?』
読書会で『何のためのテスト? 評価で変わる学校と学び』(ケネス・J・ガーゲン、シェルト・R・ギル 著/東村知子、鮫島輝美 訳,2023,ナカニシヤ出版)を読みました。
今夏は「評価」についていろいろ思考を巡らせていました。読書会で話したことや現時点で自分が大切だと感じていることを整理して残しておきたいと思います。
本書について
社会構成主義の第一人者として知られる社会心理学者ガーゲンと教育学者ギルは本書の中で、「工場モデル」をベースとした評価の問題点を指摘し、関係に基づく評価を行うべきだとの主張を繰り広げます。
本書の前半では、「工場モデル」の問題点、関係に基づく評価の必要性、そして初等教育・中等教育における関係に基づく評価の実例などが書かれていました。後半では、児童・生徒への評価という枠組みをこえて教員評価、学校評価についても言及されています。最後には、教育システム全体の変革の必要性やよくある反論への返答などが示されており、著者の強い思いが感じられました。
「評価」という言葉
この本を読み始める前に「評価」という言葉について整理しておかねばなりません。本書で「評価」という語として訳される「アセスメント」と「エバリュエーション」について、「日本語版への序文」の訳注でこう示されています。
筆者は「アセスメント」には批判的であり、「エバリュエーション」を推奨していますが、日本では近年「アセスメント」を重視する傾向が強いように思います。例えば、『主体的に学習に取り組む態度ーその育成と学習評価』(田中保樹・三藤敏樹・髙木展郎 著,2023,東洋館出版)では、こう書かれています。
最近、学校現場(特に特別支援教育)において、アセスメントという言葉がよく使われています。その使われ方は、「児童理解」に近いものが多いような印象を受けます。本書での捉えとは異なるように思われますが、根本的には筆者が批判しているものを私たちが肯定しているということなのでしょうか。
この「エバリュエーション」と「アセスメント」という言葉に着目して、読書会ではさらに『教育評価 重要語句 事典』(西岡加名恵・石井英真 編著,2021,明治図書)の「エバリュエーションとアセスメント」という項を読んでみました。そこでは、以前使われていた「メジャーメント」という言葉への批判から「エバリュエーション」という言葉が生まれたこと、その後の「アセスメント」と「エバリュエーション」の捉え方の変遷などが書かれていました。
時代の変化の中で、評価について様々な意見が交わされてきたことが分かります。そして、語句の捉えも人それぞれである部分が大きいように感じました。高校の英語の先生も読書会に参加しており、英英辞典なども使いながら「アセスメント」と「エバリュエーション」を筆者がどう捉えていたのか検討しました。
「エバリュエーション」はprocess of judgeと説明されており、人と人との関係性の中で取り組みのプロセスを中心に評価するもの。「アセスメント」はact of judgeと説明されており、テストや検査などで表出されたものを評価の対象とし、客観性を重視するもの。筆者はこのような捉えをしているのではないか、と読書会では話し合いました。
本来なら原著を読んでいくのがよいのでしょう。ちなみに、この本、原著のタイトルは「Beyond the Tyranny of Testing : Relational Evaluation in Education」です。Tyranny of Testingはそのまま訳すと「テストによる暴力的支配」となります。筆者のテストへの批判的な気持ちが伝わってきます。
しかし、テストってそんなに悪い物でしょうか?
読書会では、このことが一番の論点になりました。
テストは悪か
確かにテストに振り回され、子どもたちが充実感をもって学ぶことができないという実態も多々あります。入試もその1つです。読書会メンバーは、小学校と高校の教員、教育委員会に勤務する元高校教員で構成されていますが、入試の弊害については、これまでも度々話題になっていました。
しかし、一方で社会全体を見たときに、「テストが諸悪の根源だ」という考え方でよいのかという点については議論の余地がありそうです。
「生徒の不安と抑うつは試験によるストレスと密接な関係があることを示す報告が、世界中で増えている」(p.16)
精神的なストレスを抱えやすい児童生徒の実態、不登校の増加、自己肯定感の低さなどは、教育に関わる人間であれば、みな問題意識を感じることでしょう。でも、その原因はテストなのでしょうか?
関係に基づく評価
テストに代わって行われるべきだと筆者が主張する関係に基づく評価については、「関係のプロセスを核とし、そのプロセスから、学びを刺激し持続させるとともに関係のプロセスそのものも豊かにするような力を引き出す教育評価の在り方」(p.57)と書かれています。そして、関係に基づく評価は「プロセス評価」と「リフレクティブ評価」に整理されています。
効果的な評価には、評価する者とされる者の関係性が非常に重要であるというのは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。例えば、ピアノのコンクールで演奏をした場合、こんな評価の可能性があります。
1.おばあちゃんが「上手に弾けたわね。」と言う。
これは、自己肯定感を高めることにはつながりますが、技術面での向上にはあまり関与しない評価です。
2.レッスンしている先生が「いつもタッチが弱くなってしまう左手の演奏が、今日はうまくできたね。」と言う。
これは、関係性に基づく評価であり、プロセス評価として捉えられると考えます。その子の普段の練習を基にして、その日のパフォーマンスについてフィードバックしています。また、そのことが、レッスンの進め方を検討する材料になります。
3.自分で「左手の演奏は難しかったが、自分としてはうまくできた。」と考える。
自己評価で、関係性に基づく評価の中はリフレクティブ評価に位置付けられると言えそうです。先生からの問いかけで引き出される場合もあり、今後のレッスンの在り方に影響を及ぼします。
4.コンクールで審査員をしている先生が「左手の演奏が不十分。そこが減点対象になりました。これでは入賞はできません。」と言う。
これは、評価者と評価される側の関係性にあまり影響されず行われます。左手の演奏が不十分であることが示され、そこをクリアしなければ入賞できないということが明確になります。
5.お母さんが「ミスは無かったけど、ライバルの○○ちゃんの方がうまかったわ。」と言う。
相対評価であり、筆者が最も批判する評価の在り方だと考えます。
こうしてみると、様々な評価があることが見えてきます。教育における評価について、筆者が推奨するのは2や3のようなものだと言えるでしょう。そして、これに関しては、生徒と先生の信頼関係がベースとなることは明らかです。私たち教員は、日々の授業の中でこのような関係性、そして評価の在り方を今までも目指してきたのではないでしょうか。少なくとも自分はそうです。
評価者への信頼
先ほどの例において、4のコンクール審査員の評価についてはみなさんどのように考えますか?芸術分野における数値評価の難しさというものは、昔から議論されてきたことです。確かに、ピアノ演奏について数値評価で行った場合、評価者による違いが必ず出てくることでしょう。
しかし、熟達したピアノ奏者がたった一度の演奏で見抜けるものというのも確かにあるはずです。そのため、序列につながるピアノコンクール自体を否定する必要はないと私は考えます。大事なのは「この人に評価してもらいたい」「このコンクールで入賞したい」という意志なのではないでしょうか。となると、これも関係性の問題になってきます。
審査員に対する信頼はどうやって築かれるでしょうか。実際は、その審査員に会って信頼関係を築くことは滅多にありません。そのため、これまでの審査員の実績や肩書、受賞歴などで、その審査員が信頼に足る人物かこちらが評価することになります。また、コンクール自体の知名度やコンクール入賞者たちのその後の実績なども、評価に対する信頼に影響を与えることでしょう。
肩書と言うのは、とても魅力的な物です。審査員は、コンクールに出る1人1人と知り合いにならなくても、肩書や実績があれば、信頼してもらえるからです。全国大会出場経験がある部活指導員がいれば、自ずとその指導を信じて邁進した方が良いような気がしてきます。「○○大学で学んできた人が担任です。」と聞いたとき、○○に入る名前で相手を評価してしまう習性が社会全体に染みついてしまっています。
しかし、肩書があれば評価者が信頼に足る人物であるとは言い切れません。私たち教員は、授業を管理職に見せ、評価を受けます。その際、その管理職好みの授業と言うのが必ずあります。管理職の中には、授業者の迷いや意図をくみ取り上手に伝える先生もいれば、表面的なこと(子どもがおとなしく座っているか、きれいな字で黒板をノートに書き写しているか)にしか着目できない先生もいます。
「この人に自分を評価する資格なんかない」と思う相手だった場合、評価が良い方向に機能することはありません。それでも評価されたいのであれば、相手の気に入りそうなことをして、点数を稼ぐことになりますが、本人の伸びたい方向に向けた成長にはつながらす、むしろ歪んだものとなるでしょう。逆に、この人に評価されなくてもいいとなれば、自分を貫くことになりますが、出世に影響が出るかもしれません。
こうして、評価して欲しくない相手に評価されることや、社会的地位などのためにやむを得ず評価される場に出ていくことが、学びの意欲を下げ、精神を追い込むことにもつながるのだと思います。社会的な病理を抱えている状態とも言えるかもしれません。大人ならまだ何とかできるかもしれませんが、子どもが知らぬ間に評価の渦に巻き込まれていくのは、とても残念なことです。
テストとうまく付き合う
「今の自分を見つめ、伸びたい方向にぐんぐん伸びていくような学び」を促進したい。それが、私の願いです。この本で大事にしている関係に基づく評価とも重なる部分が多いように感じました。たった1回のテストで、あまりよく知らない相手に、自分の努力や取り組みを否定されてはたまりません。そういう意味で、プロセスを評価するという視点を今後も大事にしようと改めて感じました。
一方で、テストは悪であり、テストを失くせばすべてがうまくいくという考えにはなりませんでした。評価される人数が増えれば増えるほど、個の事情を取り入れた関係性を重視する評価は行いづらくなります。そこでは、ある程度の公平性を保つためにテストが必要になるのは仕方のないことだと感じます。
テストをすることで自分の到達度が分かり、学習がより鮮やかでやりがいのあるものになる例もたくさんあります。先生と生徒との関係性の中に閉じこもるのではなく、時には外の人たちと同じテストを受け、数値で自分の状況を知ることも学びにつながると思います。
テストで全てをはかることはできない。むしろ、テストで測れるものはわずかである。このことを忘れずに、テストを利用して私たちは社会を成り立たせていくしかないと思います。様々な専門的職業があり、その資格を得るための試験は欠かせません。ある学校に入りたい子どもの人数に対して、希望者の数の方が多ければ選抜しなければならないとというのも事実です。
だからこそ、テストに振り回されない生き方を考えていかなくてはなりません。それは、教育だけの問題ではなく社会の問題です。
問題は「結果にこだわる大人たち」
テストにおける問題点。それは、分かりやすさ故に、結果ばかりに着目してしまうということです。本来、大人たちは、「点数は自分を知るためのツールだよ」「点数を取ることでなく、そこに至るプロセスを見直してみよう」などと、声をかけ、結果に一喜一憂しないように気を配るべきだと考えます。実際にそうです。テストの点数と、実際社会に出てからの生き方にはつながりを感じません。小手先の点数を気にするより、大事なことがたくさんあるはずです。
でも今、結果ばかりを気にして子どもがどんな状態か見えていない大人や、何としてでも結果を出させようと子どもに無理をさせる大人がたくさんいます。子どもにいい点数を取らせたくて子どものキャパシティを越えた塾通いをさせる保護者、全国学力調査でいい点を取らせるためにテストの練習をさせる学校、合格者数を増やすために多くの学校を受験させようとする塾など挙げ始めたらきりがありません。
それがビジネスになってしまっているという点にも問題意識を感じます。点数を取らせるための近道を大人が必死で探し、子どもはそれに従うだけ。こんな学び方をしていては、学びの楽しさを味わうことはできません。
生きづらさを抱えている人が多い今の世の中で、大人の不安が子どもたちに伝染してしまっているかのようです。
・子どもが「これをやりたい!」と心から言えるものを見付けられるようなわくわくする学びのきっかけを創出していくこと。
・その「やりたい!」に対して子どもから「評価者」として認められること。
・学びのプロセスと子どもの様子を親御さんにしっかりと伝えられるようにすること。
私が公立小学校の教員として、今できることはこの辺でしょうか。
自分を知り、成長させるためのテスト
本書を読み、読書会を終えて、「何のためのテスト?」という日本語版のタイトルに対して、「自分を知り、成長させるためのテスト」という答えを暫定的に出しておこうと思います。テストは、使い方次第です。自分を知り、成長させるために機能させることができれば、テストもそんなに悪いものではありません。
大学入試だってそうです。「○○大学の◇◇先生の本を読んだ。ぜひ、その先生の下で学びたい。」そう思って一生懸命受験勉強するならば、そこに意味があるはずです。
やりたいことが見つからず、テストに振り回されて、学ぶことを楽しめないという状況はとても残念です。子どもたちの明るい未来のために何ができるか、大人たちの姿勢が問われている気がしました。
昔から議論されてきた「評価」について掘り下げるきっかけを与えてくれた本でした。教員人生15年目になり、効果的な評価と無意味な評価、逆効果になっている評価、いろいろな評価を目にします。その改善のために、本書で学んだことを生かしていければと思っています。
『何のためのテスト?評価で変わる学校と学び』ぜひ皆さんも読んでみてください。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。