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まいった魚は目でわかる

スポーツ麻雀という名の、賭けたりしない健全な麻雀が広まってきているとか。
賭けなければ健全なのか、なんて考えはじめるとややこしいからやめよう。
ただ、わたしが知っている麻雀について、書いてみたいと思う。

わたしが育った家では、両親と親戚や友人たちとの徹夜麻雀が週末ごとに行われていた。
昭和40年代の話である。

さらに遡ること10年と少し、両親が東京で最初に住んだのは、北品川の廃業旅館の離れだった。
女主人はもと新橋の芸者さんで、旦那に建ててもらった旅館を経営していたが、病を得て、本館では娘さんが洋裁の工房を開き、離れはわたしの両親に貸したのだ。
出張やらなにやらで父が留守にすると、母は娘さんやまだ少し元気だった女主人と麻雀や花札で遊んでいた。

芸者さんにとっては麻雀はいわば芸のうち、女主人はたんに強いだけではない「きれいな」麻雀を仕込んでくれたのだそうだ。
もともと勘がよく頭の回転の早い母は、同じタイプの娘さんともどもどんどん強くなっていった。

わたしが生まれる直前、父が先物取引で家業をつぶして、わたしたち三人はもっと家賃の安い立会川のアパートに越していった。
そこで5年暮らし、父が新しく始めた興信所がなんとか軌道に乗って、わたしが幼稚園に入る前の秋、というのは東京オリンピックが開かれた秋に北品川に戻ることができた。

最初に住んだ離れのすぐ近くのアパートは六畳間で、それまで四畳半に住んでいたわたしたちは、広くなった分を持て余していたらしい。
父のともだちが遊びにきて、なんで三人ともそんなに口元にいるのか、奥が空いているよ、とおかしそうにいったのだとか。

旅館の女主人は母とわたしが戻ってきたのを喜んでくれたが、もうほとんど寝たきりだった。
会いにいくと布団の上に座って半纏をはおり、あんまりそばにきちゃいけないよ、といった。
銭湯に持っていく椅子を買ってあげる、と約束してくれたのが最後だった。

お葬式のあとで、娘さんが「おかあさんからよ」とブルーの丸い椅子をくれた。
銭湯では誰も持っていないモダンな形だった。
ひっくり返してシャンプーや石鹸を入れて毎回大事に抱えて持っていった。

4年後の小学校3年生のとき、わたしたちは東品川の借家に越した。
お風呂はなかったけれども、トイレと洗面所が家のなかにあって部屋も六畳と三畳と四畳半。
こんなに広くてどうしよう、と思ったのを覚えている。

そこで始まったのが徹夜麻雀だ。
麻雀牌は女主人から預かったという象牙製のいいものだった。
灰色のラバーに緑のフェルトを張った麻雀用のマットもあった。
メンバーは父母と叔父叔母、成人していた異母兄三人、父のともだちや会社の部下。
面子が揃わないということがなかった。

叔母以外は全員喫煙者で、六畳間には煙がもうもうと立ち込めている。
わたしは父にもたれかかって卓の上を見ていた。

牌を混ぜる音は重くごろごろと地響きのようだ。
しばらく混ぜると誰からともなく二段に積みはじめる。
手前に並べた一列の両端を小指で押さえて持ち上げ、奥の段の上に載せるのだ。
父がよく失敗しては「またあ」といわれていた。

全員が積んで並べおわると、誰かが小さいさいころを二つ振り、牌を取りはじめる場所を決める。
そのとき母はよく

「さんざんくろうしてふりこむ」

といっていた。
積んだ牌の端から九つ数えるためのようだった。

母は打っているときにも、決まり文句を口にする。

「そこがしろうとのあかさかみつけ」
「まいったさかなは目でわかる」

がいちばん多くて、あとはことわざや父の長考を冷やかすような言葉だった。

父がいうのは、

「きたかちょうさんまってたほい」

くらい。
ちょうさんって誰なんだ、と思ったものだ。

ほかによく飛び交う言葉は「リーチ」と「ポン」と「チー」。
「リーチ」といった人は点のついた棒を場に放りだす。
その棒も象牙でできていて、点は黒と赤で数と組み合わせがいろいろあった。
牌も棒も、彫ったところに色が摺り込まれているので、触ると凹凸を感じる。

「あたり」と誰かがいって、他の三人がため息をついたり、やられたといったりする。
あたった人は牌をみんなに見せるように倒し、「リーチ」とか「タンヤオ」とか「ドラドラ」とかいいながら指を折り、負けた三人は棒の入った箱から数えて何本かをあたった人に渡す。
そしてまた、牌をぜんぶ崩して真ん中に寄せ、四人でかき混ぜる。

牌の背中は竹でできていて、色の濃淡が細い筋になっている。
横から見ると象牙と竹の部分はぴったりくっついていて、境目は象牙が溶けて竹に染みこんでいるみたいだった。
角はなめらかでなんだかおいしそうだと思った。
箱には花模様の牌が残されていて、父に聞くとそれは使わないという。
わたしはときどきそれを箱から出して畳に並べてみたりした。

麻雀をするときはたいてい、中華屋から出前を取った。
わたしはラーメンを頼んでもらうが、麺は半分くらいしか食べられない。
先に兄たちに取り分けてあげていた。
次兄はきまって「もっと食べないかんぞ」というのだった。

長兄はジュリアーノ・ジェンマに似ていて、次兄はあとから知った名前だけれど古谷一行似で、三兄は夏八木勲だった。
当時はまだ「親戚のおにいさん」としか知らされていなかったが、長身でハンサムな彼らが遊びにくるのは楽しみだった。

父の友人や興信所の部下はいま思うとだいぶ素人離れしている人ばかりだった。
わたしには優しく接してくれたから、怖いと思ったことはないけれども。

晩御飯を食べて、合間には果物やお菓子やコーヒーやらも出てきて、わたしはとっくに寝る時間を過ぎていた。
母に「早く寝なさい」とだけいわれて、奥の三畳間のベッドで寝る。

目をつぶっても、牌を混ぜるごろごろいう音や積むときのかちゃっという音が聞こえてくる。
誰かが牌を捨てるときにどん、と音がしたり、笑い声が上がったり、ふざけた悲鳴のような声も聞こえてくる。
眠れないなあ、と思ってもいつの間にか寝ているのだった。

翌朝、起きて六畳間にいくと、卓のまわりで何人か寝ている。
母は四畳半から起きてきて「きょうはボウリングにいくよ」という。
わたしは「みんなでいくの」と聞く。
「みんなでいくよ」と母が答える。

それからお米を計ったりして朝御飯を作るのを手伝う。
食事が済むと兄たちが車で品川駅から坂を上がったところにあるボウリング場の順番を取りにいき、わたしと両親はあとからタクシーで向かうのだった。


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