願いごとを自分で聞きとる
「愛されたい」という願いはエゴイスティックなものだと思っていた。
相手がわたしを愛したいのかどうか確かめもせずに「愛されたい」と願うのは一方的に過ぎると。
「愛したい」は自分だけでできることだから、いくら願ってもいいし、願うまでもなく愛せばいいんだとも思っていた。
だから「愛されたい」とは願わずに「愛したい」だけを願ってきた。
でも最近になって、あれ、なんか抜けていたのかも、と気づいた。
「愛されたい」と相手や誰かに願う前に、自分は「愛されたい」と願っているんだ、と自分で受けとめる段階があるのではないだろうか。
それに気づいて、じっさいに受けとめてみた。
わたしは、愛されたい。
自分の願いを自分で聞きとったのだ。
その瞬間に、大きな安堵がわたしを包んだ。
綿菓子で作ったショールを全身にまとったみたいな気分。
(この綿菓子は肌にふれてもべたべたしないことになっている)
心もからだも、これまで一度も経験したことのない、落ち着きを感じている。
しあわせ、という言葉もわきあがってくる。
自分の願いを自分で聞きとることで、こんな安堵と幸福感がやってくるとは。
七夕の短冊に願いを書いたら、自分の心の笹の葉に結べばいい。
色とりどりに幾枚でも。
そして、もう一つ気づいた。
自分の願いである限り、
愛されたい
と
愛したい
は同じものだ。
愛は球形でわたしのなかにある一つのもの。
または、愛はわたしの泉の水で、掬うことはできても分けることはできない。