見出し画像

毛糸とわたし

編み物を始めたのは小学校5年生のとき。

まんまるのボールに目鼻と耳としっぽをつけたクマのあみぐるみからだった。


使うのはかぎ針で、最初に毛糸で二重の輪を作る。

そこに細編みを6目編み入れたら、輪の一方をそっと引く。

するともう一方の輪が縮みはじめるから今度はそっちを引いて編み目をきゅっと絞る。

つぎに糸の端を引くと先に引いたほうの輪も縮んでなくなる。

針を1目めに入れて引き抜き、円にする。


いまもかぎ針で帽子や丸いモチーフを編むときは、この円から始める。

母に教わった通りに。


毛糸を初めて触ったのはもっと前のことだ。

母は部屋の卓袱台に編機を据えて毎日、注文のセーターや上着を作っていた。

「内職」という言葉を「ないしょく」という音で覚えたわたしは、それは内緒の仕事なのだと思っていた。


わたしは卓袱台の向こう側に腰掛けるようにいわれる。

重しにちょうどいいからと。

おだちんに買ってもらった「めばえ」だの「よいこ」だのを読みながら、わたしは重しの役を果たした。

頭の後ろの右のほうからじゃーっという音がきて左へ抜けていき、じゃーっと右に戻ってくる。

日がな一日その繰り返しだった。


母が使う毛糸はかせになっていた。

編機にかけるためにはかせをたぐって毛糸の空き箱へ、お蕎麦のように盛り上げておかなければならない。


タンスの上のほうの引き出しを少し出して、母はかせくり機を固定する。

蛇腹状の骨組みをかせの幅に合わせ、ねじりを解いて輪の束になったかせをかけたら、糸はじを持ってからからと繰っていく。


これもわたしの役目だった。

毛糸の空き箱の内側のグレイの色がだんだん見えなくなり、毛糸の上に毛糸が重なって山になっていく。

たぐるごとに両手の指先に毛糸のけばを感じた。


わたしがいちばん好きなのは、あかちゃんのケープやおくるみを編むための毛糸だった。

クリーム色のなかにほんの短くピンクや若草色やブルーや黄色の部分があって、編みあがるとアイスクリームに小さなキャンディの粒が混ざっているように見えた。


内職はいつしか終わり、母が編むのはわたしのセーターやカーディガンになった。

ある年の誕生日プレゼントに、白い毛糸でお姫さまみたいなガウンを編んで、と頼んだら、デザイン画から描いて、かぎ針編みで希望通りに作ってくれた。


母はわたしが生まれる前に編み物学校に通っていて、製図ができた。

そろばんで計算して、細く尖らせた硬い鉛筆で大学ノートに図面を引いていた。

あひるのシルエットみたいに見える定規を使って袖山や襟ぐりの曲線を描く。

わたしはその定規を借りて画用紙になぞり、あひるの顔や羽を描きたして遊んだものだ。


大井町の阪急デパートにミタケという洋裁や手芸の材料店が入ってから、母は外国の毛糸を買うようになった。

中学生のわたしにもそれらの糸の品質のよさが感じられた。

はりと密度があって、濃い色にも透明感がある。

編み地はしなやかだった。


長い年月のあとで、わたし自身が編み物を再開したときに選んだのは、母が使っていたのと同じブランドの外国毛糸だった。

専門店にいけば、国産を含めて毛糸の種類は膨大にある。

でも、触ってみて、編みたいなと思うのは、やはり外国毛糸なのだった。


とくに、スコットランドの、羊の毛色のまま製糸したナチュラルヤーンには、触れているだけで体にたまった電気かなにかが抜けていくような安堵感を覚える。

フェアアイルの編み込み模様ができていくのはとても楽しいが、その前に毛糸を触っていることでほっとしているのだ。

園芸を楽しむ人の土の感触に似ているのかな、などと想像する。


少し前、編み物の本を見て取り寄せた糸が、かせになっているものだった。

かせくり機はないので、娘に頼んで代わりを務めてもらった。

彼女の右手と左手にそれぞれかせの両端をかけて、わたしが玉に巻きとる。


これも母に手伝わされたっけ。

大人になった娘でさえ、ひとかせで疲れるのに、わたしは4歳かそこらだった。

腕が落ちてくると「はい、上げる」と容赦ない。

昭和のこどもはつらかったよ、といって、娘とひとしきり笑った。



いいなと思ったら応援しよう!