#私の人生を変えた出来事
おはようございます!
葉山おしゃれセラピスト、井川ともみです🌈
昨夜の地震、結構大きかったですが、皆さま大丈夫でしたでしょうか?
葉山もかなり揺れました・・
でも地震と同時に鳴った携帯の地震警戒アラームのほうが音が大きくて心臓がビクーーーってしました、、
うとうとしていた私は携帯を寝ぼけ眼で止めて、とっさに隣で寝ていた8歳の次女に覆いかぶさっていました。
震源地が千葉、と携帯に書いてあったので「津波??!」も一瞬頭をよぎりざわざわっとして不安になりました。
電車が止まったりして大変な方もいらっしゃったみたいですね・・
今朝目が覚めて、瞑想している中で
当たり前のことはない
いつ何が起きるかわからない
毎日を大切に生きよう
と改めて思いました。
毎朝心地よく目覚めることができることに感謝です。
さて、このnoteでも何度か書いていますが、私の人生の中で一番今の私に影響を与えた出来事、
母の死についてまた書いてみようと思います。
母の卵巣がん
私が中学生の時に卵巣がんになった母。
最初は良性だと言われていたけれど、卵巣を摘出して細胞検査をしたところ悪性だったことがわかり、
大きな病院へ転院して子宮を全適することに。
何度かお見舞いへ行きましたが、母は気丈にふるまっていて自分がいない家の中の事ばかり心配していた記憶があります。
そして思い起こせば、病氣が発覚する数カ月?
一年位?
記憶は確かではありませんが、ずっと「腰が痛い、腰が痛い」と言って腰のマッサージをさせられていました。
たぶんそのころ腰の痛みと共に、不正出血などの身体からのサインがあったのではないかと思います。
身体は痛みや何かしらの症状を出して、
不調を私たちに知らせてくれます。
氣がついて、やりすぎかもよ、
もうちょっとゆっくりしたら
と
熟年離婚とがんの再発
子宮摘出後、ホルモン治療などでしばらく病院に通っていた母ですが、
5年たって問題なく、一年に一度の検診になっても問題なく、
もうみんな母ががんになったことを忘れるような日々が続いていました。
でも家族の中はあまり平穏ではなく、東京から横浜に一軒家を買って引っ越したあと、
私が大学の時に自律神経失調症で精神科通いして(かなり)大変だったり、
父がアメリカへ単身赴任したあと、重度のうつ病になったりちょっとずつちょっとずつ歯車が狂っていたのですが、
それがやがて父の激しすぎる双極性障害から泥沼熟年離婚へと発展し、母と妹と私たち三人は夜逃げのように家を出ることになりました。
結婚って簡単にできるんですけど、離婚って結婚の何倍も大変なんだと、
父と母を見ていて初めて知りました。
なんて人生いろんなことがあるんだろうと・・
そうして長い調停の末、両親の離婚が成立。
これからやっと母の第二の人生が始まる、という時にがんの再発が見つかったのです。
10年ぶりのがん治療
もう治っていたと誰もが思っていた母のがん。
本人ももちろん私と妹も、まさか10年以上たってがんが再発するなんて考えてもいなかったので、
最初に母から「肺に影がある」と聞かされた時は冗談でも言っているのかと思ったし
ま、そうはいっても大したことないでしょ、
離婚して初めて正社員で働き始めたからその疲れで肺炎っぽくなっているんじゃないの?
なんて軽く考えていました。
でも検査の結果どうやら大きい病院で手術が必要かもしれないとの事。
私と妹は呼吸器のいい先生がいる病院を調べまくりました。
探し当てた呼吸器内科の先生は全国的にも有名な方で、通える範囲の病院だったためその病院に決めて診察を受けに行きました。
なぜだか、その時のことをよく覚えています。
丸い顔の優しそうな先生は丁寧に説明してくれて、私たちは女三人で心細かったけれど、信頼できる先生に出会えてよかったとほっとしたのです。
でもそこからお決まりのがんの治療コースへ
西洋医学の限界
何度もこの話はしていますが、日本の病院制度、医療制度の限界?体制?により、
信頼できると思っていた呼吸器内科の先生から
呼吸器外科の先生へ
そこで手術
手術が終わったら腫瘍内科の先生へ
そこで抗がん剤治療
途中でどの先生が主治医なのかわからなくなったほど、先生が入れ替わる。
信頼できると思ってお願いした呼吸器内科の先生は手術する前までのほんの一瞬受け持ってくれただけで、
あとはエスカレーターに乗せられたようにそれぞれの専門の先生へ運ばれていく・・
結局は医療を細分化し専門化することで、母自体を見てくれる人はいないんだ、ということに私は途中で氣が付きました・・
その医療体制は今も変わっていないですよね。
皮膚の事なら皮膚科の先生、手術やけがを治療するのは外科の先生。
でも身体はみんな血管で繋がっているから、
がんの部分を切り落として、薬をぶち込めばいいという話ではないのです。
そして最後の主治医だった腫瘍内科の先生は顔も覚えていませんが、
通常抗がん剤6クールあるうち、母の体力の限界で4クールくらいまでしかできず、
抗がん剤ができないならこれ以上治療として病院でできることはありませんと、余命宣告されて見放されてしまったのです・・
代替医療と民間療法
自分の身体のことを一番わかっていた母は、手術の後、抗がん剤までの間にいろいろ調べて、保険外でがんの治療をしているいろんな病院を訪れていました。
もう忘れてしまったのですが、丸山ワクチン?の病院へ行ってみたり、カテーテルでがんの部分に直接治療薬を注入する施術をしている病院などにセカンドオピニオンを聞きに行ったり
抗がん剤をしながら、
玄米菜食を学び、玉川温泉へ湯治へ行き、断食道場に定期的に行き、氣功をやって、
埼玉の帯津先生のところまでホメオパシーの治療へ通い、
海で砂浴をし、ビワの葉温灸をして、テルミーをして、、
自分のがんを治すためにできるあらゆることをやっていました。
私はその途中で結婚して家を出たのですが、毎週のように母に会いに行っていたので母がまたなんか変なことやってるな~
と思いながらも、母の話を聞いて送り迎えをしたり手伝ったりしていました。
その経験が今の私の自然療法のベースになっています。
海辺へ引っ越し、安らかな死
病院から見放された後、どうしても海の近くに一度いいから住んでみたい、海が見えるところで暮らしたい、という母の願いをかなえるべく
当時一緒に住んでいた妹は母と新しい家探し、私も何件か付き合いました。
そして念願の海が見えるマンションの最上階へ引っ越し。
その一週間後、桜が満開の日にお花見へ行った後倒れてに亡くなりました。
私はもう癌は治らないのかもしれない、と
引っ越しを手伝っていた時にあまりに体力が落ちている母を見て思っていましたが、
まさか「死ぬ」とはこれっっぽっちも思っていなくて
とりあえずもし痛みが出てきたりなにかあったときのために終末医療、ホスピスを探そうと妹と話していました。
そう、母はそのころ肝臓にも転移していたし、他の臓器にも転移していたのに痛みは全くなく、ゆっくりですが好きなところへ行けてご飯も普通に食べられていました。
海辺への引っ越しと同時に厳しい玄米者菜食をいったんお休みして、大好きなお寿司を食べてビールを飲んで、喜んでいました。
突然の母の死に私は悲しい寂しいのと同時に、いやうそでしょ?起きてくるよね?
と信じられない氣持ちも強く受け入れるまでに時間がかかりました。
今振り返って思うこと、それは突然亡くなって残された私と妹は本当に悲しくて辛かったけれど、母にとってはよかったんだということ。
息を引き取ったのは病院でしたが、倒れるまで1週間だけでも念願の海が見える家に住むことができ、大好きな桜の花見に行き、痛みを感じることなく、これ以上荒田を切り刻まれたり管を入れられたりすることなく、
本当に安らかに息を引き取ったこと。
自分の命を全うしたこと。
寂しくて悲しくて辛すぎたけれど、その母の死からたくさんのことを学ばせていただきました。
お葬式やいろんなことが一段落して、一度旦那さんと住んでいる家に一度帰り、あまり眠れていなかったのと、疲れでソファーで転寝をしていた時
夢に母が出てきて
「あの後どうなった~?」
って私に聞き
「あの後ママ死んじゃったんだよ」
というと、母は
「そっかぁ~」
と笑っていました。
そこで目が覚めて私はまた号泣したんですけどね。
誰にでも必ず訪れる死。
どのような死を迎えるかはどう生きていくかに繋がります。
自分の人生を生ききる。
自分の命を全うする。
私はがん闘病と死を通して、母にどのように生きるかを教えてもらった氣がします。