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自分だけ立ち止まるわけにはいかない

不惑を超えると日常の時間が想像以上に早くなります。

1週間は一瞬であり、1ヶ月は瞬きであり、1年は気がつけば過去になっています。しかし、それと反比例するかのように生活や考え方は緩やかに固定されていきます。ずっと腰は痛いし、毎日痩せなきゃと思うし、大抵のことはこれまでの経験の引き出しの中で対応できるようになります。

今日、一年振りくらいにプライベートで仲良くしていた歳下の友人と会う機会がありました。知り合ったのは5年ほど前なのですが、コロナ期間も含めて月に一度は必ず顔を合わせるほど親しくさせていただいていました。ちょうど一年ほど前にお互いの仕事が少しバタバタしていた時期が重なり、ほんの少し連絡が疎かになっていたら一年が過ぎていました。

僕にとって今と一年前、一年前と二年前はそれほど大きな変化はありません。一つの区切りのような時間感覚が3〜5年くらいになっているのです。

しかし、若い友人はそうではありません。
30代の一年は一つ一つの仕事や経験が自分の人生を固めていくための重要な滋味となっていきます。顔つきや表情は確実に変わっていくのです。

久し振りに会ったことで、「こんなことを始めた」「こういう付き合いができた」といった充実した話を聞かせてもらい、自信に満ちはじめた表情を見ているうちに、否応なく気付かされました。僕はもう一緒にいるべき人間ではないのです。

それは人が変わったとか、付き合う人種ではない、といった意味では全くありません。人生にはいくつかの段階(ステージといってもいい)があり、その折々でいるべき場所、一緒にいる相手が違います。漫画で〜編というのと同じですね。ある時期に出会った人がその後の長い期間人生をともにすることもあるでしょうし、たった数回の出会いが人生を大きく変化させることもあります。

僕には利害関係のない歳下の友人で親しくしている人が少なくて、大事に付き合ってきた相手ではあるのですが、今は距離を取る時期なのだなと感じました。またいつか、いくつかの段階を超えて、お互いの存在が必要だと感じたとき、私たちはまた爽やかに出会い直せるでしょう。

歳を重ねることの寂しさや切なさの多くは自らが成し得なかったことに対する後悔です。そして部下や子供に自分が見た夢を託す気持ちも理解できるようになってきました。でも、それはやっぱり違うのです。自分ができなかったことを誰かに託すのではなく、形を変えて自分の中に落とし込むことができるように考えて行動すべきなのです。

そんなつもりはなかったけど、僕は随分と足踏みもせずに立ち止まってしまっています。またしばらくの間(今度は少し長い時間になるかもしれない)、この友人と会うことはないかもしれないが、今度は僕が「こんなことがあって、今はこれが楽しいんだ」と胸を張って伝えられるようにしたいと思います。


小説や新書、映画や展覧会などのインプットに活用させていただきます。それらの批評を記事として還元させて頂ければ幸甚に存じます。