カバンには本1冊、Spotifyにはアルバム2枚ダウンロードして旅に出ろ
世はまさに大SNS時代!
人からの共感や羨望が数値に置き換えられ、多くのいいねを獲得するほど強者になることのできるこの時代において、旅行は有効な武器になり得ます。インフルエンサーの発信するコスパよく映える旅行スポットが高速で消費され、来たる次の"現実逃避=自由"に向けて人は再び現実へと帰っていきます。
興味があるのはどこへ行き、どんな美しいものを見たかであって、そこでなにを感じたかは二の次にされます。どこかへ行ったという事実はすぐに共有できるが、そこで何を感じたかを共感させることは難しいです。難しいということは時間がかかるということであり、時間がかかることのコスパは低いです。
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最近、宇野常寛という評論家の書く文章をよく読みます。宇野は2020年代のコンテンツ消費のあり方に対し、「虚構が現実に負けている」と評します。
ここで主に語られているのはアニメや映画、ドラマについてですが、これはそのまま旅行にも当てはまります。
もう一度いいますが、ぼくら一人一人が日々何を感じているのかを本当の意味で人と共有することは極めて難しい。この時代に必要なのは〈一目で人からの共感を集められるような経験をすること〉です。
しかしここには、旅行といういわば現実からの脱出口(=虚構)にノることが、あくまでも手軽な共感(=現実)を前提としているというある種のねじれのようなものがあります。現実逃避のための旅行が、いつのまにか「旅行しているという事実を知らしめる」というパフォーマンスにすり替わっている。旅行に浸っているというそぶりを見せながら、実は現実から逃げられないことにみんな自覚的だと言えます。
ぼくらは、ノっているようでノっていません。
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回り道をしましたが、ぼくがここで言いたいのは、ぼくらが旅行を楽しむには、結局は旅行そのものにベタにノりきることでしか成せないと思います。
結局さっき言ったことと同じじゃないかと思うかもしれませんが、このポーズは前半のそれとは似ているようでまるっきり違います。ぼくらは、自分がほんとうにノりきれることを多くは持っていないはずです。
例えば「〇〇に行ったけど何にもなくてつまらなかった」と思うとき、その人自身がつまらないことに過ぎないことをぼくらは認めるべきだと思うだし、メタ論に逃げる(そこへ行った事実だけに頼る)のではなく、ベタなポーズにおいてほんとに楽しかったことについて考えるべきでは無いかと思います。そしてこれは膨大な時間と手間がかかることです。
そしてこれまで旅行について語りましたが、これをそのまま〈人生〉という言葉に置き換えてもいいと思います。
はじめに述べた旅行の話も、例えば訪れた都道府県に色を塗って楽しむのも、美術館ですぐに音声ガイドを聞いたり作品の写真を撮ってすぐに通り過ぎるのも、さらに言えば真面目に何かに取り組んでいる人を嘲るような風潮も、現実がますます力を持ってきていることに始まっている。ベタに語る(=ノる)よりメタに語る(=おりる)方がずっと楽だし、コスパがいい。観客席にいるほうがステージに立つことよりもずっと居心地がいい。これは、特にこの時代において見かけよりもずっと根深い問題です。
そして、偉そうにここまで語っておきながら、そもそもこういう論考の進め方自体が、旅行ないしは人生そのものでなく、それをメタに論じる現実論に結局陥ってしまっています。
結局ぼくはノるための努力を怠っていて、それが嫌でたまりません。
最近は旅行に行くときに、1冊本を持っていって繰り返し読み、2枚ぐらい聞きたいアルバムをダウンロードして擦り切らす勢いで聞いています。とことん浪費した後、たまにその本や音楽に引かれて旅行中に見た景色や知らないおじさんや地元の人や街の匂いのことを思い出します。
結局旅行には入り口も出口もなく、そこにはひと続きの現実しかないです。
でも、そのノっていないようでノった結果生まれるその人だけのもつ一回性の方にぼくは惹かれます。
おわり。
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