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写真なんて全部嘘だと思う。

ぼくらはみんな、ぼくら自身の人生を生きて、色んな人と出会い別れ感情を総動員させ、時には写真を撮ったりする。

写真には真っ赤に染まった空やら水平線に沈む夕陽やら視界一面に咲く野花やら青空をバックにした桜 夜の摩天楼 壮大な山々 荘厳な建造物 愛くるしい動物 大切な人たちが写っている。

だれのために、目の前の現実の何を伝えたくて写真を撮ったのか、よく分からない。その写真はきれいだと思うが、ほんとうにきれいなのかと聞かれると、分からない。

ぼくらはみんな、ぼくら自身の人生を生きて、色んな人と出会い別れ感情を総動員させ、時には写真を見たりする。

他人の撮った写真からは、他人がそこにいたという事実以外に確かなことは得られなくて、ぼくらは写真ごしの世界で起きていることや撮影者のことを想像し、ぼくら自身のフィクションを作り上げる。


写真は、言葉に似ている。


歴史の借り物でしかない言葉と違って、写真を撮るという行為に使われるのは、紛れもない現実である。

ぼくはぼくの人生を生きてたまに写真を撮る。世界は写真を経由した瞬間から次々と、すでにぼくが感じたものではなくなっていく。
ただ、撮りたいから撮る。そこには肯定も否定もなくていい。建物の輪郭に沿って折れる影を撮る。空き地をとる。遠くで犬が鳴いて、犬の鳴いた方を撮る。灰に包まれ赤く灯るタバコの先から、換気扇に向かって伸びる一筋の煙を取る。割れた窓ガラスをとる。カラーコーンを撮る。椅子に置き忘れられた空のペットボトルを撮る。

写真を誰かが見ている。

誰かは写真に写る建物を、空き地を見る。幼い頃の記憶を思い起こす。耳を塞ぐ、換気扇ががたがたと音を立てる。都会の喧騒の中誰かが歩く、車と人と音楽と光が回る。感情を総動員させ、空のペットボトルを見、誰かはとてもきれいだとおもう。大切な人のことを思い出す。
もうわけがわからない

シャッターを切るたびに、現実を借りて、もう取り返しのつかない嘘を何度もつく。

ぼくにとっての世界、ぼくにとってのあなた、あなたにとっての世界、あなたにとってのぼくが、嘘であること。そのことだけが、写真を限りなく真実たらしめる。


おわり

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