マスカットとバナナと努力

生後9か月の息子の手には、四分の一に切られたマスカットが握られている。手をじっと見つめたと思ったら口元に持っていき、大きく開けた口に拳を押し付けるようにしながら手をそっと開く。マスカットは危なっかしく唇の上を滑り、口の中に入る。最後に親指以外の四本の小さな指で押し込まれる。

器用なもんだなと感嘆する。他にもスティック状に切ったバナナにはバナナに、細かくちぎったパンにはパンにはパンに合った方法で、実に上手に食べる。

先週まではこうは行かなかった。バナナなんかを握らせると、拳からはみ出ている部分は上手に口に入れることができるのだが、手のひらに仕舞われた部分をどうやって食べたらいいのかわからず困惑していた。拳に舌を突っ込んでみたりなめまわしてみたりと試行錯誤しており、なるほど「手の中のものを食べる行為」と「拳を開く」という行為が関連づいていないのかと私はやきもき半分ほほえましさ半分という感じで観察していた。何度も何度も繰り返し、穴が開くほど手を観察し、顔も手もべとべとにしながら、彼はついに閃いた。握りこぶしを緩めると、どうやら手の中の物が食べられるぞと。

自然にできるようになる行為なんでないのだなと、そんな様子を見ていると思うのだ。「子供の成長はすごいから、心配しなくてもいつの間にかできるようになっているよ」という言葉は大人から見ると多くの場合確かにそうなのであるが、しかし赤ちゃんからしたら失礼な話だ。何度失敗しても、どれだけ時間がかかっても、何度も何度も諦めずに練習したからできるようになったのよ、と。手が自分の身体の一部だということに気づき、随意に動かせるようだぞと知り、掴むという行為を練習し、何度も失敗しながら物を握る。口に入れたいものがどうもうまく入らない。どうやら拳を直接口に突っ込むのではだめらしいと発見し、トライ&エラーを繰り返すことで、手と口の間に少々の隙間があれば握ったものが口に入るのだと知る。そんな風に日々研究と練習とを重ねたから、今こうしてマスカットを食べるに至ったのよ、自然にできるようになっただなんて冗談じゃないわと叱られてしまうのではなかろうか。

幼少期の私は、運動はからきしだったものの、運動以外のことは大抵なんでもうまくこなした。エレクトーンのグループレッスンでは誰よりも早く課題曲が弾けるようになったし、自分で言うのはおこがましいが、絵や工作もそこそこ上手だった。算数ドリルを埋めるスピードはクラスの誰にも負けないと自分でも理解している、そんな子供だった。そんな私に母はよく言ったものだった。「あんたが周りのみんなと同じだけの努力ができれば、きっとすごいだろうに。努力さえできればね。」

コツコツと頑張り困難を乗り越えるということができない子供だった。新しいことを始めた時に感じるワクワクだけが魅力的だった。向上心も競争心もなかった。楽しく弾いていたエレクトーンはメトロノームが登場した時につまらなくなった。「もっとこうしてごらん」の言葉を聞くと、ワクワクした気持ちは空気の抜けた風船のように萎んでいった。私は努力ができない人間なのだという自己評価は、一緒にエレクトーンを習っていた友人が私には手の届かないような素晴らしい演奏をしているのを見たとき、中学校高校の数学で落ちこぼれていったとき、上塗りされて固まっていった。

マスカットを頬張る息子を見ながら、本当にそうなのだろうかという考えが頭をよぎる。私は努力のできない人間なのだろうか。私はマスカットを、手で握るどころか箸でつまめるのだ。それができるようになるまでに、一体どれだけの失敗を繰り返して、どれだけ挑戦してきたのだろう。どれだけ練習を重ね、どれだけ努力したのだろう。それは途方もないものではないのか。記憶には全くない、写真で見ただけの赤ちゃんの私が手や赤ちゃん用のカトラリーで食事する姿を思い浮かべる。崩れてしまうおにぎり、フォークから逃げる人参やスプーンから滑り落ちる豆腐。それらに、きっと私は何度も挑戦を挑み、反復練習を繰り返したのではなかろうか。

私にも目の前にあるものに淡々とコツコツと挑む素質が備わっているのではという思いが沸き上がる。努力は忌避すべき辛いものではないのかもしれない。失敗することは思っているほど恐ろしいことではないのかもしれない。マスカットが手から滑り落ちたりおにぎりが崩れたりで一喜一憂することなど決してない赤ちゃんが、なんだか悟りを開いた師匠のように見えてくる。なかなか大変になってきたフィンランド語の学習では、覚えられない単語に何度も対峙して焦燥感に駆られるのが私の常である。そんなとき、あらおにぎりが崩れたわ、と思える動じなさを身に着けていたことが、過去の私にもあったのではなかろうか…

そんなことを考えている間に息子は食器を空にし、もっとマスカットはないのかとこちらを見つめている。床や前掛けの食べこぼしにいちいち落ち込むこともなく、まだまだ努力をする気満々の息子が、とても眩しい。

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