【記者コラム】日本人の耐久力が試される
なんという新年なのか。
1月1日夕方に発生した、後に「令和6年能登半島地震」と名づけられる地震の揺れは、新潟にいる我々の足さえもすくませるのに十分な規模だった。1月7日午前現在で死者は126人に達し、不明者はまだ200人以上。人命に係る被害こそなかったが、新潟市では地盤の液状化が甚だしく、家屋倒壊や道路破損などが相次ぎ、その脆弱さが露になった。
こんな時、決まって「自然の猛威を前に、人間のなすすべはない」というようなありきたりな言葉を繰り返すのだが、大規模災害に見舞われるたびに、そうやって現実を呑み込んでいかなければならないのか。
地震災害といえば思い出される話がある。8年程前、日本経済新聞の人気連載「私の履歴書」でアイリスオーヤマの実質創業者で現会長の大山健太郎氏が取り上げられていた。徹底的なマーケットイン≦ユーザーインの思考から、消費者の「欲しい」を具現化するマーケティングや、メーカーベンダーという日本の流通の根底を覆す大胆な手法で経営を拡大し、領域を広げていった。近年では家電メーカーと認識している方も多いかもしれないが、もともと成形プラスチックによる家庭用品を主な製品として扱っていた。
そんなアイリスオオヤマの本社は宮城県仙台市に、生産部門の中心は同じ宮城県の角田市にある。2011年の東日本大震災では大打撃を受けた。震災当時、大山氏はたまたま千葉県にいて、本社に戻ったのは震災の2日後。その翌日に角田工場に社員を集めて「本社工場の機能回復を優先する」という方針を明確にした。
社員もまた被災者なのだ。生きるか死ぬかをくぐり抜け、自宅も倒壊、家族の安否すら判然としない社員も数多く、普通は会社の業務どころではない。それでも「1日も早く工場を復旧し、被災地に生活物資を届けよう」という大山氏の号令で会社は一つになった。義援金として宮城県に3億円を寄付することも伝えた。その結果、角田の生産体制は、震災からなんと10日足らずで再稼働したという。
その一方で大山氏は、すぐさま中国工場に渡り、震災後に必ずや需要が高まるであろうと踏んだLED電球の生産量を、通常の3倍に上げるべく陣頭指揮をとった。これが今や一大家電メーカーとなったアイリスの礎となった。信じられないパワフルさだ。
多くの人は、大災害に見舞われてあの瓦礫の山を目にした時、絶望で身体を満たされてしまうだろう。実際、直接被災していない人の中にも、あのショッキングな光景を見て「生きる意味」を見失ったという人もいる。なのに、この大山氏の強さ、たくましさはどうだ。
この話を読んで感じた。人は不条理な理屈でそれまでの日常を奪われた時、「無理にでも日常を継続しよう」というシンプルな振る舞いによって、なんとか支えられるのかもしれない。自然の猛威によって全てを蹂躙された大山氏にして、「会社のトップである」という日常を継続するシンプルな思考だったのかもしれない。
東日本大震災は被災地だけでなく、日本人そのものが試された。それから8年たって、ようやく立ち上がれたタイミングで、今度は新型コロナウィルス感染症が日本経済を再び叩きのめした。そのコロナ禍が、ようやく終焉を迎え、いざこれからという新年1月1日にこんな大地震が起こった。
それでも立ち上がれると信じよう、日本人ならではの「しなやかな強さ」を持ってすれば。
(編集部・伊藤直樹)
にいがた経済新聞 2024年1月7日 掲載
【にいがた経済新聞】
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