子どもを取り巻くコミュニティサイズの変化とことばの発達
(文:ふるかわりさ)
私立新留小学校(仮称)では、「食とことば」を学びの柱としています。
今回は「ことば」の話。
健やかさは口より入り、豊かさは口より出ず
晋王朝の時代の学者 傅玄の「病は口より入り、禍は口より出ず」という言葉を、ポジティブに言い換えた私たち独自の表現です。
健康は私たちが食べるもので作られ、豊かさは私たちが発する言葉から形作られます。
人は、豊かに生きるために学びます。
現在、教育業界ではICT教育、グローバル教育など様々な議論が交わされていますが、そのいずれもしっかりとした自己という土台がなければ成立しないものばかりです。
健康の土台(食)、思考とコミュニケーションの土台(ことば)が育たないままに、それらアプリケーションをどれだけインストールしようとしても、本来の目的である「豊かに生きる」ことを実現するのは難しいのではないでしょうか。
食とことばについてはこちらの記事もぜひ!↓
子どもを取り巻くコミュニティの質とサイズの変化
少し前の時代は暮らしと地域社会のつながりが強く、私たちの生活の中には、買ってしまったほうが安いと感じるものや、無くなっても直接的には影響がなさそうな ”面倒なこと” がたくさん存在していました。
子どもたちはそんな社会の中で子どもとしての役割を任されながら視界の片隅で大人たちの働きぶりを見続けることで、今の自分の居場所と 歳を重ねていく過程での自分の役割の変化をぼんやりと見ていました。
人が育つ、よい「場」とは、3世代(必ずしも血縁である必要はない)それぞれに役割/居場所があり、皆の力がうまく合わさって共通の喜びが得られる場なのではないかと思います。
哲学者・内山節氏は、著書『子どもたちの時間』の中で、
「かつて農山村の子どもたちは「小さな村人」として役割を与えられ、成長していた」という視点を皮切りに、子どもが本来持っている「時間」の感覚を大切にし、自由な遊びを通じて得られる成長機会、そして自然や地域社会とのつながりを再確認することの重要性を説いています。
暮らしが便利になり、どんなものも、どんなサービスもお金で買う/買える時代になり、その環境は大きく変化しました。
時代が変われど大人たちの忙しさは変わらないのですが、子どもが身を置く場所は、働く大人と ごちゃっと交われた「場」から、"サービス化された 子どものための居場所” になり、子どもたちがコミュニケーションをとる相手も、親、先生、同級生といった、同質性の高い集団に閉じてしまったのです。
遊びと娯楽
基本的に親も先生も、(良くも悪くも)役割として子どもに構います。
ベクトルでいうと圧倒的に「大人 → 子ども」という方向の矢印が多くなります。受け身のままでも関係性が成り立つ構図です。
ゲームや動画サイトなどを通じて提供されるコンテンツも、「娯楽 → 子ども」の関係と言っていいでしょう。
一方で(「娯楽」とよく似ているように見えますが)「遊び」は、自らが相手に働きかけ、お互いが心地よく楽しめるルールを都度作り上げなければ成立しません。友達相手でも、自然相手でも「相手 ←→ 子ども」「自然 ←→ 子ども」の相互の関わりの上で成り立っています。
相互に作用し合う関係性(相手←→自分)を構築する力は、受け身の関係性(→自分)に慣れきってしまった後ではなかなか育ちにくいものです。
そういう意味で、幼少期、学童期にいかに親や同世代の友達の「外」との関わりを持つ機会を持てるかが、その後の人生の豊かさを大きく左右するのではないかと思います。
「相手 ← 子ども」 という関係性の重要性
現代の家庭や学校において、最も少ないのがじっくりと子どもの話に耳を傾け切ってくれる大人の存在です。
まとまった量の、とりとめもない話や 子どもがまだしっかり言語化しきれていないけど伝えたいと感じている話に、うんうんと相槌を打ちながら時間を気にせず聞いてくれる存在こそが、今の(広義の)教育現場に最も必要なものかもしれません。
同質性の高い集団内のコミュニケーション
同質性の高い集団の中でのコミュニケーションは、ほとんどの場面で具体の話に終始します。
「今日はハンバーグが食べたい。」
「昨日見たドラマの主人公が”マジやばかった”。」
「早くお風呂に入りなさい。」 など
具体を共有している人同士の会話は、必然的にYes /Noで答えられるものや、短文(あるいはスタンプ!)でやり取りできる内容が多くなります。
試しに、家族との会話を振り返ってみてください。まとまった長さのことばで自分の考えを伝えたり、ある程度の量の文章を聞ききったり、読んで理解したりすることに慣れる機会が圧倒的に少ないことに気づくと思います。
一般的に、子どもは9歳から10歳の頃に、抽象的な概念を理解し使えるようになっていくとされていますが、同質性が高く、しかもベクトルが自分に向いた関係性の中での会話だけでは、抽象は育ちにくく、語彙も増えにくいという課題があります。
幼児期の子どもたちは、その発達の過程で自身の感情や要求をうまく言葉に表すことができず、感情が爆発することがあります。今それが、青年期やそれ以降の大人の世界でも起こっているのではないでしょうか。
「抽象」の大切さについては↑こちらがおすすめ。
1/150(ひゃくごじゅうぶんのいち)
新留小学校のフィロソフィーに「1/150」(ひゃくごじゅうぶんのいち)という言葉があります。
※上記のリンクをクリックするとPDFファイルがダウンロードされます
150人という数字は、イギリスの人類学者ロビン・ダンバー氏にちなんで「ダンバー数」と呼ばれています。ヒトを含む霊長類が、互いを認知し合い、安定した集団を形成できる個体数の上限が150人程度であると提唱しました。
同じ学校に通う同級生や異学年、教職員をはじめ学校に関わる人、そして半径300m圏内に暮らす人や、半径30km圏内で関係する人。域外からも継続的に関わりを持ちはじめる人。
地域のコモン(共有地)としての小学校という学び場は、一人ひとりにとっての150人と出会いつながる役割を担うと考えています。
自分の「150人」はどんな彩に満ちているでしょうか?
同質に閉じず、世代を超え、地域を超え、価値観を超えたダイナミックな150人を描いていきませんか?